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初めての日々

島津耕造

短編です。これは実際に起きた出来事の記録となっております。楽しんでいただけたら幸いです。

小説

24,352文字

僕は素御(すみあ)と立っているべき場所に立っていると感じた。深い森の中の家だった。赤い寄棟屋根の家。小屋と云ってもよかった。屋根の赤は塗料の赤ではなくて、粘土を焼いた瓦の赤だった。雨が降れば濡れて暗い赤になり、晴れれば乾いて明るい赤になるような、そういう赤だった。家の前には踏み固められた土があって、その先はもう森だった。杉や楢や樫が高く茂って、その幹の隙間から薄い光が射していた。光は地面に落ちると苔の上で砕けた。苔は湿っていて、踏むと靴の裏がわずかに沈んだ。
僕らはせっせと引っ越し資材を箱から外に出した。箱はいくつもあった。木の箱、段ボールの箱、布で包んだだけのもの。僕は重いものから先に出していった。素御は軽いものを丁寧に出していった。皿を一枚ずつ確かめるようにして出していた。欠けているものがないか、表面を指でなぞっていた。僕はその様子を横目で見ながら、工具の入った箱を開けた。鋸、斧、鉋、金槌、それから釘が一袋。釘は錆びないように油紙に包まれていた。
そしてそれぞれの部屋を作っていった。僕らの小さな家は2LDKの一階建てだった。居間に台所がついて、それから僕の部屋と素御の部屋があった。僕の部屋は東向きで、窓から朝の光が入るはずだった。素御の部屋は西向きで、夕方に光が入るはずだった。居間は南向きで、一番広かった。壁は白い漆喰で、ところどころに小さな罅が入っていた。その罅は家が呼吸しているようだった。
僕は自分の部屋にまず寝台を置いた。寝台は木の枠に麻の布を張ったもので、寝転がると少したわんだ。それから小さな卓を窓の下に置いた。椅子はまだなかったから、床に座って窓の外を見た。窓の外には楢の幹があって、その幹に蔦が絡んでいた。蔦は緑というよりも黒に近い緑だった。
素御は自分の部屋にヴァイオリンの箱を最初に運び入れた。それからカーテンにする布を窓の上の釘に掛けた。布は生成りの色で、光を通すと部屋が仄かに暖かくなった。素御は床を箒で掃いた。箒の音がさらさらと聞こえた。
台所には竈があった。竈は石を積んだもので、上に鉄の五徳が載っていた。僕はその竈の具合を確かめた。石の積みは丁寧で、隙間がほとんどなかった。この小屋を以前使っていた誰かが組んだものだろう。鍋は二つあった。大きいのと小さいのと。大きい方は底が厚くて、煮込みに向いていた。小さい方は湯を沸かすのにちょうどよかった。
素御は「何でも言ってね」と僕に言った。僕は素御に深く感謝した。その言葉は簡素だったが、僕の胸のどこか深いところに届いた。何でも言ってね、という言葉は、ここにいていいのだということの確認だった。僕はここにいていいのだ。この森の中の小屋に、素御と二人で、いていいのだ。
日が傾いて、森の中の空気が冷たくなった。木の葉が風で揺れると、その隙間から差し込む光が揺れた。光が揺れると影も揺れた。森全体がゆっくりと呼吸しているようだった。
二人で森の木を伐りだしてきて火を熾した。僕が斧で枝を落とし、素御がそれを適当な長さに折っていった。乾いた枝と湿った枝を分けて、乾いた方を下に敷き、その上に湿った方を載せた。火打ち石を打つと火花が散って、乾いた草に移った。草が燃え、枝が燃え、やがて太い枝にも火がついた。炎は深く暖かった。炎は赤ではなくて、赤の奥にある橙色だった。時折、木の中の水分が弾けて、ぱちぱちと音がした。その音は僕らの最初の夜の音だった。
その火で夜は湯を沸かして白湯を飲んだ。白湯は何の味もしないはずなのに、喉を通るときに甘く感じた。疲れた体が水を欲していたからだろう。素御は白湯を両手で包むようにして持ち、湯気を顔に当てていた。僕も同じようにした。白湯の湯気は火の煙とは違う、清潔な湯気だった。
火の前に座っていると、森の中から様々な音が聞こえてきた。虫の音、何かの動物が枝を踏む音、遠くの梟の声。僕はそれらの音をひとつずつ聞き分けようとした。けれどもやがて全部がひとつの音になって、僕の意識はそこに溶けていった。
素御が何か言った。僕は聞き取れなかった。「何?」と訊くと、素御は「星が見えるわ」と言った。僕は火から目を離して空を見上げた。木々の間の、細い空に、星が光っていた。星の光は火の光とは違った。火の光は近くて揺れたが、星の光は遠くて動かなかった。あの光がここまで届いているということが、不思議だった。
素御は火に手を翳していた。火に照らされた素御の横顔を僕は見た。影が頬の上で揺れていた。鼻の線が、顎の線が、火の光で浮かび上がっていた。素御は此処にいる。僕も此処にいる。この森の中に、僕らは此処にいる。それだけのことが、不思議に確かだった。
僕らはとても疲れはてて眠りこんだ。眠る前に僕は火に灰を被せて、種火が朝まで持つようにした。灰を被せると炎は消えて、代わりに赤い熾火が見えた。熾火はゆっくりと明滅していた。呼吸しているようだった。素御はもう目を閉じていた。寝息が小さく聞こえた。僕はその寝息を聞きながら自分の寝台に横になった。体の節々が痛んだ。腕も脚も背中も、どこもかしこも痛かった。けれどもそれは心地よい痛みだった。今日という日を生きた証の痛みだった。

朝起きると朝陽が森の先から射していた。僕は目を開けたとき、最初に天井の木目を見た。木目は川の流れのようだった。それから光が目に入った。窓から射す光は金色がかった白だった。光の中に塵が浮いていて、その塵がゆっくりと回っていた。
素御が起きて僕に言った。
「朝陽が綺麗よ」
素御は窓の前に立っていた。生成りのカーテンを手で横にずらして、外を見ていた。僕は起き上がって素御の隣に行った。窓から見える景色は、森の木々の間を朝陽が横に射しているところだった。朝陽は木の幹を赤く照らし、幹の裏側には長い影ができていた。地面の苔は朝露に濡れていて、朝陽を受けてきらきらと光った。
僕らは朝陽を見た。僕らが見た最初の朝陽だった。この小屋で迎える最初の朝の、最初の朝陽だった。朝陽はただ僕らの目の中を覗き込んでいた。眩しかったけれど、目を逸らすことができなかった。僕らはそれを見つめ返して、深く深呼吸した。朝の空気は冷たくて、肺の奥まで届いた。吐く息が白く見えた。
素御は台所に行って竈に火を入れた。昨晩の種火はまだ生きていた。素御はそれに細い枝を足して、息を吹きかけた。火が立った。小さな鍋に水を入れて五徳に載せた。僕は外に出て井戸から水を汲んできた。井戸は家の裏手にあって、石を積んで作られた古いものだった。釣瓶を降ろすと水の音がした。水は冷たくて透明だった。
朝は白湯を飲んだ。それから残っていたパンの端を分け合って食べた。パンはもう乾いていたが、白湯に浸すと柔らかくなった。
僕は家の周りの植物に水をやった。家の周りには誰かが植えたらしい草花があった。名前のわからないものもあったが、菫と思しきものや、薄荷のような匂いのするものがあった。僕は井戸から汲んだ水を柄杓で少しずつかけていった。土は乾いていたから、水はすぐに吸い込まれた。
素御はヴァイオリンを弾いていた。窓が開いていたから、ヴァイオリンの音が外にまで聞こえた。素御の弾く曲は僕の知らない曲だった。旋律は高いところと低いところを行ったり来たりして、時折ぴたりと止まった。止まったところで鳥が鳴いた。それから素御はまた弾き始めた。鳥と素御のヴァイオリンが交互に鳴っているようだった。
僕らの日々はこのように始まったのだ。朝陽が僕らを見つめている。僕らはその朝陽のもとで動き始める。水を汲み、火を焚き、草に水をやり、音を奏でる。それだけのことだった。それだけのことが、僕には充分だった。

