谷を出よう
腥田をにゆり
目が覚めて——あたしは愚直な手を叱りました、
宝石は失せていました——
それでいま、紫水晶の思い出が
あたしにあるすべてです——
――エミリー・ディキンソン『あたしは手に宝石をにぎしめ』(亀井俊介訳)
一、
M太郎とK嬢は、この谷から出たくてたまらなかった。遠く離れた城は、うわさによれば紫水晶でできた窓をもち、泡立草を金色に織りこんだ壁をしているという。なにより、山に囲まれることなく海辺の風にさらされるその城では、かもめが青空に白い弧をえがいてたわむれるらしく、ふたりはいつかそんな景色をこの目でたしかめたかったのである。
だが、赤薮という闇の学者とともに錬金術の学舎で暮らす彼らには、どうするすべもなかった。実際のところ、錬金術にはうんざりしていたのだ。赤薮のとなえる数式も、あの古びた奥義書の内容も、彼らにとっては味気ないおじやのようなものにすぎない。骨を折ってあつめてきた河童の毛髪、赤鬼の角粉、土蜘蛛の涙をすべて坩堝のなかに放りこみ、あとは闇味のミルクとごちゃまぜにすればホムンクルスができあがると教えられてはいたものの、そうやすやすと事が運ぶわけもなかった。
ぐるりぐるり、と木のへらで坩堝の底をこする。くる日もくる日も赤薮の言いつけでひどい目にあい、それでも苦労の成果は、ただ坩堝のなかでぶくぶくと水泡に化すばかり。それが彼らにとって少しずつ、しかし確実にいやになり、いまでは投げ出したくて仕方がなかった。
(ああ、投げ出すことができたなら)
そう思いながらも、またしても赤薮の書きつけた製法どおりに、こまごまとした材料あつめをつづけてきた。にもかかわらず、坩堝はあたりまえのようにふたりを落胆させ、おまけに、大きな蝿をひきよせる腐ったバナナのようなにおいを放つのであった。
「あなたのせいだわ」
「いや、きみこそ材料の分量をまちがえたんだ……」
やがて、ふたりは失敗をかさねるたび、長く言い争うようになった。K嬢は、このような言い争いをしたかったわけではない。だが、M太郎に責められるがままでいると、まるで本当にすべて自分が悪いかのようであり、せめて責任を半分ずつに分かちあいたかったのだ。いつしか、城にかんするうわさも少しずつ忘れ去られ——冬がくるまで、ふたりはずっと毎日のように争いつづけた。銀色の雪がさんかくの屋根と静かなトンネルをおおうころになっても、それは変わらなかった。
凍りついた舗装路のうえを歩くと、ぱきり、ぱきりとひびが入る。K嬢は道が割れて下の古代湖に落ちるのを恐れ、一歩も学舎から出たがらなくなった。からすもつばめも、冬になればあたたかい南の島へと旅立ち、ここの空にはもう飛ぶ鳥の黒い影すらない。そこにあるのは、勢いを増した銀色の風と、まばゆい陽の反射だけであった。
「南へと連れていってくれたなら」
K嬢がそう願ってみたところで、赤薮の言葉どおり、一人前になるまでは好き勝手など許されない。いちど、赤薮になぜ錬金術を学ばねばならないのかとたずねてみたことがある。しかし彼はただ、凍った湖をくちばしでコツコツと叩きつづける愚かなあひるを指さし、「見てごらん。翼のふりかたを春におぼえなかったから、冬になったらくちばしひとつで戦うしかないのだよ」と語るだけであった。
M太郎はそれを聞き、たまらず反発したくなったが、どうすればあひるの身をうまく弁護できるのか思いつかなかった。それよりも、彼は学舎の裏をまわり、川を越えたところにある裏山のことを思いおこした。裏山には長い階段があり、のぼった先には紫色の鳥居がたたずんでいる。そして、本殿には大蛇魔さまがまつられているのだ。赤薮は聖なる夜になると赤服の審査員となるため、審判がくだされる前に、どうにかして学舎から逃げ出したかったのである。
