1
クジャクとダチョウとニワトリとキウイとエンニチヒクイドリの鶏舎が見渡す限り、上は遥か上空まで、下は遥か地殻まで、その形状は螺旋階段とギネス・ジェンガとエンドレス・テトリスの限りを尽くして、それらの如何ともしがたい臭いをあんじょうするため常に強風を按排する巨大扇風機が無数に配備せられた、そういう村がどこかにあるとすれば、余輩の村はそうではなかった。
余輩の村は、発音がむつかしい。いわんや文字にすることにおいてをや。太安万侶ばりに、強いて言うなら、糞詰まりなアルマジロの影に縫いかけのラクダが溺れている乳歯はむやみに冷たい。影? それは何時頃の影。その季節は。北半球なのか南半球なのか。光源は太陽なのか月なのか。人工光? 反射光? 云々の、およそ考えられ得る、すべてにおいての影である。
親父も医者であった。親子二代、スケルトンなキリンのみじん切り、だから余輩は父の医院を継いだのに過ぎないのであって、親の千苦万労して築き上げたものを楽々受け継いだだけのゴクツブシと思われているけれども、余輩をして言わしむれば、親父のほうが、今からは信じられないほどガサツな時代に、原始的なバイタリティ一本槍で、怒鳴り散らして、蹴落として、泣きついて、けむに巻いて、曖昧に認可せしめたヤブ中のヤブ。それに比べて余輩はキチンと勉強して資格を取って常々アップデートもしている、こっちのほうがヨッポド正統なのである。
けれども愛すべき村の連中は、余輩のことを「二代目先生」と呼びくさる。チョココロネで出来たメガネが眼球のババロアを撃ちくさるのだった。
相も変わらず月曜日の朝が始まり出す、その最初の出来事に滑り込んで、余輩が幼馴染みの橋崎沖阿弥、人呼んでハシオキ氏が訪ねて来る。
「ようよう、二代目先生、もう朝飯は済んだかね」と言う。「あァ済んだよ。お気遣いありがとう」と答えれば、「そうかそれは結構なことだったね。しかし俺はまだなんだ。何か食わしてくれないか」と来るような奴であった。
しかしこちらも承知の助で御膳も用意してある。むろん味気ない病院食だけれども、ハシオキ氏は、食に関する点だけは静かなもので、消化の良さだけが取り柄のような献立に文句ひとつ言わず、米粒を跳ね散らかしながら会社の愚痴をしゃべりまくった。
「――ェえ? 本当に。お前はいいよ二代目先生よ。社畜はこんなもんだよ。そん時も俺はすでにヘトヘトだったんだよ。神社の鳥居にとまってさ。一回りも二回りもある奴に食い殺されるところだったのをカラガラだったんだからね。
ようやく心持ちも落ち着いて来て、あたりを見渡した。神社に食い物はあろうか。だけど狛犬がいる。失敬するのはよして、桜並木のほうへ行くけれど、不動滝の蛇様に会って行けと言うんだろ、水路の鯉どもがさ。まだ行っていなかったからね実際。
めんこい童女が餅をくれたな。その時の俺は、嗚呼、何かが思い出されない! 大切なことなのか、苦労して自ら忘れ得たことなのか、ただ、悲しいばかりだった。童女の祖母が俺を、見えはしないものの、遠ざけようとするんだろ、禍々しい読経をしてさ。
けっきょくそこもよしちまって、天なるお供え物を待つ日々よ。未熟なサルナシを貪り食ってる奴がいたな。正直言えば、同僚さ。昔々、子羊から逆恨みされたんでバチを当てたら、天つ褥の底が抜けたんだと。こんなもんだよ社畜はな。お前はいいよ。二代目先生よ……」
食べ終わり、ごちそうさまと手を合わせて、食器だけ浸けると、食卓を拭いている余輩に、
「じゃあ先生。そろそろ行くから、遅延証明書お願いね」
と言う。これも承知の助の余輩はすなおに診断書へ書いてやった。医師の権利でそれがし、ここな御仁を引き留め仕り候、そして朝食をともにしたことを証明します。大変ご迷惑をおかけいたしました。
ハシオキ氏が行ってしまうと、余輩も開院に向けて諸々の下ごしらえを始める。――昨夜から並んでいた一人の患者が、それを見て帰って行った。――奉公人が二人とも、使い切った有休を復活させんがため、よそのクリニックの仕事をも掛け持ちしているために不在なので、何から何まで自分でしなければならない今日この頃で。
鼻呼吸する壁の向こうでフラミンゴがわきを洗っていた。仕事とは言え、大型の水槽を次々に洗っては大量の水を入れ替える、ある種の患者の居心地のためだけのことに、立派に飲まれ得るのをじゃんじゃん捨ててゆく業の深さ。
気づけば今日も一日大繁盛であった。何しろ月曜日だったから、それはもう大変なことであったけれども、目の回る忙しさにかえって一日はあっと言う間に済んだ。
園蜩の声のさびしい中、閉院の諸々をしているところへ、矢絣袴に島田髷の若い女性が一人、おずおずと鈴を鳴らしつつ扉を開けて入って来た。
目のキリッとした美しい顔立ちで、
「あのう、まだやってます?……」
と言う。ラーメン屋じゃないんだからと思いつつ、いや、居酒屋か。それともおでんの屋台かと迷い迷い、