数日が過ぎた。僕と素御はその間に家の中のものを少しずつ整えていった。棚を拵えて皿を並べた。竈の脇に薪を積んでおく場所を作った。素御は窓の下に小さな棚を据えて、そこにヴァイオリンの松脂や弦の替えを置いた。僕は工具を壁に掛けた。釘を打って、鋸と斧と鉋をそれぞれ引っ掛けた。金槌だけは手の届くところに置いた。よく使うからだった。
森の中での暮らしは、村での暮らしとは時間の流れ方が違った。時計はあったが、時計を見る理由があまりなかった。朝陽が昇れば起き、日が暮れれば眠る。その間に為すべきことを為す。それだけだった。為すべきことは、探さなくてもそこにあった。水を汲むこと、薪を割ること、食事の支度をすること、家の修繕をすること。雨が降れば雨漏りの場所を探し、風が吹けば戸の立て付けを確かめる。一つの仕事が終わると次の仕事が見えた。それは村にいた頃とは違う種類の忙しさだった。村では仕事は与えられるものだった。此処では仕事は発見するものだった。
素御は毎朝ヴァイオリンを弾いた。決まった時間ではなかったが、朝の支度が終わると弾き始めた。素御のヴァイオリンは古いもので、表面の塗料がところどころ剥げていた。けれども音は澄んでいた。朝の冷えた空気の中で弦を鳴らすと、音はいつもより硬く、遠くまで届いた。素御は弾く前に必ず松脂を弓に塗った。松脂は琥珀色の小さな塊で、弓の毛の上を何度も往復させた。それから弦の調律をした。一本ずつ音を確かめて、巻き軸を回して合わせた。その準備の音も、僕には音楽のように聞こえた。
僕はその間に外の仕事をした。家の周りの草を刈ったり、屋根の瓦を確かめたり、井戸の石積みを点検したりした。ある朝は屋根に登って瓦のずれを直した。屋根の上から見ると、森は果てしなく広がっていた。木々の緑が波のように連なって、遠くに山の稜線が見えた。山の頂は雲に隠れていた。この森がどこまで続いているのか、僕には分からなかった。けれども、分からなくてよかった。
薪割りは午前中にした。斧を振り上げて、薪の上に打ち下ろす。薪が左右に割れて、地面に転がる。その繰り返しだった。木の種類によって割れ方が違った。杉は真っ直ぐに割れた。楢はなかなか割れなかった。楢の繊維は粘り強くて、斧が食い込んでも離さなかった。何度も打ち込んでようやく割れた。割れたときの音は乾いた良い音がした。
昼になると二人で簡素な食事を摂った。乾いた肉や、森で採った茸や、井戸水で冷やした果物などだった。茸は森の中のあちこちに生えていた。椎茸に似たもの、平茸に似たもの、それから名前の分からない小さな白い茸。白い茸は食べられるかどうか分からなかったから、僕らは手を出さなかった。森の恵みを頂くには、その恵みのことをよく知らなければならなかった。
午後は二人でそれぞれのことをした。僕は読書をすることもあったし、森を歩くこともあった。持ってきた本は数冊しかなかったから、同じ本を繰り返し読んだ。繰り返し読むと、前に読んだときには気づかなかったことに気づいた。言葉は同じでも、読む側が変わっていた。素御は縫い物をしたり、花を摘みに行ったりした。素御の縫い物は丁寧だった。針と糸で布を繕うとき、素御は息を止めるようにして一針ずつ刺した。僕にはできない仕事だった。
夕方になると火を焚いた。火を焚くのは僕の仕事だった。素御が料理をして、僕が火の番をした。火の番というのは、火が大きくなりすぎないように、また小さくなりすぎないように、薪を足したり灰を被せたりすることだった。それは単純な仕事だったが、僕はその仕事が好きだった。火を見ていると心が静まった。炎の形は一瞬として同じではなかった。揺れて、伸びて、縮んで、また揺れた。その動きをずっと見ていることができた。
夜が深まると、森はまた別の顔を見せた。昼の森は緑と光の森だったが、夜の森は音と闇の森だった。虫の声が四方から聞こえた。蛙の声が遠くで響いた。時折、何かの動物が近くを通った。枝が折れる音がして、足音が遠ざかっていった。僕と素御はそれらの音を聞きながら、火の前で白湯を飲んだ。白湯の湯気が顔に当たった。素御が何か呟いた。「何?」と僕が訊くと、「何でもない」と素御は言った。