M太郎は、材料をあつめるついでに大蛇魔さまに会いに行こうと、K嬢をさそった。K嬢は舗装路への不安をだきながらも、やむなく、やわらかくて滑らないゴム長靴にはきかえた。きゅっきゅっ、と雪を踏みしめ、ふたりは陽の反射がまだ弱い朝食直後にでかけ、川を越えてその階段をのぼりはじめた。
階段は一段いちだんに深い雪がつもり、足場のさかいめがふわりとしていて、ゆっくりとたしかめながら踏んでいくほかなかった。
「気をつけて」
M太郎が、まだ下を歩くK嬢に声をかける。
「少し待ってよ」
K嬢は追いつけず、ひたすらに緊張を帯びていた。
「うえで待つから、ゆっくりでいい」
「落ちそうよ、行かないで」
そう言いあっても、けっきょくのところ、せかせかしたたちのM太郎は待ってはくれない。ふとK嬢が顔をあげた瞬間に、M太郎の背中はすでに消えうせていた。
「大丈夫か」
M太郎が案じて、うえのほうから大声をだした。
しかし、K嬢からの返事はなかった。——M太郎が階段から首をだして下をのぞきこむと、「大丈夫じゃないわ」と、ようやくのぼりきる寸前のK嬢が、力つき恨めしげな瞳で彼をにらみつけ、階段の正面で、両ひざに手をついたまま数分間やすんだ。はあ、はあ、と白い息がもれる。
ようやく本殿に行き着き、大蛇魔さまと対面したものの、大蛇魔さまはおそらくまだ眠りについているらしく、賽銭箱をからからと鳴らしても微動だにしなかった。
「やはり今年は、悪い子と判定されるのかしら」
「さあ、それはそれでいい。もう谷から出たいんだ」
M太郎はいらだちをおさえきれず、大蛇魔さまが目覚めないのをみて、もういちど賽銭箱を鳴らそうとした。しかし、手元には電子通貨しか残っていない。賽銭箱のわきにある呪文を読みとると、ぴぴっ、と小さな音が鳴ったが、それでも大蛇魔さまは起きなかった。
「しかたないわ、あきらめましょう」
K嬢はいよいよ弱気になって口元をふるわせ、その吐く息は白くにごった。
「しかたなくはないさ、おみくじを引いてみよう」
「おみくじ?」
「ああ、きっと谷を出ていいかどうかを教えてくれるはずだ」
M太郎はそう言いながら、わきに置かれた円柱の箱をもちあげた。さかさまにして左右に振る。かしゃかしゃと鳴り、小さな穴から数字の書かれた棒が落ちてきた。
その数字をたしかめ、すぐ横にならぶ小さな引き出しを引っぱり、なかからおみくじをとりだした。おみくじは紙巻き煙草のように丸められており、封をといて中身を見ると————
【末吉】
庭に長き影のさすときは、
日の傾き始まるしるしなり。
草の葉のふと身を震わせるは、
闇の訪れ近きを告ぐる知らせ。
されど闇は永く留まるものにあらず、
静かに時を待つべし。
「なにが待つべし、だ」
M太郎は丸めた雪玉をもみもみとかたく握って、空へと投げつけた。
これほど怒ったM太郎を見たのは、それが最後であった。
翌朝、M太郎はK嬢をおきざりにして学舎から姿を消していた。置き手紙ひとつ残されてはいなかったが、きっと城へと旅立ったのだろうとK嬢は考えた。それでも、彼女は大蛇魔さまの託宣を疑うことはなかった。たとえひとりきりになったとしても、ただ静かに時が満ちるのを待つことにしたのである。
二、
「別嬪さんも、ふてーなったね」
一年、また一年がすぎた。いつしか聖の夜に赤服の審査員がこなくなり、K嬢は、このまま谷に居つづければ自然と悪い子になってしまうのではないかと考えた。しかし、このまま錬金術の修業をし、学舎に居つづけ、しかも一度も坩堝でなにも作りだしていない彼女のことを、谷の人々はなぜかよくほめてくれるのであった。
