あれから三年の月日が流れた。病気の仔猫を拾ったり、巣から落ちた雀の雛鳥を拾ったり、飲んだくれたり、手放しで笑ったりするナオミを淳は傍らで見守り続けた。時偶彼女は淳の目を盗み、憑かれたような火遊びを繰り返していた。トラック野郎に、バンドマン、アメ公にヨイトマケ……、様々な男達が彼女の無聊を慰めた。これは、聖なる実験なのだ。ナオミは自身の歯止めの掛からない男性遍歴を、こう納得させていた。
Rとナオミは異国の詩のような短いアバンチュールを経験した。彼女はピアニストのRの手に惹かれていた。レストランで料理を切り分けてくれる時のRの鮮やかな手捌きに、ピアノを弾く時の繊細で華麗な指先に……。Rの五度目の美しい妻は、二年前に若いツバメと出奔した。女房に逃げられたRは、全てを捨て、仕事部屋のアパートで一人暮らしをしていた。Rは当時銀座に開いた音楽教室の経営にも失敗して大借金に追われ、おまけに持病まで悪化し、遂にぶっ倒れてしまった。Rは時折怪しげな所から金を借り、今日は指を切り落とされるとこだった、等と言ってナオミを蒼褪めさせた。
ツキに見放され、弱り目に祟り目のRが一度だけナオミに無心をして来た事があった。それはRが持病の肺気腫で入院した時の事だ。Rの芸術性を深く愛していた彼女は二つ返事で快諾した。ナオミは偶偶鏡台に置いてあった給料の封筒ごと快くRにあげた。放蕩者の女主人に忠実なこの鏡は、ナオミの全てを知っていた。彼女の心貧しい夕暮れも、宿酔いの夜明けも……。「そんなに要らない、入院代だけ貸して、」と言うRを彼女は無理に説得した。「娘さんの高校の入学金が払えないと嘆いていたじゃない、」と彼女は言い聞かせた。「俺が退院したら、ナオミちゃんに歌かピアノをみっちり教えてあげるね。」病身のRは決意したように言った。
二週間後、ナオミとRは恵比寿のスタジオにいた。本調子と迄は行かないが、Rはなんとか持ち直していた。Rはピアニストであったが、東京芸大で声楽を専攻したボーカリストでもあるのだ。
Rがピアノを弾き、ナオミが『バラが咲いた』を歌う。彼女の調子ッ外れの悲しい声が、透き通った空にハーモネイトしていた。歌を忘れたカナリアでごめんね、とナオミは苦笑した。「でも、いつかフランス語で愛の賛歌を歌えるようになったら、素敵よね……。」
私生活は破れかぶれであっても、Rは業界第一線のピアニスト。「Rちゃんは夢見るピアニストだね、」とナオミが励ますように言うと、「俺は夢を見終わったピアニストだよ、」とRは自虐的に呟き、ピアノのキーを人差指で叩いた。彼女は胸が張り裂けそうな気持ちで、背後から覆い被さるようにRを抱き締めていた。
自身の根源的な業の深さを自覚していたナオミは、無意識の内に生きながら罪滅ぼしをしていた。困っている友人や知人が周りにいたら、惜しみなく持っている物を分け与えてしまうのだ。彼女はそうやって、この世でバランスを取りながら生きていた。万が一、ナオミが強欲で驕慢で、人に施す事を知らない女だったら、今頃きっとあの世にいる事だろう。
♢
淳は裸のナオミを抱え上げ、俺の事一寸は愛しているの? と訊いた。淳の真っ直ぐな瞳は、青年の頃の若さを取り戻していた。
「勿論、淳は大切なお友達よ、」
ナオミは呪文のように呟き、下品に笑った。
この女は救いようが無い。人の好意を踏み躙って楽しむ悪趣味な奴なのだ。覿面肩を落とす淳を見て、彼女は少し反省した。
「余り、言いたくはないけれど、今私は大変な状態なのよ、本当に、私って女は、畳の上で死ねたらそれだけで幸運な事だと思うわ。」「最近のナオミちゃんはどう考えても変だよ。」