僕と素御(すみあ)は森の深くから村へ向けて歩いた。村にいらなくなった資材を売るためだった。引っ越しの箱の中には、この小屋には不要なものがいくつかあった。それらを売って、代わりに必要なものを買おうという算段だった。
朝早くに出発した。空はまだ薄い紫色で、東の端だけが白くなっていた。僕は木の台を背負い、素御はラジオと細々としたものを袋に入れて担いだ。木の台は重かったが、歩けない重さではなかった。背中に当たる木の角が少し痛かった。
村までの道のりは川が流れていて、それに沿って歩いていくと村だった。川は浅い川だった。底の石が見えるほどに透き通っていた。石は丸くて白いものが多かったが、時折、赤や青の石が混じっていた。川の水は音を立てて流れていた。その音は一定のようでいて、実は絶えず変わっていた。石に当たる角度が変わるたびに、音の高さが変わるのだった。僕と素御はその川音を聴きながら歩いた。
川沿いの道は細かった。人ひとりがやっと通れる幅で、片側は川の斜面、もう片側は森の端だった。道には落ち葉が積もっていて、踏むと乾いた音がした。空気は少しずつ暖かくなっていった。歩いているうちに体も温まった。
途中には長い角を生やした牡鹿がいて、草を食んでいた。僕と素御が近づいても牡鹿は逃げなかった。ただ顔を上げて僕らを見た。それから興味を失ったように、また草を食み始めた。牡鹿の角は左右に三叉ずつ分かれていて、先端が少し白くなっていた。体は茶色で、腹の辺りが薄い色をしていた。目は大きくて黒くて、その中に森が映っていた。
素御は途中で白い花を採って、茎で編んで冠を作った。花の名前を僕は知らなかったが、素御は何か呟いた。聞き取れなかった。素御は花冠を自分の頭に載せた。白い花弁が素御の黒い髪の上で揺れた。風が吹くたびに揺れた。僕はその姿を見て、何か言おうとしたが、何も言わなかった。言葉にすると壊れるものがあるように思えた。
村に着くと僕らは資材を売った。村は川が広くなったところにあった。川幅は家が三軒並ぶほどあった。水は浅いところと深いところがあって、深いところは青く見えた。石橋が架かっていて、橋を渡ると村の広場に出た。橋は古い石を積んだもので、欄干は低かった。橋の上から川を覗くと、水の中に大きな魚が見えた。鯉のような魚だった。
広場には市が立っていた。市といっても大きなものではなく、十ほどの露店が並んでいるだけだった。野菜を売る者、布を売る者、金物を売る者がいた。野菜は大根や蕪や葱が並んでいた。みな土がついたままだった。子供が二人、広場の隅で追いかけっこをしていた。犬が一匹、日向で寝ていた。村の空気は森の中とは違った。人の暮らしの匂いがした。煙の匂い、食べ物の匂い、家畜の匂い。
僕らは空いている場所に木の台やラジオなどを並べた。木で作った台やラジオなどであった。台は年配の男が買った。男はその台を両手で持ち上げて、重さを確かめてから「いい作りだ」と言った。ラジオは若い女が買った。女はラジオの摘みを回して、何か聞こえるか試した。何も聞こえなかった。電波がここまで届かないのかもしれなかった。それでも女はラジオを買った。小さな道具類は何人かの手に渡った。
34ピースにしかならなかったが、僕と素御は満ち足りていた。34ピースは多い額ではなかったけれど、僕らの暮らしに必要なものを買うには十分だった。それに、不要なものがなくなったということ自体が心地よかった。荷を下ろすというのは、そういうことだった。
村へ行くと美味しそうなパン屋があって、僕と素御はそれらを買って食べた。パン屋は広場の角にあった。石造りの小さな店で、窓から湯気が出ていた。中に入ると小麦の焼ける匂いが充満していた。パン屋の主人は太った男で、白い前掛けをしていた。棚にはいくつもの種類のパンが並んでいた。フランスパンやオレンジピールとチョコクリームが入ったパン、クロワッサンなどを食べた。フランスパンは外が硬くて中が柔らかくて、噛むと小麦の味がした。オレンジピールとチョコクリームのパンは甘くて、オレンジの皮の苦みがチョコの甘さと混ざって良い味がした。クロワッサンは層になっていて、噛むとぱりぱりと崩れた。バターの香りがした。僕はミルクを飲んだ。ミルクは温かくて、白くて、僅かに泡が立っていた。焼きたてのパンはどれも美味しかった。素御は食べながら「美味しいわね」と言った。僕は頷いた。
そこで素御と僕は別れて、僕は役場へ行った。役場で住民登録をするためだ。素御は村の中を見て回ると言った。何か必要なものがあれば買っておくと言った。僕は役場へ向かった。役場は広場から少し離れたところにあった。木造の二階建てで、入口に看板が掛かっていた。中に入ると受付の女がいた。僕は住民登録の用紙を受け取って記入した。名前、住所、同居人の名前。住所のところには「森の奥の赤い屋根の小屋」と書いた。受付の女はそれを見て少し眉を動かしたが、何も言わなかった。判を押して、控えをくれた。
森の奥深くに住んでいても村で住むには住民として登録しなければならないのだ。それが此処の決まりだった。住民として登録すると、村の市で売り買いができ、道を使うことができ、困ったときに助けを求めることができた。
役場を出ると日はもう高くなっていた。僕は広場に戻って素御を探した。素御は布屋の前にいた。布を何枚か買っていた。白い布と、藍色の布と、赤い格子柄の布だった。「カーテンにするの」と素御は言った。僕は頷いた。
帰り道も川に沿って歩いた。行きよりも荷物が軽かったから、足取りは軽かった。日は傾きかけていたが、まだ明るかった。川の水面に光が反射して、水の上を光が走っていた。光は水の流れに合わせて動いた。石に当たるところでは光が砕けて、小さな輝きになった。深みのところでは光が暗い底に吸い込まれていった。
素御は花冠をまだ頭に載せていた。花は少し萎れていたが、まだ白かった。素御は歩きながら川を見ていた。「魚がいるわ」と素御が言った。僕も川を覗いた。浅瀬の石の陰に、小さな銀色の魚が何匹かいた。尾鰭を揺らして、流れの中に留まっていた。「今度獲ろう」と僕は言った。素御は頷いた。
途中、行きに見た牡鹿がまだ同じ場所にいた。同じ場所で、同じように草を食んでいた。まるで僕らが行って帰ってくる間、ずっとそこにいたかのようだった。牡鹿は僕らを見たが、やはり逃げなかった。素御は立ち止まって牡鹿を見た。牡鹿も素御を見た。二つの目が合った。それからどちらともなく目を逸らした。
川沿いの道を歩いていくと、やがて森の中の道に入った。木々が頭の上で枝を交わして、緑の屋根を作っていた。その屋根の隙間から夕方の光が差し込んでいた。光は斜めで、木の幹に長い影を作った。空気が急に冷たくなった。森の中の空気は外よりも冷たかった。
僕は疲れ果てて家へ帰った。小屋が見えたときには、足が棒のようになっていた。帰ってご飯を少し食べると眠った。ご飯は前日の残りの肉を薄く切って焼いたものだった。塩を振っただけの簡素なものだった。僕はそれを噛みながら、今日という日のことを思い返した。村は思っていたよりも近かった。人々は思っていたよりも穏やかだった。パン屋の主人は気さくで、布屋の女は素御に話しかけていた。役場の受付は事務的だったが、不親切ではなかった。ここでやっていけるかもしれない、と僕は思った。この森の中の小屋で、素御と二人で暮らしていける。そう思いながら眠った。
起きると素御が隣で眠っていた。素御は僕の部屋に来て、床の上に毛布を敷いて眠っていた。時計は午後6時を指していて、もう真っ暗だった。窓の外は闇で、木々の輪郭すら見えなかった。虫の声だけが聞こえた。
素御は「あなたは充実してそうでいいな。私は虚無よ」と言った。僕は思わず噴き出した。「なんで」と僕は言った。「部屋の整理がついていないからよ、あなたは自分の部屋にいる方が充実してそうだわ」と素御は言った。「そんなことはないよ」と僕は答えた。素御の部屋はまだ箱がいくつか開けられないまま隅に積んであった。ヴァイオリンの箱だけが定位置にあって、あとはまだ途中だった。僕は「明日一緒にやろう」と言った。素御は小さく頷いた。
僕と素御はお香を焚いて一緒に眠ることにした。お香は素御が村で買ってきたものだった。白檀の匂いがした。煙が細く立ち昇って、天井に向かっていった。煙は天井の近くで横に広がり、やがて消えた。穏やかな夜だった。窓の外では風が木の葉を揺らしていた。その音は遠い波の音に似ていた。「歯を磨いてくるよ」と僕は言った。僕は外に出て、井戸の水で歯を磨いた。歯を磨きながら空を見上げた。星が出ていた。こんなに星が見えるのは、村にいた頃にはなかったことだった。森の上の空は狭かったが、その狭い空に星がぎっしりと詰まっていた。

次の日は二人で素御の部屋を整えた。箱を開けて、中のものを一つずつ出した。素御の荷物は僕のものより多かった。衣類、本、楽譜、小さな人形、手鏡、針と糸、それから何枚もの手紙の束。手紙の束は紐で括られていて、素御はそれを棚の奥に仕舞った。僕は何も訊かなかった。素御が仕舞いたいものは仕舞えばいい。
素御の部屋には窓の下に小さな机を置いた。それは引っ越しの荷物の中にあったもので、脚が少しぐらついていたから、僕が釘を打ち直して固定した。机の上に素御は楽譜を置いた。楽譜は手書きのもので、五線譜の上に黒いインクで音符が並んでいた。僕にはそれが読めなかったが、素御にとっては読める言葉なのだった。
昼過ぎには部屋の整理が終わった。素御は満足したように部屋を見回した。「これでいいわ」と素御は言った。僕も部屋を見た。小さな部屋だったが、素御らしい部屋になっていた。窓には昨日買った生成りの布がカーテンとして掛かっていて、棚にはヴァイオリンの道具と本が並び、隅に衣類が畳んで積んであった。花瓶はまだ空だった。
その午後、素御は森の端に花を摘みに行った。僕も一緒に行った。素御は花のことをよく知っていた。これは何、あれは何と、僕が訊くたびに教えてくれた。「これは矢車菊よ」「これは撫子」「これは名前がないの、私が勝手に名前をつけたの」。名前をつけた花は何という名前なのかと僕は訊いた。素御は少し考えてから「内緒」と言った。素御は何本かの花を選んで摘んだ。白い花と紫の花を混ぜて束にした。家に帰って花瓶に生けた。花瓶に花が入ると、素御の部屋は完成した。

