――むしろテレンシオは、小さな頃から、食べるという行為があまり好きではなかった。生きるためには、どうしてこうも、物を食べなければならないのだろうと、悲しく思っていた。
もしも食べなくてよかったなら、色んなことが、もっとラクだったし、全ての生き物が、もっと平和だったのに。
トイレに行って、出したものを流すたびに、ムダなことだな、と思った。せめて、もっと少なくていいはずだ。何日かに一度、ちょっとだけ食べて、何日かに一度、完全に栄養を吸収し尽くした、小石のようなのを出せばいいのに。
けれども、そうは言っていても、やっぱりおなかが空けば、食べ物が欲しくなる。はなはだしい場合では、食べ物を手に入れるためなら、どんなことでもするという気分にすらなる。テレンシオは、そんな自分が情けなかった。
食べ物とは何ぞや。生き物が生き物を食べて、食物連鎖で循環しているこの地球上の営みは、何の意味があるのか。どんな価値があるのか。どういうふうに始まって、どこに向かっているのか。
ほんらい食べられなかったものを食べられるように工夫したのは凄い。けれども味という問題はどうだ。えらく発展したこの、贅沢極まりない、美味のための工夫というものは果たして必要だったのか。
テレンシオは考え続けた。そうして時がたち、気づけばテレンシオは、一流の料理人を志していた。
片っぱしから、有名なシェフに弟子入りをしては、フランスに行き、イタリアに行き、一切の楽しみを捨て、どんな屈辱にも耐えて、厳しい修行に励んだ。
じっさい、テレンシオの料理の腕は確かなものだった。それは誰もが認めるところだった。ところが師匠のシェフたちは、しばらくすると苦々しい顔をして、いつもこう言うのだった。
「お前はまるで、何かに飢えているかのようだな。きっと、お前の探し求めているものは、キッチンの中にはないんだろうさ」
わしに教えられることは何もない。――とうとう誰の弟子も続かず、しょんぼりして帰国すると、テレンシオは生活のために、学生食堂や居酒屋のキッチンを転々として暮らした。
ある日のこと、テレンシオは、昔の料理人仲間のエウリコと、ばったり会った。バルでチャコリを飲みながら、今どうしているのかと聞けば、エウリコは、ある世界的に有名なシェフのもとで働いているのだという。
テレンシオがうらやましそうに、
「僕のことも、雇ってくれないだろうか」
するとエウリコは言いにくそうに、うしろ首をさすりつつ、
「しかし君は、何かが根本的に違うんだもの。人においしいものを食べてもらいたいとか、料理を作るのが好きだとか、そういうのはチットモなくて……それでいて、ぎらぎらと食らいついていて――いったい何が君をそうまでさせるのか、よくわからなくて、まわりの人間はとまどうんだよ」
テレンシオは、エウリコの言うことが、何となくわかっていた。けれども、どうしてそうなのか、どうすればそうでなくなれるのかが、どうしてもわからないのだった。
うなだれているテレンシオに、エウリコはかける言葉が見つからず、しばらく申しわけなさそうにグラスを見つめていた。と思うと、ふと顔を上げ、
「――そういや、妙な噂を聞いたな。……そうだ、これなんかは、君にぴったりかもしれないよ」
その噂というのは、こうだった。ある大金持ちの美食家が、料理人を募集している。ただこの美食家、ふつうのグルメではない。世界中のおいしいもの、珍しいもの、あやしいもの、クセのあるもの、ことごとく食べ飽きて、もう何にも驚かなくなってしまった。それなので誰か、驚かせて欲しい。というのだった。
「噂じゃァ、これに挑戦した料理人は、みんなすぐにくじけちまって、逃げ出すんだ。たいがい、一年ももたないらしい。中には、一年以上粘った人もいるらしいが、その当人にじっさい会ったって話は聞かないというから、けっきょく、どこまで本当かわからない噂だがね」
テレンシオはエウリコにあつくお礼を言うと、その美食家の居どころを尋ねた。エウリコ自身は知らなかったが、心当たりの知り合いを紹介してくれた。
大きな宮殿の門がひらかれて、応接間に通された。大金持ちの美食家が直々の面接だった。テレンシオは美食家を前にして、なぜだか、非常に大きな人と会っているような気がした。それほど太っているわけでも、背が高いわけでもないのに、どうしてか非常に大きく感じるのだった。
美食家は、ニコニコと顔をほころばせて、テレンシオのしどろもどろな自己PRを聞いていた。やがて、のどをカラカラにして話し終えたテレンシオに、言った。
「じつを言うとな、わしの食事を作る料理人は、すでにあるのだ。それよりも君には、ある研究をしてもらいたい。これまでこの宮殿で、何十人もの料理人たちの手によって、続けられて来た研究だ。それを引き継いで、誠実に励んでくれさえすれば、成果のありなしにかかわらず、これこれの報酬を支払うのでな」
その報酬というのが、目玉が飛び出るほどの額だった。テレンシオは何だか恐ろしい気もしたけれど、失って惜しいものもなし、えい、ままよで就職した。
さて、何十人もの料理人たちの手によって続けられて来た研究とは、タコに関するものだった。美食家の言うことには、全ての食べ物に飽き飽きした今、どうしてかタコだけが、そんなに飽きない。というよりか、何かこうタコという食材にはまだ、一種の驚きが秘められているのではないかと思わせられるものがある。