「多分、そんな風に見えるでしょうね、でも、この状態を説明出来るようになったら、淳に真っ先に話すわね、」とナオミは囁いた。
淳はナオミに口付け、括れた腰を抱きしめた。ナオミは淫靡と神秘の交錯した眼差しで淳を翻弄した。淳はナオミに凄まじい迄のエロスとタナトスを感じていた。二人は乱れた寝台で縺れ合っていた。
「あたしは、あたしを殺してくれる男と寝たいの……。」
ナオミは天井に向かい、乾いた声で呟いた。灰皿の中に揉み消した筈の煙草の煙が細長く燻っている。
淳はナオミの海に溺れこんでいた。
(7)
駅前のスーパーの向かいの純喫茶で、圭子は蒼褪めた顔で二重顎を震わせ、ナオミを待ち侘びていた。夢から覚めて残ったのは、決して逃れる事の出来ない罅割れた現実だった。
昨夜彼氏と大喧嘩した圭子は弾みで部屋を飛び出し、暫く公園のベンチに腰掛けて考え込んでいたが、この儘ではどうも気が収まらず、ある突飛な行動に出てしまった。
圭子は終電間際の電車に一人揺られて新宿まで行き、衝動に任せて歌舞伎町のホストクラブでシャンパン二本を空けてしまったのだ。請求された飲食代は何と二十万円だった。圭子の財布に入っていたのは一万円札と小銭が少し……。彼氏に当て付けるには高すぎる代償を請求されてしまった。店が跳ねた後、その指名ホストが血相を変え、圭子に詰め寄って来たらしい。圭子は一万円札を置き、彼に来週残金を支払う約束をして漸く帰して貰えた。
圭子は途方に暮れていた。然し、一刻も早くこの状態を誰かに吐き出さないと、気が触れてしまいそうだった。軈て、ナオミが宿酔いの仏頂面で姿を現した。どうしたのよ、圭子、話って何よ、と彼女はウエイトレスに珈琲を頼み、徐に口を開いた。圭子は機嫌を伺うようにナオミを一瞥し、視線をテーブルの上の掌に落とした。「サラ金借りるのって難しいの? あたし、学生だからさ。」
ナオミは一瞬たじろいで、「一寸、止めてよ、」と言った。ナオミは圭子を手厳しく追及した。
「ナオミちゃん、あたしを殴って!」太く籠った声が喉元から絞り出され、圭子の顔が見る見る歪み、大粒の涙が零れ落ちた。
「何の事言っているか分からないわ。一体どうしちゃったの?」とナオミは訊いた。この後圭子の口から切り出された言葉にナオミは呆れ果て、暫くものも言えない有様だった。圭子は事の顚末を告白し終わると、ワッとテーブルに泣き伏した。
ヘップバーンのような断髪の蘞い化粧のママが、中年女性特有の好奇心で持って頻りに此方を見て、ウエイトレスに何か耳打ちしている。ナオミは傍らの観葉植物のカポックの陰に身を隠した。
「そう、十九万もツケをしたの。あんた、ホストクラブなんて何処で知ったのよ。」ナオミは声のトーンを落として訊いた。
「ほら、うちのバイト先は全国展開しているエステサロンの有名店なんだけど、社長がヤリ手のオバサンで、十日程前に研修会に出た後、打ち上げに新宿でしゃぶしゃぶ食べて、その後皆で歌舞伎町のホストクラブに流れたの。」
圭子は俯いてオシボリを手で弄びながら言った。
「へえ~ッ! 何か、やる事がオッサンみたい、」とナオミが貶すように言った。「それにしても最低だわ。何でアルバイトの女子大生迄ホストクラブに連れて行くのよ。あんた、人の金でそんな所で遊んで厭じゃないの?」とナオミは気色ばんで訊いた。
「まあ、でもウチの社長、面倒見もいいし、いい人だよ。」
「あたしホストやジゴロなんて大ッ嫌いよ。男として最低の職業じゃない? 金目当てで女に媚び諂って、傅いて、歯の浮くようなお世辞を言って、呼ばれりゃ小遣い貰ってほいほいセックスしたり、馬鹿みたい!」