次の日、僕と素御(すみあ)は森の深くで狩りをした。食料が心許なくなってきたからだった。乾いた肉はあとわずかで、茸も採り尽くしていた。森の恵みで生きるなら、狩りは避けて通れないことだった。
僕が槍を持ち素御が弓矢を持った。槍は引っ越しの荷物の中にあった。柄は樫の木で、穂先は鉄だった。穂先は少し錆びていたから、僕は前の晩に砥石で研いでおいた。素御の弓は楢の木を削って作ったもので、弦は獣の腱だった。矢は竹を削って羽根をつけたものが六本あった。矢筒は革製で、素御は背中にそれを負った。
朝露がまだ残っている頃に家を出た。森は朝の光を受けて静かだった。鳥の声が遠くで聞こえたが、歩くにつれて声は途切れた。森の深くに入ると、鳥も少なくなるのだった。その代わりに地面の匂いが濃くなった。腐葉土の匂い、茸の匂い、湿った木の匂い。それらが混ざって、森の深くの匂いになっていた。
僕と素御は足音を殺して歩いた。枯れ枝を踏まないように、落ち葉の上をそっと歩いた。素御は僕よりも歩くのが上手だった。素御の足は地面の上を滑るように動いた。僕は時折、枝を踏んで、ぱきりという音を立ててしまった。そのたびに素御が振り返って、人差し指を唇に当てた。僕は頷いた。
僕と素御は森をさらに深くまで進んでいくと遠方に、一匹の牡鹿が見えた。牡鹿は木と木の間に立っていた。体を斜めにして、地面の草を食んでいた。角は大きくて、枝分かれしていた。先日川沿いで見た牡鹿よりもさらに大きかった。体は灰がかった茶色で、背中に朝の光が当たって、毛が金色に光っていた。
素御が弓矢をきりりと絞った。素御は木の幹に体を寄せて、半身になって弓を引いた。弦が軋む音がした。素御の目は牡鹿を見据えていた。牡鹿が顔を上げた。何かの気配を感じたのかもしれない。牡鹿と目が合う刹那、素御は矢を放った。矢は空気を切って飛んだ。矢は牡鹿の瞳に命中した。牡鹿は声を上げずに崩れた。前脚が折れ、次に後脚が折れ、体が地面に倒れた。
僕と素御は近づいて牡鹿の様子を調べた。立派な角を持った牡鹿だった。角は近くで見るとさらに立派で、表面に細かい溝が刻まれていた。体は大きくて、僕ひとりでは運べないほどだった。すでに絶命していた。目は開いたままだった。矢は瞳を貫いて頭蓋の中に入っていた。
素御は懐からナイフを取り出すと、牡鹿の心臓を抉った。ナイフは小ぶりだったが刃は鋭かった。素御の手つきは慣れていた。肋骨の間にナイフを差し入れ、手首を返して切り開いた。血が溢れだしてきた。血は暗い赤で、温かかった。地面の落ち葉の上に広がって、土に吸い込まれていった。素御は血が流れ出すのを待った。僕も黙ってそれを見ていた。
僕と素御は牡鹿を一緒に運んで川につけておいた。川まで運ぶのは骨が折れた。僕が前脚を持ち、素御が後脚を持って、二人で引きずるようにして運んだ。川に着くと、浅瀬に牡鹿の体を横たえた。冷たい水が牡鹿の体を包んだ。血が水に混じって、下流に向かって薄い赤の筋ができた。血抜きをするためだった。
森をさらに進むと泥濘に出た。地面が低くなっていて、水が溜まっているところだった。木の根が地面から露出していて、その間に黒い泥が光っていた。泥濘では猪が泥を擦りあってヌタ場にしていた。三頭か四頭の猪がいた。大きなのと小さなのがいた。猪は泥の中で体を転がして、皮膚についた虫や汚れを落としていた。僕と素御は木の陰からそれを見た。
僕は素御を置いて突き進むと一匹の猪を槍で一突きにした。槍は猪の脇腹に入った。猪は鋭い声をあげた。その猪は絶命の声をあげ、他の猪は散り散りに逃げ去った。泥が跳ね、枝が折れる音がして、あっという間に静かになった。猪の声が森の中に反響して、やがて消えた。残された猪は泥の中で横たわっていた。槍は脇腹に深く刺さっていた。
僕は槍で突いた猪を腕に抱えると、素御とともに先ほど川につけておいた牡鹿のところへ戻った。猪は牡鹿より小さかったが、それでも重かった。泥で体が汚れていて、運ぶと僕の腕も泥だらけになった。
牡鹿の血は粗方抜けていた。水に浸けておいた甲斐があった。牡鹿の体は冷えていて、肉は締まっていた。僕は素御のナイフを借りて牡鹿の内臓を剥いだ。腹を裂いて、胃と腸と肝臓と心臓を取り出した。心臓はすでに素御が切り開いていたから、中は空だった。内臓は川の下流に流した。魚の餌になるだろう。さらに猪の内臓も剥いだ。猪の内臓は牡鹿のものより小さかったが、作業は同じだった。僕と素御は二匹の獲物を持って小屋へ戻った。帰り道、素御は何も言わなかった。僕も何も言わなかった。獲物を運ぶのに精一杯だった。
小屋に着くと、僕は獲物を外の地面に置いた。素御が火を熾し、僕が肉を焼いた。肉はまずナイフで切り分けた。牡鹿の肉は赤くて、筋がしっかりしていた。猪の肉は牡鹿よりも脂が多かった。それぞれを適当な大きさに切って、木の串に刺した。肉は牡鹿のものも猪のものも焦げ目がつくほどによく焼いた。焦げ目がつくまで焼くのは、森の獣の肉を食うときの鉄則だった。焼くと脂が滴って、火に落ちて、じゅうと音がした。煙が立った。肉の焼ける匂いが森に広がった。
僕と素御はそれを食した。牡鹿の肉は硬かったが噛むほどに味が出た。猪の肉は柔らかくて、脂の甘みがあった。塩を振って食べた。素御は静かに食べた。僕も静かに食べた。腹が満ちると、体の奥から力が湧いてくるのを感じた。
「1週間はこれで持ちそうね」と素御が言った。残った肉は薄く切って、塩を擦り込んで、竈の上の棚に吊るした。煙で燻されて、長持ちするようになるはずだった。
食後僕と素御は少し眠ってから、机と椅子を作り出した。居間にはまだ机も椅子もなかったのだ。床に座って食事をしていた。それでも困りはしなかったが、素御が「机が欲しいわ」と言ったのだった。
まず樹を鋸で切り倒し、それを斧で割っていった。家の近くの楢の木を一本選んだ。幹の太さは僕の腰ほどもあった。鋸を引くのは大変な仕事だった。僕が鋸を引き、素御が幹を押さえた。刃が木に食い込むたびに、おが屑が飛んだ。おが屑は黄色くて、木の匂いがした。木が倒れるとき、森に轟音が響いた。鳥が一斉に飛び立った。倒れた木を斧で割って板にした。板はなかなか真っ直ぐにならなかった。斧の刃の入る角度を少しずつ変えながら、何度も打ち込んだ。
机は多少難儀したが、なんとかうまく作ることができた。天板は楢の板を三枚並べて、裏から角材を渡して釘で留めた。脚は四本で、少し太めにした。安定するようにした。表面は鉋で削って滑らかにした。削ると楢の木目が現れた。美しい木目だった。年輪が細かく詰まっていた。椅子も2つ作った。椅子は机よりも簡素だったが、座ると丁度良い高さだった。背もたれはなかったが、それで十分だった。
僕と素御はそれらを作り終えてから、居間に据えた。机を真ん中に置いて、椅子を向かい合わせに置いた。素御は椅子に座って、手のひらで天板を撫でた。「いいわね」と言った。僕は葉巻を吹かし、素御は花瓶に花を生け、一日の疲れをお互いに労ってから寝床に入った。葉巻は引っ越しの荷物の中にあった最後の一本だった。煙は青白くて、天井に向かって緩やかに昇っていった。素御が生けた花は白と紫の花だった。名前はわからなかったが、森の中で見つけたものだと素御は言った。花瓶は陶器の小さなもので、村で買ったものだった。花は花瓶の中で少し傾いていたが、それがかえって自然に見えた。
寝床に入ると素御がぽつりと言った。「今日はよく働いたわね」と。僕は「うん」と言った。それだけだった。それだけで十分だった。