ある日、女神のアルテミスと契りをかわした折に、とある賢女から甑で蒸した桜色のご飯をもらった。桜色は地サザエの野葡萄のような卵塊よりも淡く、そしてひとりでは食べきれない量であったため、K嬢はふいにM太郎のことを思いだした。
(彼は城で元気にしているだろうか)
あの日以来、彼女は学舎から出ていけなかったことに、いくぶんかの後悔をおぼえている。錬金術の見習いとして暮らすというのは、つまり、いつか自分が闇の学者を受けつぐということである。彼女はそんな運命を否定したくとも、鏡に映る自分の顔は、なぜかどんどん闇の学者にふさわしくなっていき、このまま一生、あの金色の壁や、すきとおるひし形の窓に出会えぬまま、谷とともに移ろっていくのではないかとおびえた。
やがて、蝉と鈴虫が交代する隙に、K嬢ははだしで学舎から逃げだした。赤薮にさとられぬよう、こっそりと夜のオーケストラに乗じて、馬車がくるまで、ひとりでぽつんと建てられたベースメタルのジャムチで待つことにしたのだ。
ジャムチはとても狭く、暴風雨がくればすぐにでも屋根が飛んでいってしまいそうなほど所々がさびついていた。ベンチに年輪はなくとも、生えたきのこの大きさから、このジャムチが昔からずっとここにあったことがわかる。ちょこんとベンチに腰をおろし、爪先をトントンと鳴らしてみる。
(M太郎も、もしかしたら馬車で城へ行ったのかもしれない)
そう思い、K嬢は不安を感じつつも、どこか胸の熱をおさえきれず、今回こそ谷を出ると心に決めた。
もし城に行けたなら、まずK嬢がいちばんやりたいのは、角笛にもられたルビーと、とろりと溶けた白い透閃石のドルチェを食べることである。彼女は大の甘党であったが、谷にはなかなかドルチェと呼べるものがなく、あっても牡丹か萩くらいのものであった。城のすべては谷の者からすればひどく派手で、そこの住人たちは毎日パレードをし、あざやかな夜会服をまとい、錬金術もホムンクルスも、谷ほど重要ではないようにみえた。きっと自分も城に行けば、舞踏会ですてきな王子さまと出会い、西洋のおとぎ話のようにふたりで幸せに暮らせるのだろうと夢見た。
ジャムチのベンチに腰をおろしただけで、K嬢はすでにぼうっと夢心地になり、目の前の案山子さんがこちらをじっと見つめているのも気にとめなかった。
しかし、どうやら馬車は約束どおりの時間にはこなかった。満州馬賊にでも出くわしたのかと、K嬢は馬車のことを案じはじめたが、それにもかかわらず、小さなジャムチの屋根は強い嵐で揺らぎはじめ、どしゃどしゃと空から灰色の犬や猫が降ってきた。目の前の畑で猫や犬たちが走りまわり、収穫前のかぼちゃが踏みつぶされてぐにゃぐにゃになった。泥まみれになったかぼちゃたちは、もともと仮装大会のために城へ届ける予定であったが、どうやらこの嵐のせいでどうにもならなくなったようだ。
K嬢はいよいよあきらめ、犬や猫に追われながら、さっきのようにササッとはだしで学舎へと引き返した。そのとき、畑のまんなかにいた案山子さんが倒れ、泥のついたまま運ばれていった。嵐が強まり、案山子さんはすぐ先を歩いていたK嬢に追いついた。
「案山子さん、案山子さん。どこへ行くの?」
案山子さんは犬や猫に運ばれるまま、「畑じゃなければどこでも」とだけ言い残し、あまりの速さでさらに先へと消え去っていった。
嵐の番号はあとから知ったが、数年前におみくじで引いたものと同じであった。それなのに、番号だけは覚えていても、なにが書かれていたのかはいまや思い出せない。案山子さんのあのときの言葉だけが、嵐が去ったあともずっと、ぐるぐるとK嬢の頭のなかをめぐりつづけるのであった。