そうかなァ、と圭子は拗ねたように顔を背け、軽い薄荷煙草に火を点けた。圭子、この娘は……。上京して三、四年でアッと言う間に身を持ち崩してしまったのだ。朱に染まれば何とかと言うが、圭子から常々聞かされる女子大生の身持ちや素行の悪さにも、ナオミは悉く閉口させられっ放しだった。夏休みが終われば揃いも揃って性病や中絶手術に産婦人科に駆け込む。いい加減やめようよ、とナオミは思う。
「そうかなァ、じゃないわよ。そんなに彼氏が厭だったら、とっとと別れりゃいいじゃん。どうせ、あんたが何時も言っているように碌な男じゃないんだから。」黙り込む圭子にナオミは苛立った。
「抑そう言う店は学生が行く所じゃないのよ。来ている客の女狐だって、ヤリ手の女社長と、欲求不満の有閑マダムと、歌舞伎町辺りの売春婦位しかいないわよ。普通の学生やOLじゃ行きたくても行けないもの。それに、圭子はお母さんに苦労を掛けて大学に行かせて貰っているんじゃなかったの?」
圭子は昨夜の負い目がある分動揺を隠せなかったが、「サラ金借りないと来週ツケが払えない、」と涙声で言った。
「何がサラ金よ! ふざけないで。今度そんな事言ったら四つん這いにして棒を突ッ込んでやるんだから。あんた、深夜の歌舞伎町なんて、よくでかいケツ振って行けるわね。シャンパン空けて二十万、何それ、ドン・ペリニヨン?」顔を顰めるナオミに、圭子は、「憶えていないの、」と言った。「どうするのよ、」とナオミが訊いた。
「だから、サラ金借りて、エステのバイトが終わったら、吉祥寺のキャバクラで働いて返そうと思うの……。」
「もう、止めて。あたしの前で金輪際そんな事は言わないで。和也も圭子も、何処までイージーなのよ。それに、キャバクラなんて、後ろにヤクザが関係しているお店が多いし、そういう仕事は高給でいいと思っているかもしれないけれど、自堕落な生活から足を洗えなくなっちゃうわよ。それにね、圭子、自分の恋愛だけで世の中が回っていると思うな!」
ナオミは真っ白なコーヒーカップを両手で挟み、暫し考え込んでいたが、ふと思い付いたように口火を切った。
「来週迄まだ時間があるわね。あんた、ウチの店手伝いな。こっちも意地だわ。この週末にオヤジ連中から巻き上げるしかないわね。
圭子、酒飲めないなんて言ったら養豚場に売り飛ばすわよ。」
圭子は少し安堵した様子で、「迷惑掛けちゃってゴメンね、」と言った。「あんた死ぬ程働きなさい! 鬼コーチになってやるんだから。」「……。」「まァ、いいわ。そこのショーウインドーに美味しそうなケーキがあったわよ。圭子、食べない?」
ナオミはレジの横のショーウインドーを指差した。
圭子がいいの、と訊き、ナオミは頷いた。「ナオミちゃんは?」
「欲しくないわよ。あんた、あたしの分も食べていいわよ。」
「嬉しい、」と圭子は欣喜雀躍していた。
「あんた、こんな時でも、食欲だけはあるのね……。」
♢
この週末のエトランジェは異様な興奮に包まれていた。
「日頃のご愛顧に感謝して、今日は大出血サービスで脱いじゃいまーす!」ナオミは着ていたドレスやブラジャーを次々に客席に脱ぎ捨てた。こういう時は躊躇ったり、恥ずかしがっては駄目なのである。月はルナで、狂気はルナティック――。この夜は見事な満月で、エトランジェに居合わせた客は皆集団催眠にでも掛かったようであった。薄明かりにナオミの肌理の細かな白い肌がぼうっと浮かび上がり、彼女は客の視線を釘付けにして逸らさなかった。数多の手がナオミに伸びて来る。彼女は差し出されたチップをパンティに挟み込み、「踊り子さんに手を触れないで下さ~い、」と茶目っ気たっぷりに言った。偶然、森君と視線が搗ち合った。泥酔していたナオミは一瞬で正気を取り戻した。芸術に造詣の深い森君は、咎めるような、悲しげな表情で、きれいだ、と言った。彼女は頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。