それから何日かが穏やかに過ぎた。僕と素御は森での暮らしの形を少しずつ覚えていった。朝起きて、水を汲み、火を焚き、食事をする。それぞれの仕事をして、夕方にまた一緒になる。夜は火を囲んで座り、白湯を飲み、時折言葉を交わす。
ある日の午後、僕は川に行って魚を獲った。川の浅瀬に立って、水の中を覗き込んだ。石の陰に魚が隠れていた。銀色の小さな魚だった。僕は手を水の中に入れて、じっと待った。水は冷たかった。手が痺れそうになった。魚が僕の手の近くに寄ってきた。僕は素早く手を閉じた。魚はぴちぴちと跳ねた。三匹獲れた。持って帰ると素御が焼いてくれた。魚は小さかったが、身は白くて柔らかかった。骨ごと食べられた。獣の肉ばかり食べていたから、魚の味は新鮮だった。素御は「また獲ってきて」と言った。
別の日には、僕は家の裏手に小さな畑を拵えた。地面の草を刈って、鍬で土を起こした。鍬は引っ越しの荷物の中にあった。土は黒くて柔らかかった。森の腐葉土が長い年月をかけて土に変わったものだった。畑は畳一枚ほどの広さしかなかったが、そこに何か植えたいと思った。何を植えるかはまだ決めていなかった。とりあえず土を耕しておいた。素御はそれを見て「豆がいいわ」と言った。豆。僕は頷いた。今度村に行ったときに豆の種を買おう。
素御がヴァイオリンを弾くこともあった。夜のヴァイオリンは朝のそれとは違った。朝は明るく響いたが、夜は低く沈んだ音がした。火の爆ぜる音とヴァイオリンの音が混ざると、不思議な音楽になった。僕はその音を聴きながら、火の番をした。素御の弓が弦の上を滑ると、炎が揺れるような気がした。気のせいかもしれなかった。けれども、音と炎のあいだに何かの繋がりがあるように思えた。
ある晩、素御がヴァイオリンを弾き終えたあとで、しばらく黙っていた。それから「この森は静かね」と言った。僕は「うん」と答えた。「でも、静かすぎるということはないわ」と素御は言った。僕はその言葉の意味をしばらく考えた。静かすぎるということはない。それは、丁度良いということだろうか。それとも、もっと別の何かだろうか。僕には分からなかった。分からなかったが、素御がそう言うのなら、そうなのだろうと思った。

次の日、僕は疲れ果てて眠っていた。素御(すみあ)はどこかに出かけていた。朝のうちは一緒にいたはずだった。僕の意識は植物に水をやったところまであるが、その後はベッドの中に倒れこんで、夢の中にいた。体が鋼のように重かった。ここ数日の労働がすべて一度に僕の体に降りかかったようだった。
夢の中で僕はお星さまからお手紙を受け取った。お星さまはお星さまの形をしていた。五つの角を持った、小さな光る存在だった。空から降りてきて、僕の手のひらの上に止まった。手のひらの上でちかちかと瞬いた。そしてお手紙を渡した。手紙は小さな紙で、文字は金色のインクで書かれていた。それは以下のようなものであった。
「素御のことを大事にしなさい。素御の言う通りにしなさい。素御の言う通りにしていれば万事うまく行くから。素御にことを労わってあげなさい。素御は頑丈なようでいて脆く儚い存在です。素御のことを大切にしなさい」
そこまで読んだところで僕は起き上がった。布団がじっとりと汗で湿っていた。窓から入る光は午後の光で、斜めだった。お星さまの手紙はもう手の中になかった。夢だった。けれどもその言葉は僕の中にはっきりと残っていた。素御のことを大事にしなさい。素御は頑丈なようでいて脆く儚い存在です。僕はその言葉を何度か心の中で繰り返した。
素御はまだ帰っていなかった。家の中は静かだった。竈の火は消えていて、灰だけが残っていた。僕は水を飲むと、水の美味しいのに感謝した。井戸の水は冷たくて、喉を下りていくのが分かった。体の中に水が行き渡るのが分かった。僕は水を飲み終えると、竈に火を入れ直した。素御が帰ってきたときに温かい湯があるようにと思った。
それから僕は家の周りを歩いた。植物は今朝水をやったから、葉がまだ濡れていた。小屋の裏手の森の端に、見たことのない花が一輪咲いていた。背の低い花で、花弁は薄い青だった。花弁の先が少し白くなっていた。僕はその花を暫く見ていた。名前は分からなかった。素御なら知っているかもしれないと思った。
素御は夜になって帰ってきた。手に袋を提げていた。袋の中には豆と乾いた果物が入っていた。村で買ってきたのだった。「珈琲の豆よ」と素御は言った。僕は驚いた。珈琲の豆がこの村で手に入るとは思っていなかった。「旅の商人が来ていたの」と素御は言った。
僕と素御は夜の森に繰り出した。食料を補充するためだった。吊るしておいた肉はまだあったが、新鮮な肉も欲しかった。夜の森は昼とは違った。月が出ていて、木々の間に白い光が差していた。地面には木の影が長く伸びていた。足元は暗くて、慎重に歩かなければならなかった。枝を踏む音が昼よりも大きく響いた。
森の奥深くに進むと猪が目を光らせていた。月の光を受けて、猪の目が二つの点になって光った。猪は泥濘の近くにいた。素御は弓矢を放った。夜の闇の中で素御は弓を引いた。月明りだけを頼りに。矢は猪の脳天に当たった。僕は素御の腕に感心した。暗闘の中でこれほど正確に射るとは。
僕と素御は近づいて猪の様子を見た。微かに息があった。猪の腹が僅かに上下していた。素御は懐からナイフを取り出し、心臓を抉った。猪は絶命した。その体から力が抜けて、地面に沈んだ。
僕は素御からナイフを借りて猪の皮を剥ぐと内臓を取り出し、軽くした。皮は厚くて、剥ぐのに力が要った。ナイフの刃を皮と肉の間に差し入れて、少しずつ引き剥がしていった。内臓を出すと猪はずいぶん軽くなった。昨日と同じ作業だった。正確には数日前と同じ作業だった。体が覚えていた。
猪を小屋まで運ぶと火を熾して、二人で分け合って焼いて食べた。小ぶりなその猪は肉がしまって美味しかった。脂は少なかったが、その分、肉の味が濃かった。噛みしめると、獣の生命の味がした。僕と素御は無言で食べた。夜の狩りの後の食事は、昼のそれとは違った。体の芯に直接届くような食事だった。
僕と素御は二人で協力して昨日の木くずを集めて風呂釜を作った。木くずというのは、机と椅子を作ったときに出た端材や切り屑のことだった。それらを使って、風呂釜の外枠を作った。釜自体は鉄の大きな鍋を使った。引っ越しの荷物の中にあったもので、本来は洗濯用だったが、風呂釜に転用した。外枠を木で組んで、その中に鍋を据えた。下から火を焚けるように、石で竈を作った。水は井戸から何度も汲んで運んだ。大きな鍋を水で満たすのには随分と骨が折れた。火を焚いて水を温めた。湯が沸くまでには時間がかかった。
風呂釜は小さなものだったが申し分なく二人で入ることができた。湯は熱すぎず温すぎず、ちょうど良い温度だった。湯に体を沈めると、体の隅々まで温かさが行き渡った。肩まで浸かると、水面が揺れた。湯気が立って、夜の冷たい空気の中に白く漂った。森の木々が湯気の向こうに影になって見えた。月の光が湯気を通って、柔らかい光になった。
僕も素御も体を洗った。何日もの汗と泥と血が流れ落ちていった。湯が濁った。僕は手で水を掬って腕にかけた。腕についていた泥が流れた。腕の皮膚が赤くなっていた。蜂に刺されたところがまだ少し腫れていた。素御は髪を湯の中に沈めて、指で梳いた。髪の間から木の葉の欠片が浮かんだ。
清潔になって、村から素御が今日買ってきた、布を使って体を拭いた。布は柔らかくて、肌に当たると気持ちが良かった。僕と素御は清められた。体が軽くなった。髪から水が滴って、地面に落ちた。清潔であるということは、こんなにも気持ちの良いことだったのか。泥と血にまみれていた間は気づかなかった。清潔になって初めて、汚れていたことに気づいた。
そして、眠り込んだ。その夜は深い眠りだった。夢は見なかった。体のすべてが休んでいた。筋肉が、骨が、皮膚が、すべてが弛んで、寝台の上に沈んでいった。素御の寝息が隣の部屋から聞こえた。壁を隔てた向こうで、素御も眠っていた。二人の寝息が、この小さな家の中で重なっていた。