三、
ある日、M太郎が学舎に帰ってきた。
「お久しぶり」
「ああ、君は変わらないね」
M太郎は前と比べて、より冬風のような顔つきになっていた。K嬢は城のことについていろいろと聞いてみたかったが、M太郎は黙りこんだまま、すぐに裏山のほうへ向かい、再びおみくじを引いた。
久しぶりにM太郎と再会できて、M太郎はきっと自分を城のほうへ連れて行ってくれるのだとK嬢は期待していた。しかし、M太郎は「もうどこにも行かない」とだけ言い、その後の彼は赤薮からレシピを受け取り、昔のように材料を集めるためにコツコツと働き始めた。
「城で何をしたの?」
「何も」
「紫水晶の窓があると聞いたけれど」
「さあね」
「ダンスは? 舞踏会はどうだった?」
「自分で行ってみれば?」
K嬢は久しぶりに会ったM太郎に嫌気がさした。まるで闇の学者風に振る舞う彼は、昔と比べてちっとも面白みのない人間になっていたからだ。はたして、城がそんなにいい場所で、それを秘密にしたいからあえて知らないふりをしているのではないか。
(いよいよ決めどきだ)
あの案山子さんの言うとおり、どこへ運ばれても物怖じしないで、行けるところまで行ってみよう。K嬢はやっと勇気を出して、またジャムチで馬車を待つことにした。
このジャムチは先の嵐で屋根が吹き飛ばされていた。山々がすでに枯れ色に彩られつつあるなか、この日の陽射しは暖かくベンチのところまで差し込み、隅っこのきのこの傘も生命力に満ちて、次の嵐が来ても負けない大きさまで膨らんでいた。
馬車が到着するまでに数分しかかからなかった。彼女は御者にあいさつすると、すぐに前の席に着いた。
(決心したら、こうも上手くいくものなんだね)
こうしてK嬢は谷の外へ旅立ったのである。車輪がぐるぐると回ると、K嬢の頭のなかではすでに舞踏会がはじまり、さまざまな不思議な仮面をつけた男性と、長いフリルのドレスを着た女性が華やかに踊りまわっていた。
そして、再び馬車の窓を眺めると、ビニールハウスも、あらゆる畑で仕事をするほかの案山子さんたちも、すべてが後ろに取り残されていき、車輪は止まることなく知らない先へと進んでいくのだった。————トンネル————トンネル————トンネル————トンネル————トンネル————谷を出た。
K嬢が振り返るたびに、山々は少しずつ小さくなっていき、最後はおにぎりほどの大きさとなって、ぽっと水平線に食い尽くされた。
「アリヴェデルチ」
地上波で見た海外映画のように、トンネルを作った職人たちの魂に訣別を告げたK嬢は、次のジャムチに着いたらすぐに目的地の城を目指そうとした。しかし、わらしべ長者のように、最初にいた小さなジャムチから、徐々に迷宮のような、あまりに巨大で一日かけても一周できないほどのジャムチへと変わっていくのだった。
変わっていくたびに、不思議なことにそこにいる人間も、言葉も、音も、すべてが迷宮のようになっていった。なんでも複雑で、ぐるぐると勝手に動いてしまい、「立ち止まったら、永遠にここから出られなくなるみたいだ」とK嬢は恐ろしくなった。それでも無理をして、押され、流されるまま前へ進んだ。ある場所で左に寄せられれば勝手に上へ流され、手を洗いたくても前に進めず人の後ろに立ったままになったり、向かってくるトランクを避けるのに必死になったりした。
「ここはうわさの城ですか?」
K嬢がなんとかジャムチから抜け出たとき、とある暇そうな音楽家にたずねた。
「泡立草は知らないが、銀杏なら金色の壁みたいに輝いていたよ」
音楽家はそう続けて言った。
「一曲弾くから聞いておくれ」