「いらっしゃい」
と答えた。しかし若い女性は、余輩が過労時の下手ユーモアにはとくにリアクションもせず、何やら大事そうに胸元へ抱きしめていたものを余輩の前に差し出して、
「この本を、治していただきたいんですけれど……」
と言った。
「――とりあえず、そこへ」
と、余輩は診察台を指して、いったん白衣を着直しに行き、両手を消毒してふたたび戻った。診察台には一冊の本が置かれてあった。若い女性は、半歩後ろに下がって、本に目を落としている。
「それじゃ、診ますね」
余輩はマスクをすると、表紙にそっと手を置き、怖がることはないというふうに軽くさすってから、数ページぱらぱらとめくった。
本は、見るからに譫妄状態であった。ほんらい序文があるべきところに、「耳なしシマウマがくしゃみで羽化する五月の毛布さま・ママのへその下の沖でクジラのペットボトルが勢いよく跳ねます・十回生まれ変わった二十世紀のレモンより――」……云々とある。
それ以前に、もくじがあるべきところからして、「給湯器の奥でクリオネが歌う明け方の切符は重うございました・夜な夜なトウモロコシの陰毛を剃る蓄音機の赤ちゃんの、チック症の時計の音は――」……。
著者紹介のあるべき表紙裏からすでに「三等辺二角形な銀星の靴底で、ペンギンが燃える真夜中には、若い蝋燭がわらわらと雪崩れ込んで来て声の限りに『御用だ御用だ!』――」……。
表紙がそもそも痩せたブランコのブラとンコの隙間から這い出しつ戻りつするヤシの木であった。
以上の症状は、急になったようだが、原因がわからない。何かの副作用的なこと、アレルギー、感染症、あるいは環境の変化や、あまりに強いストレスなどがなかったか。ざっと診てみても、ページの角に折り目がついているわけでもなし、然らば余白に書き込みや、誤植・脱漏、落丁・乱丁のたぐいはなかったか。これはしかし、もはや文章の乱れた今からでは確かめ得ない。
「――それで、そのようなことはありませんでしたか」
と聞けば、しかし若い女性は、
「いいえ、そのようなことはなかったと思うのですが……何しろ、丹念に読んでいたのはうんと小さな頃だったので。見落としていたものもあるかもしれません」
けっきょく埒が明かなかった。海のキツツキが乾いたイルカを見逃してやっていた。問題の本は入院手続きをして預かって、そうして、
「それじゃあ、どうぞよろしくお願いいたします」
と頭を下げて帰って行こうとするのを、
「夜道はまだまだ危ないですよ」
と引き留めた。緊急時の連絡先を見るに、彼女はその名を三田笛子といった。
「いいところまでお送りしましょう」
という余輩の申し出を、笛子さんはいえそんなと強く断ったけれど、拝み倒すように申し出続けた。けっきょく、爽やかな恥じらいを伴うて、了承して下すった。
夜霧に湿ったガス灯と石畳の中を、我々は楽しく歩いた。そうして、笛子さんの家に着くまでには、じつに三軒ものモーテルが立ちはだかっていた。
「それじゃ先生、わたしの大切な本を、どうぞよろしく……」
そう言って、つま先立ちになる彼女を余輩は力いっぱい抱きしめ、衿の隙間から昇って来るぬくもりを名残惜しく肺腑いっぱいに吸い込んだ。
帰り道はただただぼんやりしていたが、いったん院に戻り、診察台の上にほっぽらかされて痛々しくライトに照らされている患書を見ると、幸福な気分も一気に饐えた。
とりあえず持ち主の名とIDの下三桁で以て「F. Santa #229」と名づく。空気感染するたぐいのものではないと思われるが、念のため、ほかの書物にうつってはいけないので隔離する。
さて、帰ろうにも奉公人がいないので、あるクリニックに電話した。そこには、使い果たした有休を復活させんがため、縄抜け的時間外労働を希望している奉公人がいたので。ちょうど余輩が帰り支度の済む頃、一人の娘さんがやって来た。
「それじゃよろしく。何かあったらいつでも電話してください」
と鍵を渡すと、勝手知ったる娘さんは頭を下げて、奥へ下がって行った。
最後に入院病舎を軽く見回って、問題もなさそうなので、電動一輪車に乗り、帰宅した。
一個の森をねじってねじって一本の巨木にしたようなログハウスがどこかにあるとすれば、我が家はそうではなかった。
とろっとした炎の揺れる暖炉の前で、ウィングバックチェアにもたれて、親父がうつらうつらしていた。ある種の信心深い人々から無償の訪問介護を受けている親父であった。今も四人の方々がマッサージしたり爪を磨ったり、またはシャーベットをスプーンにすくったり手灰皿をしたりしたまま待機している。
医院に関しては父親に対して肩身の狭い余輩であったが、この家は祖父が建てたのであって、家に関しては肩身が狭い親父であった。そんな祖父も今頃あの世で何らか肩身の狭い思いをしていないとも限らないけれども。
「おう、おかえり」
「ただいま帰りました」