それから幾日かの穏やかな日が続いた。僕は毎朝、井戸から水を汲み、植物に水をやり、薪を割った。素御は毎朝ヴァイオリンを弾き、食事の支度をし、時には森の端まで花を摘みに行った。花瓶の花は三日で萎れるから、三日ごとに新しい花を摘んできた。季節によって花は変わった。白い花、黄色い花、紫の花。名前の分からない花がほとんどだったが、素御はそのすべてを同じように花瓶に生けた。
僕は裏手の畑に豆を植えた。村に行ったときに買ってきた豆の種だった。小さな穴を指で掘って、そこに種を一粒ずつ入れて、土を被せた。水をやった。それから毎朝、芽が出ているか確かめに行った。三日目に、土が少し盛り上がっているのが見えた。四日目に、小さな緑の芽が土を割って出てきた。僕はその芽を見て、不思議な気持ちになった。種を埋めて水をやっただけで、芽が出る。それは当たり前のことだったけれど、当たり前であることが不思議だった。
ある晩、僕と素御は火の前で座っていて、空を見上げた。雲が切れて星が見えた。星はちかちかと瞬いていた。素御が「あの星、動いているわ」と言った。僕は素御の指す方を見た。確かに、ひとつの星がゆっくりと動いていた。流れ星ではなかった。流れ星よりもずっと遅く、着実に動いていた。「何だろう」と僕は言った。素御は何も言わなかった。二人でその星が木の葉の向こうに消えるまで見ていた。
ある日、素御は森で粘土を見つけてきた。川の上流の、崖のようになったところにあったと言った。崖は川が長い年月をかけて削った斜面で、そこに灰色の粘土の層が露出していたのだった。素御はその粘土で小さな器を作った。手のひらの上で丸めて、指で窪みをつけて、形を整えた。素御の指は器の縁を滑らかに撫でた。爪で模様をつけた。小さな波のような模様だった。竈の火で焼くと硬くなった。焼いた器は少し歪んでいたが、使えないことはなかった。色は灰色から薄い茶色に変わっていた。素御はその器に花を一輪だけ生けた。白い小さな花だった。歪んだ器と白い花は、不思議と似合っていた。
素御はその後も時折、粘土を採ってきては器を作った。杯、小皿、匙。どれも少し歪んでいたが、それが手作りの味というものなのだろうと僕は思った。僕も一度、器を作ろうとしたが、うまくいかなかった。粘土が手の中で崩れて、形にならなかった。素御は笑った。「土は優しく触らないと」と素御は言った。僕は力が強すぎるのだった。

