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「青い熱帯」(連作短編集)

腥田をにゆり

高校生の精神構造を掴みたいために青春小説を書く、というのが契機なのだが、不定期更新するつもりなので、途中で打ち切る可能性もあります。一応、プロットはぼんやりと考えてはいるものの、それをうまく展開していけるかはまだ不安なので、念のため予告しておきます。

タグ: #純文学

小説

2,861文字

青い熱帯

腥田をにゆり

「うい川って何故リレーの時ずっと後ろを確認するの?」
「え?私そんなのしたっけ」
「したけど」
「ごめん、無自覚かも」

うい川は一番暑い日の昼時でも、水を飲まない人間だった。それが見てられなくて、時々彼女に水筒を貸した。しかしこんなことを毎回繰り返しても、彼女は無自覚だった。私の優しさについても、彼女の自分自身に対する鈍感さについてもそうだ。

やっと来週は水泳授業が始まる。確か以前聞いた噂だと水泳は再来年に完全廃止されるらしく、クラスの男たちが「うひょうしょ」と不快な吠え声を発するたびに、それで手に持ったクリップボードより存在感のうすい、響きが乏しい先生の声が忽ち遮られて、殆ど何を話していたのか分からなかった。

しかし、うい川も大変なんだろう。あんな重さを抱えながら、男子の視線をも耐えなきゃいけないから。もしその中にたっぷり空気か脂が入っていたら、来週は手脚を動かさなくとも浮いてしまう筈だが、どういう訳か、余りにも暑すぎたせいか私ですらうい川の体にかつてないほどの関心を持つようになった。

更衣室は通路が狭くて、幅はスーパーのレジと大して変わらなかった。移動する時は譲り合っても、多少肩あるいは胸は必ず相手と擦り合ってしまい、胸も勿論そうなんだけど、お腹が擦り合った時のショックが最も大きく、スタイルのいい真央ちゃんと気の難しい安田だけは気にせず裏のほうへすらりと入ってしまって、それ以外のみんなはわりと自分のロッカーに向かう時一回待っていた。

うい川にだけはどんな時でも、みんなが暗黙的に譲っていた。それが羨望なのか同情なのか、周囲が言語化できないまま、うい川は体だけで場を支配するのみだった。更衣室の奥にあるのはカーテンで仕切ったブース二つなのだが、彼女は常々ブースに入り、その汗でべとべととなった膨らみを人に見せなかった。しかし、無神経の安田によると、「触らせて」といったら、案外スムーズに触らせてくれるらしく、これもうい川の性格らしさというべきなのか、すんなりと彼女はそういうことを言う人間であると、少なくとも私は違和感を感じなかった。

着替える時、ブラジャーのデザインが幼稚な気がして、なるべくタオルを被りながら付けていた。ブースは限られていて、自分の体もまた、うい川と比べて何処か幼稚だったのでその資格を持ち合わせていないと思った。

タオルを肩に被りながら着替えると、空いた手がないので仕方なく口でタオルを噛み締めながら、なるべくささっとこの作業を終わらせたかったが、自分の汗の塩味が舌に沁み込み、やっと背中にホックが噛み合う、グッと引き絞られるような張力が伝わったら、すぐさま歯の力を緩め、タオルを肩から下ろした。乾燥したせいで、口の中に小さな傷でもできたのか、タオルに唾液だけではなく小さな赤みが付いた。無性に嗅いでみたら、特に変な匂いがしなかった。血といえば、鉄とか金属に近い匂いだったが、おそらく運動の後は鼻腔が換気しすぎてしまったせいで、機能不全になってきている。