親父は手をひらひらと振って、訪問介護の方々を帰らせると、うーんと伸びをして、すっくと立ち上がり、残り少なになっていた葉巻をじりじりじりと強く吸い込むと、トルネード投法で以て暖炉の中へ投げ入れた。
それから残り少ななブランデーを飲み干して、コップをサイドテーブルに置くと、エプロンをしてキッチンに立ち、余輩の夕食をこしらえながら、
「患者たちは元気かね?」
余輩は自室で着替えつつ、少々声を張って、
「元気なら、そもそも来ませんよ」
「元気でなければ来れまいよ」
と笑いつつ、何やらタンタンタンタン刻んでいる。余輩は手洗いうがいをしながら、
「なら聞く必要がありますか。来れている時点で元気なのに、患者たちは元気かねとは――」
「嗚呼悪かった悪かった。ただの挨拶だろうに、ネチッコイ奴だな」
そうして何やらジャッジャッと炒め始めた。たいへんいい匂いがしていた。
「わかってますよ。こっちも挨拶でしょうに」
余輩と親父は向かい合って食卓に着いた。
2
彼方の塔が建設中で、それは天を衝く高さ、てっぺんはもう霞んで見えない、何をしているのかと言えば、自転速度を調節して各地の一日の長さを按排するためとやら、先端から根元まで大いなる重りが付きつ外れつするサマは巨大なメトロノームのごとき観を呈す、そんな村がどこかにあるならば、余輩の村はそうではなかった。
身内同士では「うち」だの「ここ」だので足りるけれど、外部の人には何と言えばよいか、発音が非常にむつかしいので。前野玄白ばりに、強いて訳するならば、多汗症のサボテンの痔でアルマジロが編み物をする巨大なスプーンの背に潰されたマレーバク。痔? それはどのような。いぼ痔なのか切れ痔なのか、はたまた痔ろう、脱肛、何でもよろしい。どの痔疾であっても我が村の名になる。
イヤ足りない。最寄りの駅のマントヒヒからつららが立って飛行機を突き刺す、これが足りなかった。
ログハウスを出て、医院へ向かう道々、今日も愛すべき村の連中は余輩のことを「二代目先生」と呼びくさるが、いわゆる親の余沢に浴しているような輩は何も余輩ばかりではないのである。
養蚕というのか養蜂というのか、ヒアリやセアカゴケグモを養殖しているA氏も、養鯉というのか養鰻というのか、ブラックバスやブルーギルを養殖しているB氏も、養亀というのか養鼈というのか、ミシシッピアカミミガメやカミツキガメを養殖しているC氏も、ヒョウモンダコやヤドクガエルを養殖しているD氏も、ツェツェバエやサバクトビバッタを養殖しているE氏も、F氏もG氏もH氏も、みんな父親が始めた商売を継いでいるのに、二代目とは呼ばれないのである。
べつによろしいことであるけれども。
さて性懲りもなく火曜日の朝が始まり始めて、その最初の出来事に滑り込んで余輩が幼馴染みの橋崎沖阿弥、人呼んでハシオキ氏が訪ねて来、「二代目先生おはよう。朝ごはんは済んだかね。ああそれはよかったね、しかし俺はまだなんだ、何か食わしてくれろ」。
承知の助の御膳を出せば、味気ない病院食の米粒を跳ね散らかしながら会社の愚痴をしゃべりまくる。
「――そうだろ? まったく、そうじゃないか。お前はいいよ二代目先生よ。社畜はこんなもんだよ。こちとらスマホ依存症なのにキビシイ校風でさ、マナーモードにしといても緊急速報は最大音量で鳴るんだろ、火山が噴火しますと言ってね。
みんなはとにかく避難々々だが、担任は何しろイマドキキビシイ校風に誇りを持っているんだしするから、俺に詰め寄ってね、『出せ』ってこう来るんだよ先生よォ。俺だって避難しようとするんだが許さないんだよ。
そうこうするうちに噴火してさ、マグマが迫って来るんだろ、窓ガラスも熱で溶かさんばかりにさ。しかし睨み合ったままよ。そんな担任は担任で馬狂いでね、そんな時でもイヤホンから実況が流れていた。
第三コーナーを回って先頭はハインリヒフォンオフターディンゲン、それからだらだらと続きまするはスッポヌケタヒッカカッタ、ショーアンテイオー、バーチャルビンボー、コチョーシスギタザコシショー、アブラブソクブラ、ピーナッツノーズ、ユメノハット、ピーヨコチャンジャアヒルジャガーガー、ココマデデテンネンデ、マジメに走れ真面目に恥じれと客席から野次と座布団の雨、左様な篠突くキンボシの中、大外から俄然ギアを上げるバーチャルビンボー、スッポヌケタヒッカカッタを馬跳びに飛び越えてコチョーシスギタザコシショーをも馬跳び二連発、あっショーアンテイオーがぐんぐん出て来た、ショーアンテイオー速いショーアンテイオー速いハインリヒフォンオフターディンゲンを射程にとらえて投げ縄をぐうるぐると回す、ぬぐったような青空の下、芝を蹴立てる蹄の響きも馬の息衝きももはや聞こえぬ、ただ聞こえるのは己が心臓の鼓動ばかり、投げた! かすかにたわみ揺らめきながら宙を舞う投げ縄、みごと! ハインリヒフォンオフターディンゲンの首っ玉にしっかとからみついて――……