僕と素御(すみあ)は喧嘩した。喧嘩の原因は僕にあった。僕が素御が買ってきた布の端を誤って千切ってしまったのだ。あの日、村で買ってきた白い布だった。素御がカーテンにすると言っていた布だった。僕はそれを持ち運ぶときに引っ掛けてしまったのだ。釘の頭に布が引っかかって、引っ張ったときにびりと裂けた。裂けたのは端の方で、大きな損傷ではなかったが、素御は怒った。
交渉は断絶状態にあった。素御は自分の部屋に閉じこもって出てこなかった。僕は居間で座っていた。机の上に手を置いて、どうしたものかと考えた。「素御、頼むから許してくれよ」と言っても梃子でも動かぬ姿勢だった。素御の部屋の戸は閉まったままで、中からは何の音もしなかった。ヴァイオリンの音もしなかった。それが余計に僕を不安にさせた。
僕は家を出た。外の空気は冷たかった。空は曇っていた。僕は森の奥深くに入っていき、蜂の巣から蜂蜜を取ってきた。蜂の巣は楢の大木の高いところにあった。僕は木に登って、巣に手を伸ばした。蜂が何匹か飛んできて、僕の手や腕を刺した。痛かったが、構わずに巣の一部を折り取った。蜂蜜は巣の中に金色に光っていた。蜂蜜はぺろと舐めると甘かった。花の味がした。どの花の味かは分からなかったが、森の中の花の味だった。僕は蜂蜜を底の深い瓶に沈めしっかりと栓をした。瓶は陶器の瓶で、素御のために、と僕は思った。
急に帰るのもなんだからと思ったから、森の奥深くを観察してきた。僕はこの森のことをまだよく知らなかった。家の周りと、村への道と、狩りをした辺りしか知らなかった。森の奥には何があるのか、知りたかった。それに、素御が怒っているうちは帰りづらかった。
森の奥深くには実に多種多様な植物があるのだった。マリーゴールドにペチュニア、ポピーやアケビ、サルビアなどがあった。マリーゴールドは橙色の花弁を広げていた。ペチュニアは紫と白の花が群れて咲いていた。ポピーは赤い薄い花弁が風に揺れていた。アケビは蔓を伸ばして木に絡みつき、紫色の実をつけていた。サルビアは赤い花を穂のように連ねていた。それぞれの花が、それぞれの場所で、それぞれのやり方で咲いていた。森の深くは庭のようだった。誰が植えたのでもない庭だった。
動物も牡鹿や猪ばかりでなく、女鹿や白鳥、蛇などもいた。女鹿は角のない鹿で、牡鹿よりも体が小さく、毛の色が薄かった。女鹿は三頭ほどの群れで草を食んでいた。僕が近づくと、女鹿は顔を上げて僕を見た。牡鹿とは違う目をしていた。警戒しているが、逃げはしなかった。白鳥は森の奥にある小さな池にいた。池は木々に囲まれていて、水面に木の影が映っていた。白鳥は二羽いた。一羽が水の上を滑るように泳ぎ、もう一羽が岸で羽を繕っていた。白鳥の白は汚れのない白だった。
なかでも蛇は虹色に輝くもので滑らかな光沢が暗闇の中で光った。蛇は大きなものだった。太さは僕の腕ほどもあった。蛇は地面の上を音もなく滑っていた。その鱗の一枚一枚が光を受けて虹色に変わった。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。それらが滑らかに移り変わっていった。蛇は僕を見た。僕も蛇を見た。蛇の目は金色だった。瞳は縦に細い線だった。蛇はしばらく僕を見つめてから、音もなく草の中に消えた。僕はその蛇を見送った。あの蛇は何だったのだろう、と思った。この森にはこういうものがいるのだ、と思った。
あっ、と思ったときには夜も暮れだった。森の奥深くに気を取られていたら、いつの間にか日が沈んでいた。木々の間から見える空は暗くなっていた。暗くて何にも灯りが見えぬ。森の中は一層暗かった。木々が空を遮って、光を通さなかった。足元が見えなかった。僕は手を前に出して、木の幹を触りながら歩いた。見える光と云えば月明りばかりだ。月は半月で、木の葉の隙間から白い光を落としていた。
僕はその月明りと星の角度を基準にして家までの方位を見定めていった。北斗七星とオリオン座が見えたから大丈夫だ、と僕は思った。北斗七星は柄杓の形をして、北を指していた。オリオン座は三つ星が斜めに並んでいた。これなら家の方角が分かる。家は南の方にあるはずだった。僕はその星の光を頼りにして僕と素御の家の方へ向かっていった。
歩くうちに腹が減った。途中食料などはなかったから、現地調達するしかなかった。僕は蛇をとって食った。虹色の蛇ではなく、普通の蛇だった。小さな、茶色い蛇だった。石の下に隠れていたのを見つけた。頭を石で押さえて、ナイフで首を落とした。皮を剥ぐ作業はなかなかに骨が折れたが、その肉は旨いものだった。魚と鳥の間のような味がした。白くて淡白な肉だった。焚火で炙って食べた。僕はべりべりと引きはがすように食った。骨が細くて多かったが、肉は柔らかかった。
夜はそこで焚火をして夜を明かした。焚火は小さなものだったが、暗闇の中では心強かった。炎の周りだけが明るくて、その外は闇だった。闇の中から音がした。何かの動物の足音、枝が折れる音、遠くの水の音。僕はそれらの音を聞きながら、火の前に座っていた。素御がどうなっているか心配だったが、朝を待つにはそこで眠るしかなかった。素御は強い人だ。一人で大丈夫だ。けれど、お星さまの手紙の言葉が頭をよぎった。素御は頑丈なようでいて脆く儚い存在です。僕は不安になった。けれども、暗闇の中を闇雲に歩くのは危険だった。
僕はその闇夜のなかで眠った。地面に横になって、腕を枕にした。背中は地面の冷たさを感じたが、焚火の温かさが顔と胸を温めた。夢の中では素御が嬉し気な表情を浮かべていた。素御は花冠をかぶって、白い花弁が風に揺れていた。素御は僕に手を振っていた。僕はその夢の中で安堵した。
朝が来た。朝が来ると森の中が急に明るくなった。鳥が一斉に鳴き始めた。空気は冷たくて、露が草の上に光っていた。焚火はもう消えていて、灰だけが残っていた。灰の中にわずかに赤い熾が残っていた。
今度は太陽の向きを東向きとして僕は南へと向かった。太陽は木々の間から低い角度で射していた。僕はその光を右手に見ながら歩いた。右手に太陽があれば、前方が南だった。森の中は昨夜とは打って変わって明るかった。木漏れ日が地面に模様を描いていた。歩くうちに見覚えのある木が現れた。この楢の木は、狩りに来たときに見た木だった。僕と素御の家まであと少しだった。
蜂蜜を詰めた瓶を持ってくるのを忘れなかった。蜂蜜は素御のためにとってきたものだった。素御に許してもらうための贈り物だった。蜂蜜が好きかどうかは知らなかったが、甘いものを嫌う人はいないだろうと思った。陶器の瓶だから大事に扱わなければならないのだ。僕は瓶を腹の前に抱えて、両手で支えて歩いた。何度か枝に足を取られたが、瓶は落とさなかった。
家、というか小屋が見えた。木々の間に、赤い寄棟屋根が見えた。こうして見るとこの小屋も立派なものだなあと思った。赤い屋根が緑の森の中にあって、それは確かに僕らの家だった。煙突からは煙が出ていなかった。
家に入った。戸を開けると、中は暗かった。竈の火は消えていた。居間の机の上に、昨日の食事の皿が置いたままだった。素御は家にいなかった。僕は素御の部屋の戸を開けた。部屋は空だった。寝台の上の毛布がめくれていた。ヴァイオリンの箱はあった。ヴァイオリンは持っていっていなかった。どこへ行ったのだろう。僕は外に出て、家の周りを歩いた。井戸の辺り、薪の積んであるところ、森の端。探したけれど、どこにも見つからなかった。僕を探しに素御まで森へでかけてしまったのだろうかと勘繰った。僕がいない間に、素御は心配して探しに出て、そして道に迷ったのかもしれない。
ただ蜂蜜の瓶だけは大事にお腹のところに抱えて持っていた。机の上に置くことすらせずに、ただ抱えていた。素御にこれを渡すまでは、手放すわけにはいかなかった。
素御が返ってくるのをじっと待つしかなかった。そうだ、僕には待つしかなかったのだ。僕が森に出ていけば、今度は素御が帰ってきたときに僕がいないことになる。すれ違いが続くことになる。だから僕はここで待つことにした。ここで待って、素御が帰ってきたら、最初に蜂蜜の瓶を渡して、それから「ごめん」と言うのだ。
肉はまだ一週間分もあったから、食料に困ることはなかった。吊るしてある肉は煙で色が変わっていたが、匂いを嗅ぐと悪くなってはいなかった。けれども僕は肉を食べる気にならなかった。ただ僕は火を焚くことをしなくなった。竈に火を入れなかった。風呂に入ることもしなくなった。風呂釜の水は冷たいままだった。素御が帰ってくるのを待つばかりだった。水だけを飲んだ。井戸の水を柄杓で汲んで、そのまま飲んだ。
植物に水をやることだけはした。素御がいなくても、植物は生きている。植物が渇いているのを放っておくことはできなかった。柄杓で水をかけながら、僕は植物に話しかけた。声には出さなかった。心の中で話しかけた。素御は帰ってくるだろうか。帰ってきてくれるだろうか。植物は何も答えなかった。ただ水を吸い込んだ。
素御の部屋の戸を何度か開けた。中は変わっていなかった。寝台の毛布はめくれたまま、窓のカーテンは半分閉じたまま。棚の上にヴァイオリンの箱が置いてあった。箱の蓋は少し開いていて、中のヴァイオリンの胴体が見えた。素御はヴァイオリンを持って行かなかった。ヴァイオリンを持たずに出たということは、すぐに帰るつもりだったのだ。すぐに帰るつもりで出て、帰れなくなったのだ。
僕は素御の部屋の戸を閉めた。自分の部屋にも入らなかった。居間にいた。居間の椅子に座って、机の上に手を置いた。楢の木目が見えた。年輪が細かく詰まっていた。この机は僕と素御が一緒に作ったものだった。素御が木を押さえて、僕が鋸を引いた。素御が釘を渡して、僕が打った。その記憶が木目の中にあった。
夕方になって、日が暮れた。森が暗くなった。空の色が青から紺に変わり、紺から黒に変わった。木々の輪郭が消えていった。最後に消えたのは赤い屋根の瓦だった。瓦はしばらくの間、薄明りの中で鈍く光っていた。それも消えた。
僕は居間の机に向かって座っていた。蜂蜜の瓶を膝の上に載せていた。瓶の表面はひんやりとしていた。陶器のざらりとした手触りが掌に当たった。窓の外が暗くなっていくのをただ見ていた。虫の声が聞こえ始めた。梟の声が遠くで聞こえた。何かの動物が家の近くを通った。足音がして、立ち止まって、また歩いていった。素御ではなかった。足音が四本の脚のものだったから。
僕は動かなかった。動く理由がなかった。