宴も酣の頃、客は気前良く金を払って帰った。
「ママ、またオッパイ見せてね!」酔って蛮声を張り上げる客に、今度は一触り五千円よ~、とナオミは冗談めかして言った。
「流石にママは高いなァ、一突き五〇円にマケてよ!」
客は戯言を喚き、調子ッ外の鼻歌を歌いながら帰って行った。
全ての客を送り出したナオミは、圭子の腕の中に倒れ込み、薄目を開けて、トイレに連れて行って、と頼んだ。ナオミは便器に顔を突っ込み、思いッ切り喀血して其の儘床に昏倒した。舞台裏の惨劇とはこういうものである。圭子の悲鳴が遠くで聞こえ、慌てて和也がナオミを助け起こした。日頃から肉体を裏切り続けて来た者への仕打ちは、想像を絶するものであった。その明け方、ナオミは転げ回って悶絶した。彼女は日曜日、終日寝台の中にいた。翌日病院に行く積もりだったが、忘れてしまっていた。
♢
黒田龍二は如何にも八九三風のピンストライプのスーツに両腕を突っ込み、メール街をふらついていた。黒田は思い付いたようにエトランジェの前で立ち止まり、店の扉を乱暴に抉じ開けた。案の定、予想外の訪問に啞然とした顔のナオミが出迎えた。彼女は何時もに増して草臥れ果てていた。
「まだお店開けてないんですけど、看板消えていたでしょ……。」
「俺が来たのが気に食わないのかよ? 今日はお前に話があって来た。」黒田は値踏みするかのように彼女の身体を舐め回して見た。「話って何ですか?」弱気が掠めてくる。
「実はだな、後輩に上手く言ったんだけどな、名義の日付でバレちまった。何でママが名義変更に行った日付に、ママと違う人の名義になっているんですか? 黒田さん、コレ一寸おかしいですねって指摘を食らっているんだ。この儘じゃアイツ、俺にこれから車を回さなくなるぞ。男同士の信用を失うって事になるんだからな。今は後輩から電話が掛かって来ても出ないことにしている。」
「この間は、俺が何とかするって言っていたじゃないですか。」
黒田の思惑通り、彼女は蒼褪めた顔で唇を震わせていた。黒田は下卑た笑いを浮かべながら、「どうするんだ、お前?」と訊いた。
「それじゃ、菓子折り持って彼のところへ謝りに行きます。そこできちんと事情を説明します。私は免許もない身だから、店の常連の和也に乗って貰う事にしたって、言いに行きます。元々和也が買う事になっていた訳だから、事は解決するんじゃないですか?」
黒田は予想外の答えに些か慌てている。「そんな、男同士の信用問題にお前が首を突っ込んで来ても困る。アイツの機嫌を損ねず、問題を解決するには、後輩に又儲けさせてやる事だ。」
「どう言う意味ですか?」とナオミは訊いた。
「うむ、それはだな、色々考えたんだが、もう一台車を買ってやるのが一番だと思う。」「もう一台車を買う……、」とナオミは黒田の言葉を反芻した。束の間訳が分からず、「誰が買うんですか?」と彼女は訊いた。「お前だよ、お前、ナオミが責任取るんだよ。」
黒田はニヤニヤ笑いながら言った。ナオミは絶句していた。
「後一週間以内だ。金を作って来い。この間俺が後輩の所へ行った時、卸値で六十五万の外車があった。中々いいベンツだったぞ。お前は金を用意してそれを買え! 俺がカモを見付けてそれを三百万以上で売る。売れたらお前に金は返す積もりだ。なっ、それでいいだろ? これで後輩も機嫌直すし、全て丸く収まるんだ。」
ナオミは沈黙を守っていた。どうした? と黒田が詰め寄った。