窓の向こうでは自撮り棒を持ってマグマに突進してゆく生徒もいたし、校長は隠していたウイスキーをここぞとばかりにぐいぐいあおってね、依存症の博物館みたいなもんだよ、社畜なんざァよ。お前はいいよ。二代目先生はさ……」
食べ終わり、食器だけ浸けると、遅延証明書を頼んで来る。余輩は診断書へ書いてやる。医師の権利で引き留め仕り候、大変ご迷惑をおかけいたしました。
ハシオキ氏が去り、余輩も開院に向けて準備する。――昨夜から並んでいた患者が帰って行く。――うちの奉公人たちは輪をかけて有休を復活させんがため、第三のクリニックの仕事まで始めたためにいっそう不在なので、何から何まで自分でしなければならず。
時代だ。水平線のコンビニで立ち読みするネンブツダイが、ワキガな柳の下でスリッパを脱ぎ捨てていた。
裏手の焼却炉で大量の紙を焼く業の深さ。保存期間を過ぎた書類は個人情報だしするから破棄せねばならないわけだけれども、仕事とは言えこのご時世にこれだけの二酸化炭素をまき散らして。
せめて料理や風呂や暖房など、生活に使えばよろしいのにとも思うけれども、ありとあらゆる症状が記録せられた紙、むなしい希望や悲しい同意の怨念が染みついた紙、そんなもので按排された如何なる生活を送ることも生理的にイヤだ。
気がつけばすでに今日も一日忙しかったものである。繁盛して繁盛して。最も繁盛する月曜日を避けて火曜日に来る人の多さは月曜日を優に上回る。ほとんどが惰性の通院で、あとはせいぜい風邪や親不知や、急性の食中毒や捻挫脱臼、うどんこ病や冬虫夏草や気門閉塞etc.――それらの詳細な記録もいずれは二酸化炭素となる運命で、病気には病気の儚さがあるものである。
帰宅する前に、三田笛子から預かったF. Santa #229の様子を見る。隔離本棚で一人、ちんと立てかけられている一冊の患書を。
マスクをしてゴム手袋をはめて、トングで以て診察台の上に寝かす。そうしてゆっくりと開腹すれば――まだまだ譫妄は続いていた。
ほんらい序文があるべきところに「明けの明星が脱いだ靴下の丸さに竜巻が迷う階段井戸のピル、辞書の行間に宇宙船が沈む便秘気味のコンドーム――」……。
それ以前に、もくじがあるべきところからして「沸騰する鏡の下唇でスキンヘッドの羊がチェスを指す、参観日の転校生はアツアツの電信柱のてっぺんでビスケットの蛸と××しました――」……。
著者紹介のあるべき表紙裏からすでに「逆さまのピラミッドの中で金平糖が叫ぶのは、新年度の望遠鏡が公衆電話のにおいに片方だけ勃起したことのチクリ報告――」……。
表紙がそもそも凍える花火の剣山に着地したナマケモノの実家のバスタブが駆けてゆく前世の消しゴムであった。
――どう治療したらよいかわからぬ。笛子さんとしては、同じ本を買い直せばよいものを、わざわざ持って来たほどの思い入れだ。むろん魔法の言葉「手遅れでした」があるにはあるけれど、正直余輩も、この本の元のすがた、もはやだいぶ知りたい。
それでしばらく読み続けてみたけれど、この方法ではダメであろうと思われて中断す。隔離本棚に戻して、その面前に籐椅子を置き、キセルをくゆらしながら沈思す。
水玉模様のナメクジが星座という星座から煮えたぎる水たまりにこぼれ落ちてゆく。
出来得る処置はほかにないか。今のところは、重曹、竹炭、シリカゲルで徹底的に湿気を飛ばし、時おりパラパラと全体をめくる。あとは下手に手を出さぬこと。冷暗所で静かに過ごさせることのみ。
こやつを治せたあかつきには、しかしそこであるいは古くから重んぜられて来た大書物の中に、じつは患書であったと判明するものが現れればどうなるであろう、そしてそれも芋づる式に治って、ほんらいのすがたが開示せられたら。
根底が塗り替えられること。その怖さ。大なるワクワク感もあれど、やっぱり神をも恐れぬ所業だ止そう止そう。
ふと、何か聞こえる。探せばすぐに出どころはF. Santa #229であった。どうやら、読んでもいないのに、自ら朗読を成すかのよう。肉声としての震動はなく、余輩がウェルニッケ中枢に直接、思念を送り込むようなかたち。明らかな悪化だが、とりあえず、送られて来るものを記録する。
アスファルトの裏を集団下校のカモメが歩いて。(母音の傾向などは如何。)手の甲の時計は鼻が眠い。(物語であるとは聞いている。ストーリーの痕跡が探られ得るか。)青い信号機が枯れながら。(散文か韻文か。)海面に溶け出した月光でウミウが顔を洗う階段の酸っぱいこと。(訴えかけているようなことはないか。)無重力の地下室で遠心力がワルツを踊る霊安室の座布団は温かかった。(暑いとか寒いとかは。)テレビがアンテナで電波を呼吸している時、夕暮れの歯ブラシは学校を辞めていた。(酸素室に入れるべきか、いっそ真空状態にすべきか。)石鹸のバケツの底で彗星が酸化する週末、虹がひび割れる空でサイが羽ばたく時刻、自転車の海で三日月が突き指をする。(日に当てるか。)