彼が浮腫んだ指で楽器を弾きながら歌い始めると、K嬢の疲れた心は、その完璧とはいえないメロディに惹きつけられ、ただただ手脚をそのリズムに合わせて踊らせるのであった。
K嬢の踊りに惹かれた音楽家は、さらに次々と、いろんな曲を演奏し始めた。K嬢も曲のリズムに夢中になり、斜め向かいにいる怪物の歌声に気づいていなかった。
「あの怪物は?」
「ああ、セイレーンという怪物なんだ。この城のあちこちにいて、迷宮のような海に流される人間たちを誘惑し、あらゆるものを吸い取って空虚になった彼らを吐き出すのだよ」
「あたしは誘惑されなかったわ」
「それは私の演奏が上手かったからさ」
K嬢は恥ずかしそうに笑い、明日もまた二人きりでリズムを合わせて踊るのであった。
四、
音楽家はたいそう素敵な人であったからこそ、城にいるいろんな人から「いちばんのお気に入り」として愛されていた。彼もまたいつも忙しく飛びまわっていて、しばらくのあいだはK嬢のリズムに合わせてはくれなかった。
たまにふたりきりで出かけても、ちっとも心は休まらない。たとえば晴れた午後に、広場のテラスで向かい合ってあまいお菓子を食べているときでさえ、彼は通りがかるたくさんの人たちに笑顔で手を振り、声をかけられるまま、いつまでも楽しくおしゃべりをしてしまうのだ。彼がほかの人と親しげに話すたび、K嬢の心は鋭い棘でちくちくと抉られるような気がした。それなのに、こんなにも痛くて痛くて仕方ないというのに、当の音楽家の快活な様子は少しも変わらず、演奏の腕前だってちっとも落ちてくれない。「いっそ、うんと下手くそになってしまえばいいのに」と、K嬢は自分が錬金術なんかではなく、恐ろしい呪術を学んでおけばよかったと本気でくやんだ。
あるいは——あのきらきら光る金色の髪の毛を、一本、毛根ごとむしり取ってやろうかしら。あとは材料さえ揃えば、彼とそっくりなホムンクルスが一体できあがるかもしれないのだ。いや、きっと失敗する。ええ、絶対に失敗するにきまっている。
やがてK嬢は、音楽家以外のものがどんどん見えなくなっていった。彼が舞台に立つ夜のライヴでも、K嬢は必ずホールのすみに陣を取って、彼のことを見張るようになった。まばゆい光の下で、彼がうっとりするような手つきで楽器を弾き終わると、舞台の下には待ちかねたように女の子たちがわあっと群がる。K嬢は、彼がほかの女の子と喋り始めたとみるやいなや、すかさず二人のあいだに割りこんで、強引に会話を終わらせようとした。
「仕事なんだから、そういうことはやめておくれよ」
ある夜、音楽家は困り果てて言った。
「それが仕事だっていうなら、いっそあたしのために音楽なんてやめてよ」
K嬢は一歩も引かなかった。どうして、あんなに楽しかったのに、こんなことになってしまったのだろう。ふと気がつけば、自分はまるで谷にいたころの、あの陰気な闇の学者のようになっていた。
そのとき、『闇来たらば、待つべし』という、大蛇魔さまのぼんやりとした昔の言葉を思い出した。心がこれほど苦しいいまこそ、ただ静かに待つだけでもいいのかもしれない。そう心を決めてじっと待ってみると、ようやく、一度は止まっていた音楽家とのやり取りがまた始まった。それ以来、K嬢はただ音楽家を信じることにして、彼のライヴにはもう行かないようにしたのである。
しかしながら、K嬢と音楽家の関係性が周りにばれてしまったせいか、とある大きなライヴのあと、音楽家はふっつりと会いに来なくなってしまった。やり取りも途絶えたままである。
あるいは、忙しい彼を自分だけのものにするために、あの熱狂的なライヴの会場で、ファンたちが彼をバラバラにして、それぞれ好きなパーツだけを持ち帰ってしまったのかもしれない。彼はたいそういいルックスを持っていたから、もしそんな恐ろしい争いが起きたのだとしたら、あの形のいい首は、きっとボールのようにあちこちへ激しく奪い合われたのに違いない。