「何か文句あるのか? 全てはお前がやった事だろう!」
黒田は破鐘のような怒鳴り声を上げた。
「……これで、本当に最後ですね。」意思とは裏腹な言葉がナオミの喉元から絞り出された。「ああ、これで最後だ。俺はこれから渉の店に行く。後一週間以内に金が出来たら俺に連絡して来い。分かったな?」黒田は語気荒く捲し立てると、店を後にした。
ナオミは自分の身体を支え切れずに、カウンターの中にしゃがみ込んだ。毎日少しずつ自殺しているようだった。
♢
翌日の午後、池袋の割烹料亭の板前の神谷から電話があった。神谷はナオミと同郷の誼で、彼女の後を追って上京した。
「元気にしているか? 飲み過ぎていないか?」
暫く振りの神谷の温かい声に、ナオミは携帯に頷くのが精一杯だった。「ナオミ、お前の事で変な噂を人伝に聞いているんだが、大丈夫か?」神谷はナオミの身の上を案じていた。もう、隠しても無駄だ……。ナオミは観念して、口火を切って訥訥と事の経緯を神谷に話し始めた。
「黒田って野郎は酷い奴だな。俺が刺身包丁で刺してやろうか!」熱り立つ神谷を彼女は宥めた。
「あのな、ナオミ、ウチの女将さんの彼氏がな、黒田の組の本部の組長やっているんだよ。事務所は池袋にある。毎日のように店に来て、俺も良くして貰っている。組長に黒田の事話して、お前に酷い事しないように何とかして貰うよ。そんな恥ッ晒しは除籍だよ。それでも嫌がらせが止まらねぇなら、池袋の若い衆に毎日エトランジェを見張らせてもいいしな。大体、今の時代にそんな事があるんだな。池袋の人達はみんな礼儀正しいぞ。」
「気持ちだけありがたく受け取るわね。今は未だ私一人で大丈夫よ。それにしても、神谷君は出会った時から相変わらず優しいのね。」とナオミは神谷の申し入れを婉曲に断った。
神谷は真剣にナオミを心配していた。「ああ、じれってェ。もう、お前今の街捨てちまって、池袋に来て俺の嫁さんにでもなれよ。」ナオミは苦笑し、「神谷君みたいな色男の女房になんてなったら、毎日心配ばかりよ、」と言った。神谷は、そうか? と照れたように笑い、「兎に角お前の為に何時でも動けるように準備しているから、ヤバくなったらすぐ連絡しろよ、」と言い残し、電話を切った。
ナオミは寝台に身を投げ出し、ぼんやりと天井を見詰めていた。連日の大量飲酒で朦朧と過ごし、迂闊にも月日の感覚を失っていたが、流れ星のようにある閃きが彼女の脳裏を駆け抜けた。
ここ三年、どういう風の吹き回しか三月中旬のこの時期に、花嫁衣裳代の名目で実父から五十万円が振り込まれていた。ナオミは毎年その金が入るや否や、住居に困っている新宿二丁目のゲイボーイに部屋を借りてあげたり、困っている友人のパトロンヌを買って出たりした。今年も花嫁衣裳代が振り込まれると言う約束は何も無いが、若しかすると、九死に一生を得られるかも知れない。窮すれば通ず。ナオミの心に一縷の望みが光のように差し込んだ。然し、糠喜びをしている場合ではない。彼女は身支度を整え、部屋を出た。
松波寿司の女将さんが店の前で客と井戸端会議をしている。その傍らには三輪車に乗った男の子が走り回っていた。昨年明日香達とキャンプに行った土産に、ナオミは坊やに甲虫をあげた事があった。果たして、彼女にこんな無邪気な時代があったのだろうか。自己を韜晦し、油断も隙もない大人達を欺き通すだけで精一杯だった。女将さんはナオミに気付くと愛想良くお辞儀した。彼女も軽く微笑し、頭を下げると、一刻も早く目的の銀行に急いだ。
銀行に辿り着いたナオミは、手順通りにATMで残高照会をした。然し、画面に表示されたのは千円にも満たない小銭だった。彼女は唇を噛み締め、銀行を出た。