それで、うい川がやっと更衣室から出てきた。運動着よりも、シャツだと太って見えて、ボタンが急激に隆起した稜線によって曲がったように見える。蟻にとっては、その稜線を伝うこと自体がひとつの厳かな山行なのだろう。やはり私はどこか自分を説得しようとした、あんな体と自分の体とはそれぞれ、地形のように、平原であろうと、丘であろうと、富士山であろうと、ヒマラヤ山脈であろうと、自然はこのように正解はなく、熱帯に住み着いた人たちもいれば、温帯か亜熱帯でもあらゆる文明が育っている。しかし、なぜ私たちは富士山を美しいと思うのだろうか……。やはり私は実際、栄養不足で、偏食で、今となったらうい川の体が憎しく見えたのかもしれない。

いや、彼女はきっと栄養は全部一箇所にしか集まらないから、脳がやがて栄養不足で、だからあんなに能天気な性格になったのではないか。かと言って、頭がいくら回るかといって、やはり二重とか、唇の桃色具合とか、人中の短さとかみんなそればかり気にしている。よくよく考えたら、先生の中では優しくて頭いい人が多かったが、ただ、うい川はその胸一つで、彼らの存在感を圧倒した。世界史における中国の傾国の美女のように、一人の女性が国を傾けるような、もし違った時代に生きたらうい川は我々とはきっと同じ地平にいなかったのだろう。政治の渦中かナポレオンの寝室にいたかもしれない。

なるべくこれ以上の偏屈なことを考えないようにした。そう努めているところへ、うい川が急に接近してきた。狭い通路の中、彼女はカニみたいに横歩きしても、背中と胸の両方が左右のロッカーに当たってしまって、「よいしょよいしょ」と彼女が頑張ってこちらに寄せつつ、小さく掛け声を囁いていた。

多分私とお喋りしたいという訳ではないと思い、丁度自分も着替えが終わったから、自分もロッカーに預けたスマホを取ってすぐ道を開けようとして出口へ向かった。ただ、彼女の情けなくて、鈍い横歩きを見て、ふと今まで自分の思ったことは全部間違った気がして、うい川もうい川なりの悩みがあるのではないか?

と彼女と共に更衣室の出口に出たら、彼女にきいた。
「来週って水泳の授業やるんだね。水泳は得意?」
「そうだね……」

うい川が相変わらず言葉を返すのに数秒かかった。いつも精一杯言葉を選ぶような気がするが、しかし真央ちゃんほど面白くないし、安田でさえ一つ二つくらい突っ込める隙を作るのに彼女となったら、殆ど纏まりのない返事しかくれない。
「水着は一番大きなサイズを選んだけど、それでも鎖骨の所と骨盤のやや上がきつい」

と彼女が指でスカートのダーツを指して、困った様子だった。
「うい川ってストレートだからな」
「ストレートが嫌だよね、可愛くないもん」
「そう?」
「そうなんだよ。あなたみたいにウェーブだったらよかった」

彼女が意外と強く反発した。初めてうい川の裏を覗いたような気がして、本当に出来心なのだが、放課後は一緒にスイーツ食べに行かないかと誘った。私とうい川二人だけで。
「ええ?本当に?珍しいね」

戸惑ったような表情となったうい川は首を微かに傾けて、
「何で?」
「いつも思うけど、うい川教室に出るの早いのね」
「あ——。言われてみたらそうかも、早く家に帰りたいだけなんだけど」
「他の人と遊びに行かないの?」

ときいたら、
「いや、だって一人の方が楽しいもん。いつも放課後駅前の古本屋に行ってる」
「え?本読むんだ。意外だ」

彼女は本を教室に持ち込むの見たことなかったから、勝手に天然で胸だけで男子を誘惑するイメージを持っていた。しかしどんな本を読むんだろう。
「あのチェーンのやつでしょ?一回友達とそこでCD買ってた。変な匂いしてたよね」
「そうそう。私はあの匂い嫌いじゃないよ、本がいっぱい置かれる所にしかない匂い」
「どんなのを読んでるの?」と余りにも気になったのできいてみたら、
「ラノベとかは読まないよ」

と彼女はこれしか返さなかった。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年7月13日公開

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