――内容自体は、変わらぬ錯乱。興奮などもとくに見られないけれど、過労が案ぜられなくもない。このまま心臓麻痺して死なないかしら。その場合、心配事はダイオキシンのたぐい。
それというのもこのたびのケースは、早い話がインクの病だ。東洋医学では、語彙のめぐり、韻の滞りなどを診る。心霊治療のほうでは、普遍的な著者の怨念よりも、個別的な読者(笛子さん)の思い入れを探る。我らが西洋医学では、インクそのものに原因を定めて最短距離で直接射抜く。
それがためにインク病によるインク死を、うちの焼却炉で荼毘にふす場合、異常インクから発生するダイオキシンのたぐいが憂慮せられるわけだが――ハッと気づいて、この電波的朗読、どの程度まで範囲の及ぶものであろうか。
蔵書にうつっては困るし、それこそカルテのたぐいに影響を及ぼされなんぞしたら大変なことになるしするから、考え考え、隔離本棚の内壁に防音材を敷き詰める。それから四隅に盛り塩をして、F. Santa #229本体もさらに小型の金庫へ入れて施錠し、地獄草紙のレプリカでぐるぐる巻きにしておく。
何とかかんとか、モグラのリモコンがゆっくりと電卓に戻って行った。とりあえず余輩のウェルニッケ中枢も静かになり、ひと安心して、キセルを詰め直していると、チリリンと鈴を鳴らして入って来たのは笛子さんであった。相変わらず矢絣袴に島田髷、目のキリッとした美しい顔立ちで、
「ちょっと、様子を見に来ました」
と言う。入院病舎への見舞いとしてはまだ尋常の時間だ。しかし目的はそればかりではないというふうな、優しみを帯びた瞳の色であった。
「少し待っていてください」
と言って、たった今当の患書に施した所業を大急ぎで片づけた。隠滅し終えて、廊下へ顔を出すと、壁にズラリ掛けてある余輩の認定証や賞状のたぐいをキラキラした目で見上げていた。
「どうぞ」
と言うと、クルリふり向いて、駆けるようにやって来た。入念な消毒と、頭巾とマスクの装着を命ずる。笛子さんがそれらへ従順に取り組んでいるあいだに、余輩は診察台の上へF. Santa #229を移し、手に取って見たいだろうと思って、半歩下がった。
もう朗読の症状は治まっていた。のみならず、笛子さんがおそるおそる手に取って、ぱらりと開いてみると、ちょうど小康状態で、もくじが、少なくとも体裁だけはもくじに戻っているのだった。
「白羊宮の嵐が腰痛に響く ……………………………………… 2
金牛宮の震えが十二指腸にからむ …………………………… 5
双子宮の水掻きが脊椎をつまむ ………………………………… 7
巨蟹宮は歯根の射精による排便困難だ ……………………… 8
四死球の湿布の古さは歴史に残った …………………………… 9
処女宮は裸で獅子宮を乗り回していた ……………………… 9
天秤宮の若葉は如雨露で梳かれる …………………………… 9
天蠍宮の骨が誰よりも太っていた …………………………… 9
人馬宮に夜な夜な逃げられる舞茸 ……………………………… 9
磨羯宮の運命は水のおもてに浮かんでいる …………………… 9
宝瓶宮の二日酔いはあくびで治った ………………………… 9
双魚宮には誰も住んでいないのに煙突からウインナー色の煙が9っていた」
――と、以上のようなふうであった。それを、余輩と笛子さんはお互いの頬もくっつかんばかりに、一緒になって覗いていたのであったが、次のページもまた新たなもくじが続いているのであって、
「月の頬を撫でる風が天界の隠語を含んでいないことにはまだ慣れない 1
水星に監視カメラがついてから千年経っても瞼の裏には天界の門だよ 11
金星たちの聖歌隊の不協和音が悪魔どもの便秘因になれば鏡の両側で 26
太陽の夜はどんな骸骨たちもふたたびマントのように血肉をまとって 31
火星は火星でなくなって最初にオリモノを拾った酵母と恋人になった 48
木製なあくびの静かさは目が潰れるほどの眩しさに比べて勝るとも劣 64
土星の父親の孤独と木星の罵詈雑言に腰かけていられた幸福な幼年期 89
天皇制は蛍が飛び去ったあとのくぼみに雨が溜まるよ星々の雨垂れが 101
海王星の半身は世界を丸ごと置き去りにして天王星まで後ずさりした 117
二〇〇六年をskipするためなら冥王星はWBCの日本敗退も辞さない 119」
――と、以上のようなふうであった。
けっきょくそのまま最後までもくじで、笛子さんは肩をすくめて、
「治ってないですね」
と言った。余輩はその肩を軽くポンとして、
「まだ二日目だよ。焦らせちゃ毒だし、根気よく行こう」
F. Santa #229を隔離本棚にそっと戻す。笛子さんは表紙を軽くすりすりとして、下がった。それから二人して応接間へ行き、コーヒーを淹れようとしたところが、電話が鳴ったので失敬と言って出る。