帰り道の途中にあるチェーン店の喫茶店にナオミはふらりと立ち寄った。可也の席が埋まっている。ツナサンドと珈琲をカウンターで買い、彼女は人混みから離れた席に座った。ナオミは珈琲に乳液状のミルクを入れ、褐色と乳白色のマーブル模様のコントラストを何となく眺めていた。こうやって、渦に巻き込まれて行くのだ。この珈琲も私も……。彼女の掌から銀の匙が滑り落ちた。ナオミは徐に紙ナプキンで床を拭き、匙を拾い上げた。本当に黒田が指定した日迄に花嫁衣装代が入って来るのだろうか。彼女は潰れた胃の中に珈琲を流し込み、砂の味のするサンドイッチを噛み締めた。ここ最近、ナオミは食べた物を消化できず、悉く吐いた。病院もずっと行けず仕舞いだ。彼女は虚仮のように暮らし、黒田の阿漕な要求にすら、疑問を感じる思考力が残っていなかった。
♢
翌日も、翌々日も、ナオミは銀行に行き、がっくり肩を落としてこの喫茶店に行った。そして、ツナサンドと珈琲を買い、何時もの席に座った。突如、携帯が鳴った。彼女は頬張っていたツナサンドを慌てて飲み下し、電話に出た。
「おう、ナオミ、いい天気だな。今何しているんだ?」
電話越しに比較的機嫌の良い黒田がドスを利かせた声で言った。外が晴れている事にナオミは初めて気付いた。確かに目映い陽光が慈しむように地上に降り注がれている。重いコートを小脇に抱えて歩いている人達も可也いた。「特に何もしていないけれど、」とナオミは口籠った。「フン、そりゃ御目出度ェ! ところでお前、金の算段は付いているんだろうなァ? お前が駄目だったら、あのオカマのオッサン強請ってやるから安心しろ。それでも駄目だったらお前に特別な職場を斡旋してやる。」ナオミは極度の圧迫感から精神の統合を欠いてしまっていた。「何ですか、それは、お宅の事務所でOLでもやれって事ですか?」等と軽く言ってみたが、彼女はハッと気付いた。特別な職場……。アレだ。ソープランド、セックスのデパートだ。ナオミは頭を抱え込んだ。彼女はデパート店員と言うより、雑貨屋の売り子だった。お前みたいな白痴、ソープランドで身体使って働け! ああ、到頭私にもそんな日が来るのか……。ナオミにあるのは半ば諦観であった。電話越しに黒田の薄笑いが聞こえて来る。
「OLなんかウチで募集していると思っているのか?」
ナオミは蒼褪めて、「お金だったら、もう直ぐ父から花嫁衣裳代が振り込まれて来るかもしれません、」と言った。黒田は突然ガーッハッハと哄笑しながら、「花嫁に行くアテもない奴が花嫁衣裳代か? 文字通り蛇足だな。それにしても本ッ当にナオミちゃんって面白い子だよね、」と莫迦にするように言った。「後輩はどうなったんですか、」とナオミは訊いた。
「すっかり名義の事は話したよ。そんで、お前がもう一台お詫びに車買うって言ったら、アイツ喜んでやがったぞ。お前、人の期待を裏切るなよ! これで全て丸く収まるんだからな。」
「そうですか、それは良かった、」とナオミは声を落とした。
「何だか他人事のような言い方だな。後何日でその花嫁衣裳代とやらは振り込まれるんだ?」テーブルの下で組んだ彼女の足が小刻みに震えている。「後三日だ! 後三日だけ猶予をやる!」黒田は一方的に喚き散らすと電話を切った。
次の日も、その次の日も、ナオミは銀行の残高照会を済ませ、項垂れながら何時もの席に座っていた。
お金が振り込まれて来ない! こんなの最初から何の約束も無く、当にするべきでは無かったのだ。