K嬢のための取り分はなにもなく、しかたなく彼女は音楽家のことをあきらめて、また次の出会いを気長に待つことにしてみたのである。
五、
城のなかで生きていくのは、そうぞうしていたよりもずっと骨のおれることであった。いまにして思えば、M太郎が早々に谷へ逃げ帰ったのも、ちっとも不思議ではない。けれども、あのいまいましい赤薮の教えにこんなにも感謝する日がこようとは、城に来なければ一生わからないままであっただろう。というのも、K嬢が谷にいたころと同じようにでたらめな錬金術の実験をして、なにひとつ成果をあげずとも、ここの住人たちはなぜか彼女をたいそうな賢者だとほめそやし、おかげで錬金術だけでもなんとか食いつなぐことができたからである。
そうして錬金術で日銭をかせぐうちに、ほかの住人たちとも顔なじみになり、ときには連れだってにぎやかな宴へとでかけるようにもなった。みんなとわいわい騒ぐのは、それはそれで楽しいものであったが、それでもやはり、ここはK嬢がうわさに聞いていた城とはどこかちがっていた。住人たちが毎日あざやかな夜会服を着ているわけでもなく、紫水晶の窓などどこにも見当たらず、金色の壁といっても、けっきょくのところ谷でいやというほど見せられた山吹の花と、たいして変わらない色合いにすぎない。それに、宴が終わったあとの街はいつだってしょんべんのすえたにおいがただよっていて、なによりおかしなことに、街灯のあかりを太陽だと勘ちがいして、道ばたでぐっすりと日向ぼっこをしている、まぬけなロバの姿をよく見かけるのであった。
(こんなはずじゃあなかったのに……)
ある夜のこと。宴がすっかり終わったあとで、疲れきったK嬢が深夜のジャムチのそばを通りかかると、暗がりから見知らぬ声が呼びとめた。
「お嬢さん」と、声はいう。
知らない声であったため、K嬢は足早に通りすぎようとしたが、声はひどくしつこく、「お嬢さん、お嬢さんよ」とくり返し、とうとう点滅する信号機の下で立ち止まらされてしまった。
「なにかご用かしら」とふり向くと、そこにいたのはひどくあやしげな占い師の老婆であった。すっぽりと被ったローブのせいで顔のつくりはわからず、そのかすれた声は、まるで年老いたからすを思わせた。
「みえる、みえるぞえ」と、老婆がいう。
「なにがみえるというの?」
「おまえさん、あの紫色の鳥居をおぼえておるじゃろう」
紫色の鳥居といえば、ずっと昔にM太郎とふたりで雪の階段をのぼり、おみくじを引いた大蛇魔さまの神社のことである。あのとき、大蛇魔さまはけっきょく、いくら賽銭箱を鳴らしても眠ったままだったはずだ。
「そうさね、そうともさね。おまえさん、あの方への借りを返さなきゃあならないよ」と、老婆は不吉にささやいた。
「借りですって? 大蛇魔さまに?」
「そうじゃ。さもなくば、大蛇魔さまはおまえさんの魂をうばい、これからは暗くて冷たい闇のなかを這いずるように生きるしかなくなるのじゃ。あの方から、たしかにそう聞いた」
その日をさかいに、K嬢は毎晩のように恐ろしい悪夢にうなされるようになった。とても口が大きく、鋭く長い牙をもった白い巨大な蛇に、頭から丸呑みにされる夢を、幾度となくくり返すのである。目を覚ますと、いつも汗のじゅず玉が体中にじっとりとこびりついていた。やがて、老婆の不吉な予言がどうしても頭から離れなくなり、K嬢はしかたなく大蛇魔さまへの借りを手っ取り早く返すため、ただの錬金術だけではなく、もっと実入りのいい仕事を探しはじめた。