知らないクリニックの奉公人から、使い切った有休を復活させんがため働かせてくださいという申し出で、まあ情けは人の為ならずだ。Kindness begets kindnessだ。余輩は承諾した。
応接間へ戻ると、笛子さんがコーヒーを淹れてくれていた。入院患者のOB(故人)のお孫さんから先週送られて来た海外のチョコレートを開けて、我々は楽しい時間を過ごした。お互いの青春時代の種々、悲しかったこと、つらかったこと、苦しかったこと、恥ずかしかったこと、それらが善なる思い出を悠々と凌駕してゆく生き成仏の心持ち。
水浸しの砂漠で地球育ちの宇宙人たちが色とりどりの書き初めをしていた。
並んで立ってコーヒーカップを洗い、終わった頃に最前引き受けた奉公人の青年が到着した。同時にいつもの娘さんも到着し、二人に夜間の諸々を任す。娘さんに鍵を渡しつつ、しかし若い男女が二人だ、くれぐれもマチガイがないようにと目で釘を刺しながら。
さて笛子さんを家まで送る道中には相変わらず三軒ものモーテル。我々はヘトヘトで笛子さんの家に到着した。
「それじゃ、ごきげんよう」
と去りかける余輩の裾をつかんで、
「あのう、先生。もしご迷惑でなければ、うちでお夕飯を……」
と消え入りそうな声で言う。余輩は是非ともと即座に受けた。
中に入れば、縦にばかり馬鹿長い彼女の実家はフランキンセンスの匂いがしていた。ご両親が見えて、余輩ごとき青二才に深々と頭を下げられる。余輩は五体投地で以て対しようか、それはそれで下手礼儀か。まごまごするうちに挨拶の段は済んだものと見なされて、高さばかり嫌に高い食卓へいざなわれた。
ふと壁に電話が見えたので、
「お借りしても構いませんか」
「どうぞどうぞ」
ということで親父に連絡をした。今日はメシは外で済ますよ。そうかい了解。
食卓に着く。正面は御父上だ。一見して笛子さんは父親似であった。しかし余輩が好きな彼女の唇と鼻のあいだのくぼみは如実に御母上が遺伝であった。
余輩はいわゆるおふくろの味というものを知らない。その夜の食事はこれまでに食ったどんなご馳走よりもうまかった。そんな余輩の気色を察しられてか御母上の目にはにじむものがあり、余輩は粗めなテーブルクロスと細めな蝋燭とに激しく郷愁を感じた。
厚くお礼を言って帰宅すれば、暖炉の前のウィングバックチェアに親父のすがたはなく、寝室に行けば訪問介護の方々が涙を流しながら柩の中に横たわる親父に花を投げていた。
余輩の咳払いで訪問介護の方々はそそくさと帰って行かれ、親父は後転倒立で以て柩から這い出ると、余輩の顔を見て、
「――何だ。いいことでもあったか?」
余輩は答えて、
「お父さんに言うことじゃありませんね」
「何だ、コレ(小指)か。え? そりゃァよろしいこったが――……もしかして患者に手を出してるんじゃあるまいな?」
「違いますよ」
親父は大きくうなずいて、
「ならよろしい。今度連れて来なさい。ご馳走したいでな」
寝る前に笛子さんと電話した。
「会いたいわ」と言う。
「僕もさ」と答える。
3
骨壺の居心地を調べるために、いったん骨片状にされた人々、散骨の撒かれ心地を調べるために、いったん灰状にされた人々、そういう過去を持つ人々が住んでいる村がどこかにあるとすれば、この村がそうだ!
カエルのトランポリンで前歯を骨折するすべてのハダカデバネズミだ!
余輩をゆいいつ「二代目先生」と呼ばないでくさるのは、いつも前の晩から開院を待っておられる患者だけであった。彼は町村さんといって、四十がらみの細身なオジサン。時には余輩が出勤時に話しかけて来る。
「おはよう先生」
「おはようございます。町村さん。お加減はいかがですか」
「それはまあ、診察の時にしましょうよ。ここで何か話しちゃ、余分にお金を取られかねない。保険適用外とかになってね」
「院外でやる分には、そもそもかかりませんよ」
「本当かなァ」と、そういう話をするには遠過ぎる距離のまま、「しかしナンだろう。え、こうじゃないかね。つまりお医者というものは、患者が客だ。完全に治しちまうとおまんまの食い上げだからして、治り切るかどうか、ちょうどいいギリギリのところを按排しているんだろう。どうだ」
ぐうの音も出まいという顔の強さ。余輩は肩をすくめて、
「それは誤解ですよ」
「そりゃ当人はそう言うだろうな」
「いやいや、むしろ真逆だ」
これに町村さんは、顔に勢力を失して、
「それはどういう、その心は?――」
「その心は、生き物ですから。時の中で暮らす以上、根本的に治ることはどうせないんだから、全力で治し続けるほうが結果的にお客がつく。いったんは遠回りに見えても、長期的には」
「ほんとかいな」
「ほんとです。要するに人間ちうものは、生まれては死んで行く以上、生きてる状態のほうが異常なわけだ。不安定で。つまり病気なんだ。医者がある人を完全に治したとしたら、その人はすなわちオダブツする。あるいはそもそも生まれて来ない。むろんこんな御託を意識するのは生きてるあいだだけですけれど、その意識をして言わしむれば」