ナオミは黒田の恐喝の不足分の十五万円を明日香に工面して貰うように頼んだ。明日香は二つ返事でOKし、今夜不足分の金を持ってエトランジェを訪れる事になっている。明日香はナオミの花嫁衣裳代が黒田に奪われる事を酷く憤慨していたが、気を取り直したように、「落ち込む事は無いわ、ウエディング・ドレスならあたしが着せてあげる、」と言った。
♢
もしも夜が明けたら……、ナオミの祈りは天に届いているのだろうか。明け方、眠れない彼女は束の間微睡み、夢を見た。はっきりと憶えてはいないが、何かとても幸福な兆しの夢だった。出窓の鳥籠のカナリアが青い鳥に塗り替えられている、そんな奇跡のような夢を見た。
ナオミのカナリアは溝鼠にも負けず、棕櫚で立派な巣をせっせと拵え、卵を産み温め続け、可愛らしい雛を孵した。カナリアは神経質な鳥で繁殖させるのが非常に難しい、と鳥屋のおじさんが言っていたのに、小指の爪程の卵は春めくにつれ、次々に孵化して行った。三羽の小さな雛に懸命に餌をやる親鳥の愛溢れるその姿を、彼女はある種の感動で見守りながら自分自身を励ました。
ナオミは時間を確認すると、カナリアに新しい水と餌をやり、そっと部屋を出た。体力の消耗が激しく、著しく平衡感覚が狂っている。ナオミは顳顬を押さえ、眩暈に抗いながらも、何とか銀行に辿り着いた。パンドラが蓋を開けてしまった夥しい禍の入った瓶の底に、唯一つ残っていたのは、希望!
♢
ナオミはATMに向かうと、財布からキャッシュカードを引き抜いた。冷たい玉のような汗を背中にびっしょり掻いている。黒田は不幸な奴だ。私は黒田が可哀そうだから警察に通報もしないし、池袋の組長にも言わないでじっと耐えている。私を嬲るのは構わない。でも、そこから何かを気付いてはくれまいか? 自分が苦しく惨めな人生を送って来たなら、せめて人には優しくあって欲しい……。
俯いて瞼を閉じているナオミの脳裏に、稲妻のような閃光が数度駆け抜け、何かが崩れてゆくような眩暈を覚えた。足元がガクガク震え、彼女は正面に立っている事が出来ずにATMに縋り付いていた。突然、この世界と彼女との何もかもが噛み合わなくなってしまっていた。ナオミは何か物を掴むような動作を繰り返しながら、膝を折って床に崩れ落ちた。彼女の脳の中で激しい原色の光が核爆発を起こしている。目も見えなくなってしまっていた。ナオミは全ての外的刺激を避ける為両手で顔を覆い、背中を波打たせながら発作が通り過ぎるのを待った。身に覚えは、あった。禁断症状だ。薬を切らせていて、その軽い兆候は二、三日前からあったのだ。ナオミは床にぶッ倒れた儘、瞳孔の開いた眼から冷たい涙を流し続けた。半開きの口から痴呆のように涎が垂れている。半分失禁してしまったようだ。
銀行の入り口にいた警備員が飛んで来て、「救急車を呼びましょうか?」と声を掛けて来た。辺りは騒然としているようだ。
「……だ、大丈夫です。」
ナオミはやっとの事で口を開き、蒼褪めた顔で少し警備員に微笑みかけた。彼女は自分の力で立ち上がると、再びATMに向かい合った。ナオミは躊躇う事無く残高照会のボタンを押した。
吉と出るか、凶と出るか?
破れそうな心臓の鼓動を聞きながら彼女はATMに釘付けになっていた。「お父さん……。」ナオミは声にならない声で呟き、深く頭を垂れた。彼女は窓口で花嫁衣裳代を引き出し、銀行を後にした。ナオミは人目を憚る事無く、頬を涙で濡らしながら舗道を歩いた。通りを歩くサラリーマンが擦れ違いざま、吃驚して彼女を振り向いた。身も心も渇き切ったこの灰色の東京で、こんなに感情を剥き出しに生きている女を見たのは初めてだったのかもしれない。
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