それで美食家は、独自の研究を始めた。これまでの成果により、エサにロブスターばかり食べさせたら、かすかにロブスターの風味が加わって、それがタコの風味とワルツを踊り、タコの食感とロンドを踊り、求めている驚きに近づくことがわかっていた。
しかしまだ足りない。限界がある。これを突破するためには、今度はエサとなるロブスターに、さらに何を食べさせれば、よりいっそうの風味に達するか。それがテレンシオに託された研究であった。
いくらお金をかけてもよかったし、タイムリミットもノルマもなかった。与えられた部屋とキッチンは、かなり快適だったし、召使いまでつけられて、何不自由ない生活が送れた。
テレンシオは、これまでの料理人たちが残して来たデータを調べ、研究がどこまで進んでいるのか、まず覚えることから始めた。次に、それらのデータが正しいのかどうか、先輩たちが試みて来た手順を、そっくりそのままなぞり直して、確かめて行った。
そのうちにだんだんわかって来たことは、道のりがいかに遠いか、ということだった。
美食家が具体的に何を求めているのか、永遠にわかる気がしないというのが、膨大な量のデータから聞こえて来る、悲痛な叫び声だった。
だいいち味の好みなんてあいまいなもので、同じ人でも移り変わる。その時々の気分や体調によっても変わる。世界中の料理を食べ飽きた人の好みなんて想像もつかない。そもそも「驚き」って何だ。美食家本人にさえ、自分が求めているものの正体はわかっていないのではないか。「驚き」なんてものは存在しないのではないか。美食家は、ただ常に誰かがありもしない「驚き」を求めて、それに近づいてくれているという気分さえ味わうことが出来れば、それでいいんじゃないのか……。
――だいたいそのような叫び声、髪の毛をかきむしるうめき声が、先輩たちの残した大量のデータから聞こえて来た。
テレンシオは、心がくじけそうになった。
そもそも成果を上げられる研究ではないものと、はじめから割り切ってしまうべきかもしれない。しょせん大金持ちの道楽なのであって、真剣に向き合っていたら頭がオカシクなる。どのみち報酬は成果のありなしにかかわらず支払われるのだから、(この時点ですでに美食家本人のあきらめがありありと表れているではないか!)マジメに取り組んでいるふりさえしていればよいのかもしれない……。
そんなふうに考えて行くと、しかし、かえってテレンシオはだんだん、くじけかけた心に張りが出て来た。こんなことではいけない。自分がこの研究を完成させてやればいいのだ! と。
考えに考えて、先輩たちの誰も試みなかったことを、やってみた。ロブスターのエサを工夫するだけではなく、クラシック音楽を聞かせてみたり、水槽に外敵を入れてみたり、甲殻におおわれた体をマッサージしてみたりした。足にゴムをくくりつけてトレーニングさせてみたり、聖書・仏典を読み聞かせてみたり、軽く電流を流してみたりした。
けれども、あれこれと手を尽くした結果、悟らされたことは、先輩たちのデータにまさるものはないという事実だった。長い回り道のすえ、けっきょくエサの工夫に落ち着かざるを得なかった。栄養素。分量。タイミング。組み合わせ。時おり何かの拍子にロブスターの味が向上したけれど、それを食べて育つタコの味が結論であるからには、ロブスター自体の完成度が問題ではなかった。
こんなエサを食べさせて来たロブスターばかり食べたタコ、あるいはこんなエサを食べさせて来たロブスターばかり食べたタコと、テレンシオは延々と食べ比べた。しかし、いつまでたっても「驚き」には達しなかった。
週に一度、テレンシオは、現状一番出来のいいタコを、美食家の料理人たちに提出した。食べ終わると美食家は、ニコニコしながら、
「いや、なかなかのものだ。うむ。むろん、さらなる向上を期待しているがね。――出口のない、不毛なことをくり返しているだけだと思うかもしれんが、こうした研究というものは、いつ、どんなキッカケで状況が一変し、何の兆しも見られなんだものが、とつぜん化けるともしれないものだからね。うむ。この調子でよろしく」
テレンシオは、成果の出せない自分が情けなく、もどかしかった。ロブスターのエサを色々に工夫しては、タコに食べさせ、いつまでも「驚き」に達する気配のないタコを、むなしく食べ続けた。
一年がたった。相変わらずタコは「驚き」には達していなかったけれども、まあ一年ということで、テレンシオは美食家から晩餐会に招かれた。
「さあさあ、遠慮せずに。とにかくこれまでの労をねぎらいたいんでな。わしの料理人たちに腕をふるってもらうから、君は大いに楽しみたまえ」
テレンシオは、何はともあれ、久しぶりにタコ以外のものを口に出来ることを嬉しく思いつつ、大食堂へ入って行った。
そうしてそれきり、二度と出て来なかった。
今、テレンシオの暮らしていた部屋には、新しく雇われた料理人が住み、テレンシオの研究を引き継いで、せっせとタコばかりを食べているとか。
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