町村さんは指折り数えて、しばし考えておられたが、
「――だったら何のために、先生はそんなことをしてるんだね」
「それは、親父がやってたんで、自然な流れで継いだんですよ」
町村さんは、そうかそうかというふうで、ふたたび立ち尽くすことに戻って、ボンヤリと開院を待ち始めた。月の飴が外蓋からアカハライモリになって、彗星を追いかけてゆく宇宙服を着た陰茎は足を組んで植木鉢に生えていた。
さて代わり映えもせず水曜日の朝だけれども、最初の出来事としては町村さんとの問答に先を越された観のある橋崎沖阿弥人呼んでハシオキ氏、米粒を跳ね散らかしながら会社の愚痴を語らく、
「お前はいいんだよ、二代目先生よ。それに比べて社畜はよ。ェえ? 弟は親父に似て、自ら電力になれるから、まあ一般の社会の歯車から落伍してもサイアクどうにかならァな。俺を見ろよ。え。自ら電力になれそうかい? もっとよく見なって。どうですか。二代目先生よ。そういうこったよ。
同僚にゃァ、自ら爆薬になれるのもいたけれど、いっそあれすら羨ましいよ。それからこれは言ったかな? ェえ? もう聞いたって? そこは聞いてないことにしてちょうだいよ。ここだけの話さ、ちゃんと申請していたらもらえてた不労所得があり得たんだよ俺にはよォ、べらぼうめェ本当に。畜生ぉぉ……シメてウン千万円也だってよ、馬鹿野郎ォ。
ところで女に会ってね。いや部署がナニしてアレだもんでさ。会ったんだと思いねえ。それで、二度目に会った時だよ。初めて新鮮さを覚えたんだよ。何だろうなアレは。あるいは懐かしさかい。温かみと重みとがシックリしていてさ、嘘くさくなくって、ほどよく間が抜けてたよ……」
遅延証明書を書いてやり、ハシオキ氏が出勤してゆくと、余輩も開院に向けて諸々の下ごしらえを始める。――町村さんが帰って行った。――夕べの奉公人たちが何か失敗や悪さをしていないかどうか、薬の在庫やら休憩室の寝台やらあちこち調べて、大丈夫らしいと見ると、入院患者用のレトルト・ケアフードを一斉に湯煎し、そのあいだに病舎の水回りを点検する。
ある古典映画のサントラを流し、今日は午後休診なのを楽しみにして、体温計と食事を配り終えると、裏手へ出、天気がいいので衣類やらシーツやら溜まっていたのを洗いまくる。からくり儀右衛門ばりに、特許申請中の巨大カラクリで以て。まだ名はない。そちら(商品名)のほうはまたそういうことに閃きのある、沖阿弥あたりにでも任せることにして。
力いっぱいペダルを漕ぐ。軽いギアから、乗って来たらどんどん重くして、ぐんぐんと漕ぐ。すると、子どもが泳げるほどの桶の中で、無数の襞が複雑に動き、大量の洗濯物を優しく揉み洗いする。
仕事とは言え洗浄剤・消毒剤を使いまくる業の深さ。しかしこれもまただんだん丸くなっているしするから、環境汚染に強い何らかの生物が新たな生態ピラミッドの新階級へ昇らんと準備していたのだったら、高度経済成長以来七十年ばかり、期待だけ持たせて気の毒なことであった。
波というものはどこにでもあって、来院者はぱたりと来ず。ふだんなら週の中頃、これに雨でも降ろうものなら、最も空いているべき時日であるからして、かえって最も殺到するようなものを。ラクな時間はいつまで経っても過ぎない。本然の自己やら人生の意味やらの問題がゴキブリのように入って来そうになるのを、笛子さんとのデートの約束を想って散らす。
トイレに行き、応接間で一服吸って――キセルが面倒なので紙巻きで以て。――それからF. Santa #229の様子を見に行った。防音材の敷き詰められた隔離本棚の中、地獄草紙のレプリカでぐるぐる巻きの金庫に軟禁されている患書。取り出してみると、途端に朗読を始める。どうもまた、悪化しているようで。
何か意思表示的なものもあるやもしれぬと、記録を試みる。
――やい。そこの能無しの猿。そんなに自分を貶めるでないよ。砂嵐の中で公衆電話が鳴っているじゃないかさ。あなたなんて紙吹雪の舞い回るトンネルの中で河馬がバスケをしてるんですよ。まるでメガネをかけた信号機がトライアングルであやとりをするように。そんな能無しの猿も朝の電球は黒いんでしょう。そんな悲しそうな顔をして。さぞかし寝不足の交差点では月曜日が血まみれのパレードをしてるんでしょうね。
ああ剥製にされた風がいい匂い。朝ごはんはよろしくてよ。おなかの調子がちょっとね、しょっちゅうスノードームのジャングルが恒星のプールに溶けてゆくの。十月のノートは耳鳴りがしていたわ。あなたのお母様はカレンダーまみれのクローゼットで鏡張りのホコリが泣いていますよ。
なに、そういう意味ではなくってよ。砂時計のウエストで甘えびが日向ぼっこする浜辺じゃないさ。ビー玉の空を這うカタツムリが月蝕を阻んでどれくらいになるでしょうね……ねえあなた。そうじゃなくって?