素御(すみあ)は朝焼けが昇る頃に帰ってきた。朝焼けは東の空を赤と橙に染めていた。木々のてっぺんだけが明るくなって、その下はまだ暗かった。
僕は一晩中皿洗いをしていた。夜の間、何もせずに座っていることに耐えられなくなって、台所に立ったのだった。皿は二人分の食器が数日分たまっていた。それらをすべて井戸の水で洗い始めた。ごしごしと念入りに皿を洗った。指先で皿の表面を確かめながら、一枚ずつ洗った。綺麗になってもなお洗い続けた。綺麗になった皿をもう一度水につけて、もう一度洗った。サボンソウの根を使って洗い続けた。サボンソウは家の裏手に生えていたもので、根を砕くと泡が立つのだった。泡はぶくぶくと洗い場に膨れ上がった。白い泡が洗い場を覆って、皿が泡の中に沈んだ。僕はそれを一晩中続けた。手は水で冷たくなり、指先が縮んで皺だらけになった。けれども手を止めなかった。手を動かしていないと、心が落ち着かなかった。
僕がぶくぶくとやってる頃、朝の日が昇ってきて、小屋の戸が開いた。戸が軋んで音がした。僕は手を止めた。振り返った。素御が立っていた。逆光で素御の顔は見えなかった。けれども、それが素御であることは分かった。立ち姿で分かった。「素御!」僕は叫んだ。ぶくぶくしている洗い場はそのままに素御のもとへ駆け寄って、素御を抱きしめた。手は泡だらけだった。泡が素御の服についた。構わなかった。素御の体は冷えていた。外で一晩過ごしたのだろう。僕は素御の体を強く抱きしめた。
素御は「ごめんなさい、道に迷ってしまったの」と言った。声は少し掠れていた。疲れている声だった。「いいんだ、いいんだ、僕が悪かったよ」と僕は言った。布を千切ったのも僕が悪かった。森に出て行って帰ってこなかったのも僕が悪かった。素御が心配して探しに出たのだとしたら、それも僕のせいだった。僕と素御はしばらくの間、そうしていた───小屋の入口で、朝の光の中で、抱き合ったまま動かなかった。素御の髪には枯れ葉がついていた。服は泥で汚れていた。僕の手からは泡がゆっくりと垂れていた。
やがて僕らは離れた。素御の髪から枯れ葉をひとつ取った。もうひとつあった。それも取った。素御は「ありがとう」と言った。小さな声だった。
僕は洗い場に戻った。僕は洗い場の皿から泡を全て流して、皿を一枚ずつ棚に戻した。棚に並んだ皿はどれも清潔だった。一晩中洗ったのだから当然だった。けれどもその清潔さが、僕にはなにか大事なもののように思えた。
それから豆を挽いて珈琲をいれた。素御が村で買ってきた珈琲の豆だった。豆を石の臼で挽いた。挽くとき、豆が割れて、その瞬間に匂いが立った。深い、黒い、甘い匂いだった。珈琲の匂いは家の中に広がった。何日も火を焚かなかった家の中に、初めて温かい匂いが戻ってきた。挽いた粉を布で漉して、湯を注いだ。湯は竈に火を入れて沸かした。火を入れたのは何日ぶりだっただろう。竈の中で火が立ったとき、僕は安堵した。火は生きていた。家は生きていた。
素御はその間に泥だらけの服を着替えていた。素御の部屋から衣擦れの音がした。それから水の音がした。手と顔を洗っているのだろう。僕は珈琲を二つの器に注いだ。素御が作った粘土の器を使った。少し歪んだ器に、黒い珈琲が注がれた。湯気が立った。
珈琲を素御に差し出すと、素御は寒がっていたようで、「暖かいわ」と言いながら美味しそうにそれを飲んだ。両手で器を包んで、湯気を顔に当てて、ゆっくりと一口ずつ飲んだ。僕も珈琲を飲んだ。珈琲はほんのりと甘い香りが漂って旨かった。苦味の奥に甘みがあった。珈琲を飲むと体の中が温まった。指先まで温まった。
僕は珈琲を飲みながら、蜂蜜の瓶のことを思い出した。机の上に置いた瓶を素御に差し出した。「これ、蜂蜜」と僕は言った。「森の奥で獲ってきたんだ」と付け加えた。素御は瓶を受け取って、蓋を開けて匂いを嗅いだ。「いい匂い」と素御は言った。蜂蜜の匂いは花の匂いだった。森の奥の、名前も知らない花々の匂いだった。素御は蜂蜜を少し指ですくって舐めた。「甘い」と言って、笑った。それから珈琲に蜂蜜を少し入れた。珈琲の苦味と蜂蜜の甘みが混ざった。素御は「美味しい」と言った。僕もやってみた。美味しかった。
僕はその笑顔を見て、ようやく安堵した。素御は笑っていた。怒っていなかった。許してくれたのかどうか、僕には分からなかった。けれども素御は笑っていた。それで充分だった。
僕と素御は家を出て薪をくべて火を焚いた。外の焚火場に薪を組んで、火を入れた。空はもうすでに明るかったが、それでも僕と素御は火を焚いた。陽はすでに昇っていて、森の木々を照らしていた。焚火をする必要はなかったかもしれない。けれど僕と素御は火を焚いた。暖を取るためではなく、ただ火を焚いた。火は3尺以上になった。薪をくべるたびに火は大きくなった。火の中で薪が爆ぜて、火の粉が舞った。冬の匂いが空気に漂っていた。空気は冷たくて乾いていて、その中に落ち葉の匂いと、枯れ草の匂いと、木の匂いが混じっていた。それが冬の匂いだった。空はオレンジ色に染まっていた。朝焼けの色がまだ残っていた。
僕と素御は火に手を近づけた。火の暖かさが手のひらを包んだ。冷えた手が少しずつ温まっていった。
「暖かいわ」
「暖かいね」
僕と素御は炎のなかに薪をくべて炎をさらに大きくした。次から次へと薪をくべた。炎は6尺にもなった。僕らの背丈を超えるほどの炎だった。炎は真っ直ぐに天に向かって昇った。熱で顔が火照った。一歩下がらなければならないほどだった。けれども僕らは離れなかった。
僕と素御の記念の炎だった。何の記念かと訊かれたら、答えられなかっただろう。ただの炎だった。けれどもその炎は、僕と素御が此処にいること、此処で一緒に暮らしていくこと、それを確かめるための炎だった。喧嘩をして、離れて、迷って、それでもまた戻ってきて、一緒に火を焚いた。そのことの炎だった。
炎が燃え盛っている間に、僕らは何も喋らなかった。喋る必要がなかった。炎が喋っていた。薪が爆ぜて、火の粉が空に舞い上がった。火の粉は星のように光って、やがて暗闇の中に消えた。地上の星が空の星に向かって昇っていくようだった。
やがて薪が尽きた。炎は少しずつ小さくなっていった。6尺あった炎が、5尺になり、4尺になり、3尺になった。僕と素御はまた一歩、火に近づいた。炎が小さくなると、空気が冷たくなった。冬の空気が僕らの背中に触れた。けれども顔は暖かかった。
炎が腰の高さまで下がったとき、素御が言った。「お風呂を沸かしましょう」。僕は頷いた。風呂釜に水を汲んで入れた。残り火で風呂を沸かした。湯が温まるまでの間、素御は家の中に入って、何かの支度をしていた。僕は外で火の番をした。
風呂に入った。僕が先に入って、それから素御が入った。湯は温かかった。体に染みた。何日も洗わなかった体が清められていくのが分かった。湯に浸かっていると、僕はこの数日のことを思い返した。森を彷徨ったこと、蛇を食べたこと、星を頼りに歩いたこと、家に帰って素御がいなかったこと、待ったこと、皿を洗い続けたこと、素御が戸を開けたこと。そのすべてが、遠い昔のことのようにも、つい今しがたのことのようにも思えた。
風呂から上がると体が軽くなった。素御が布で体を拭いてくれた。あの布だった。端が千切れた、あの白い布だった。千切れたところを素御が縫って繕ってあった。小さな針目が並んでいた。僕はその針目を見て、何も言えなかった。
夜になった。僕と素御は居間の机に向かって座った。蜂蜜を入れた珈琲を飲んだ。素御はヴァイオリンを弾いた。短い曲だった。僕の知らない曲だったが、聴いたことがあるような気がした。曲が終わると素御は弓を下ろして「おやすみなさい」と言った。僕も「おやすみ」と言った。
ぼくらのはじめのひびはこうしてはじまった。森の中の赤い屋根の小屋で、二人で水を汲み、火を焚き、獣を狩り、肉を焼き、机を作り、椅子を作り、風呂を沸かし、花を生け、喧嘩をし、仲直りをした。星からの手紙を受け取り、虹色の蛇を見た。蜂蜜を採り、珈琲を淹れた。畑に豆を植え、粘土で器を作った。ヴァイオリンの音が森に響き、鳥がそれに応えた。朝陽が昇り、夕陽が沈み、月が出て、星が瞬いた。そのすべてが、ぼくらのはじめのひびだった。
朝陽が僕らを見つめている。

「しはわせ。」

© 2026 島津耕造 ( 2026年8月21日公開

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