うわさを頼りにたどり着いたのは、ある薄汚れた酒場の裏を取り仕切る、「ねずみの王」のところであった。ねずみの王は気前よく仕事を紹介してくれるが、それはかならずしも、錬金術のようなのんきな仕事ではないらしい。
「おまえさんには、なにができるかね」と、王はたずねた。
「なんだってできますわ」
「よろしい。ならば明日から、さっそく頼みたいことがある」
「なにをすればよろしいの?」
「なあに、ロバの尻尾をひねるだけの簡単な仕事だ。あいつらは、時々尻尾をひねってやらないと、すぐにサボって働かなくなるからね」
そう言いつけられ、K嬢はそれからくる日もくる日も、街角で眠りこけるロバたちの尻尾をひねりつづけることになった。
そうして空の星の位置がふたたび入れ替わるころには、城で暮らす年月ばかりがいたずらに積み重なり、そもそもどうして谷を出てきたのか、K嬢はそのきっかけすら忘れかけていた。ただ大蛇魔さまへの借りを返すことばかりに夢中になり、今度こそ、この借金さえすべて返し終われば、きっと幸せになれるはずだと自分に言い聞かせた。だって、ここはあこがれの城なのだから、あの息のつまるような谷にいたころより、幸せになれないはずがないのだ。
ねずみの王からほうしゅうを受け取るとき、あの薄暗い控え室の社長卓のわきには、決まってひとりの無口な青年が控えていた。ある日、K嬢がほうしゅうの小銭をふところに入れ、近くの商店で買い物をしていると、その青年とばったり出くわした。
「そういえば、きみはどうしてあんなに身を粉にして働いているんだい」と、青年は不思議そうにたずねた。
「大蛇魔さまからの借りを返すためよ」とK嬢が答えると、青年は少しあきれたように笑った。
「どこかの占い師にでも、だまされているんじゃあないのかい」
「いやいや、そんなことあるはずがないわ」
「じゃあ、その大蛇魔さまとやらは、きみにいったいなにをくれたというんだい」
「わたしが城に来られたのは、大蛇魔さまのおかげなのよ。昔のおみくじに『闇来たらば、待つべし』って書いてあったから」
「でも、きみはみずから馬車に乗って城に来たのだろう? それなら、ちっとも『待って』などいないじゃあないか。そもそも借りなんて、存在しないのさ」
そういわれて、K嬢は「あれれ」と間の抜けた声をあげた。
急にひどくそわそわして商店を飛びだしたものの、K嬢はこれから先、自分がどこへ向かえばいいのかすっかりわからなくなって立ちつくした。すると青年が静かに追いかけてきて、行き場を失った彼女の手をふいにとり、城の住人のだれも知らない、静かな海辺へと連れだしてくれたのである。ざあ、ざあ、という波の音がどこまでも心地よかった。そういえば、もともとM太郎もK嬢も、ただこの広い青空と海が見たかっただけだったのだ。
「あなたは、いったいだれなの?」
波風に吹かれながらK嬢が問うと、青年は剣のように鋭く澄んだ瞳をきらりと輝かせた。そしてなにもいわずにこくりとうなずくと、ふいにはおっていた上着を脱ぎすてた。あらわになった青年の背中には、真っ白で巨大な蛇の姿がみまでに彫りこまれており、それはK嬢のこれまでのちっぽけな悩みなど、すべて吹き飛ばしてしまうほどに、まばゆく燦爛たるものであった。
その後、なぜだか胸の奥がぽかぽかとあたたかくなったK嬢は、「大蛇魔さまは、谷にいるころからずっとわたしたちのことを見守ってくれていたのだ」という事実を、どうしてもM太郎に伝えたくて、しばらくのあいだ、あのなつかしい谷へと帰ることにしたのである。
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