――ペンを置く。聞いたことと書き写したことが急に違う。あるいはここは一致していて、思い返すことが違うのであろうか? あるいはこの先も、確認し直すたびに?
人間の思考や感情というものが、どの程度まで言葉から成るかはさておき、少なくとも一切は人類が言葉を持ったという事件を経たあとの事情である。痛みだとか、官能的刺激さえ、言葉以降の事情である。
世界も。我々が知っている世界は、言葉以降の我々が見る世界ばかりだ。言葉以前は、マッタク違うものが見えていたのかもしれぬ。違うものが聞こえ、違うものを嗅ぎ、違うものに触れていたのかもしれぬ。
インクの病と言ったが、やっぱり言葉の病であったら? 人間から乖離した言葉自体の暴走であったら? F. Santa #229は媒介物に過ぎず、その奥からこちらを見ているものがいないか。そしてこの症状がほかの書物や書類のみならず、人にもうつるとしたら?
感染し、余輩の中の言葉から意味や脈絡が破壊せられたら。それによって、言葉以前の世界の見え方に移行するとしたら。あるいはその手前で止まり、壊頽した日常に放置せられたら。
そうして記憶もやられたら、時間も何もやられる。過去から未来へ一本の流れがあるという構造も崩れる。そうなると、F. Santa #229を預かる前からすでに余輩が世界は壊頽していたということに塗り替えられないとも限らぬ……!
――……何だこの考えは。そんな馬鹿なことが起こるか。これもけっきょくはF. Santa #229が宣うた戯言だったのであろうか。
斯くして余輩はF. Santa #229を裏手の焼却炉へ放り込んだ。ダイオキシン? 何の話。また無脈絡な病める戯言に過ぎなかろうて。
えらく盛大な煙が出た。しばらくして開けてみると、きれいな灰があるばかりであった。シロクマの双葉が生えては空に落ちて行く火山の中でゴマフアザラシが懸垂をしていた。
顛末を伝えねばと、笛子さんに電話するけれど、おかけになった番号は現在使われておりません。まあ、それはそうで、彼女の原因たる患書を焼いたのだから道理だ。いちおう家のほうにもかけてみるけれど、笛子さんはご在宅でしょうかに対して、笛子? うちにそんな人はおりませんよ、ガチャ。
――こっちも、そんな人を呼びはしていない。間違い電話だ。生まれて初めて、余輩、被害的の間違い電話をこちらからかけた。
イカスミだらけの時間の中で、珊瑚がカラスの絵を描き始めて早三十余年。相も変わらぬ水曜日であった。この午後は予定もナシ、入院患者もたまには羽を伸ばしたいであろうからほっぽらかして、家に帰る。
細長い森をちょうちょ結びにしたようなログハウスで、親父は訪問介護の方々からお酌をされて飲んでいた。
「おう、おかえり」
「ただいま帰りました」
親父が手をひらひらと振ると、訪問介護の方々は帰って行ったが、一人、若い女性が残った。矢絣袴に島田髷、目のキリッとした美しい顔立ちで。
親父が気づいて、
「嗚呼そうだ、わしがかつては医者だったと言ったら、このお嬢さんが是非とも診てもらいたいと言うんだよ。引退したんだと言ってもイヤイヤをするし、埒が明かんでな。それで、倅が跡を継いどるがと言ったら紹介してくださいって言うんだろ、それで待ってたんだよ」
若い女性は、余輩の前に進み出て、大事そうに胸元へ抱きしめていたものを差し出し、言った。
「この本を、治していただきたくって……」
とりあえず、テーブルの上へいざなう。親父も、他人事となったら興味津々、やって来て、三人頭を寄せ合い、問題の本を見下ろした。
「それじゃ、診ますね」
余輩はそう断ると、数ページ、ぱらぱらとめくった。茶渋の海とシケモクの山が殴り合う音がして、シロナガスクジラの匂いがした。本は、見るからに譫妄状態であった。
ほんらい序文があるべきところに「陛下、音速のパジャマで寝返りを打った娘はまだ見つかりません・世界地図という指紋の中でアリクイが座禅しているばかりで――」……。
それ以前に、もくじがあるべきところからして、「縦に回るメリーゴーラウンドの屋根の上でハリガネムシが祈る・音符が降り積もる縄跳びを尻目にマイマイカブリは大西洋を飲み干す――」……。
著者紹介のあるべき表紙裏からすでに「コンクリートの渦巻きの底に住まうマンホールでスクラッチくじをこする正月のフクロウは瓶詰めのGスポットよりマッチを擦るんだからして――」……。
表紙がそもそも時計の針に刺さったアユが火炙りにされる夕暮れと迷路のど真ん中で燃え尽きる虎の毛糸を透明になるまで編み上げて窓ガラスにする城から逃げて来たナイルワニが空にそびえ立つ日のニオイといったら…………。
この症状は急になったようだが、どう治療したらよいかわからぬ。とりあえず入院手続きをして、預かることにした。
色々と記入してもらって、若い女性の名前が三田笛子であることを知る。
患書は、とりあえず持ち主の名とIDの下三桁で以て「F. Santa #229」と名づく。
"F. Santa #229 ―病める本を診る―"へのコメント 0件