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エーラーンシャフル

合評会2026年5月応募作品

大猫

2026年5月合評会参加作品。お題は「イラン」
疫病に沈む平城京。宮中の女官・真蘇香媛と異国から来た男。奈良と古代ペルシャが交錯する香の物語。
タイトルの「エーラーンシャフル」とは「イラン人の国土」という意味です。
イスラムが勃興する前の大帝国・ササン朝ペルシャで用いられた言葉だそうです。
アイキャッチ画像は正倉院御物「花氈第6号」。正倉院ホームページより。

タグ: #歴史小説 #合評会2026年5月

小説

4,332文字

天平九年(737年)秋。

平城京は無人の街のように静かだ。そして宮中は沈鬱だった。

宮廷はこの春から機能停止したままだ。天然痘の大流行で官人たちの出仕が停められている。その恐るべき感染力は、春、夏、秋が巡る間に、公卿を含めた宮中の官人を半分に減らしてしまった。庶民の人口がどれほど減ったのかは調べようもない。

 

真蘇香媛まそかひめは宮中奥で秘伝の香を調合していた。

ともすれば都大路のすさまじい腐乱臭を思い出しそうになる。うち捨てられた死人が野犬に食い荒らされる惨状、ひとたび罹れば生きたまま腐ってゆくしかない宿病の恐ろしさを。ここまではあの臭いは届かないはずだ。否、たとえおぞましい腐乱臭が侵入してきたとしても覆してみせる。この世で一番大切な皇后・藤原光明ふじわらのこうみょうし子のために。

天変地異や飢饉疫病は天子の不徳のせいで起こると思われていた。なすすべもなく宮中深くに籠ったままの大君(聖武天皇)や皇后(光明子)に、民の怨嗟の声が向けられていることを、真蘇香媛は知っていた。なんとか皇后を力づけたいと願っていた。天性朗らかで活発で、輝く美貌ゆえに「光明子」の諱を持つ皇后が、別人のようにうち沈み、食事もろくに取らずにやつれてゆくのは見るに忍びない。

 

沈香、丁子、麝香、蘇合香、伽羅、白檀

貴重な原料を思い切ってすべて使って、さまざまな調合を試してみる。

真蘇香媛は焦っていた。完璧な調合をしているはずなのに、どうしても満足できない。何かが足りない。

幼い頃に祖母が作った香を思い出す。甘く華やかで気品高く、それなのに爽やかで、いつまでも後を引く香。あの香りなら、心身共に傷ついた皇后を慰められると思う。おおよその原料と配合具合は見当がついている。しかしいくら試みても再現できない。何かが足りないのだ。

 

そこへ樟舎人くすのとねりがやってきた。

「謁見の方がお見えです」

樟舎人は真面目くさった表情で、真蘇香媛に一礼した。真蘇香媛も大真面目に礼を返す。見合わせた二人の顔は、見事なまでのあばた面だ。
「ご苦労様です。今日の謁見は李密翳りみつえい殿でしたね」
「はい、今お通しします」

今、宮中奥で仕える数少ない舎人や女官は、揃いも揃って顔にあばたがある。みな、天然痘を患って生き残った者ばかりだ。樟舎人と顔を合わせるたびに、おのれの醜貌を鏡写しにされるようで嫌だったのだが、それにもすっかり慣れた。それでも樟舎人はまだましな方だ。あばた面ではあるが顔付きは大和の人々のものだ。

真蘇香媛の異相は宮中でも際立っている。全身に残る天然痘の瘢痕はもちろん、肌の色が白く髪は赤茶けていて、眼窩が窪み瞳の色は薄青色、鼻梁は高く、唇が薄い。家族にこんな顔の者はいなかった。先祖返りだと祖母や父は言っていた。実家は波斯首はしのおびとと呼ばれる西域系渡来人の一族だ。

宮中で焚く香料を扱ったり、絹織物を管理する下級役人だったが、二十数年前の天然痘の流行でほぼ全滅した。一人生き残った真蘇香媛は藤原氏の館に拾われ、皇太子に入内する安宿媛あすかべひめのお付きとして抜擢された。当時、天然痘を克服した者は貴人の側仕えとして珍重されていたのだ。以来、結婚もせず休みも取らず、安宿媛が皇后になった今でも、片時も離れずに仕えている。

 

御殿の妻戸がギイッと開く音がして御簾が揺れ、男が一人、入ってきた。李密翳であろう。背が高くがっしりして、顎に見事な髭を蓄えていた。

異国の出で立ちなのだろう、と真蘇香媛は思った。見慣れた大和の官人たちの朝服とは違い、くるぶしまで届くゆったりとした長衣で、腰のあたりでゆるく帯を締めていた。頭には円筒形の冠をいただいている。

にわかな胸騒ぎが起こった。初対面のはずなのに、どこかでこの男と会ったような気がする。喉元から激しい既視感が付き上げてくる。それはこの男の顔付きだった。額が高く眼窩は窪み、鼻梁は高々とそびえ、その眼は青かった。

李密翳もまた、真蘇香媛を見て驚いた顔になった。それから漂う香に気が付いたようで、あたりの空気を嗅ぐ仕草をした。そして、
「エーラーンシャフル……」
と呟いた。
「エーラーンシャフル」

反射的に真蘇香媛も同じ言葉を返していた。この言葉は知っている。実家で常に語られていたこの言葉は、我が一族の発祥の地と聞いている。

李密翳はしばし絶句し、それから駆け寄ってきて、真蘇香媛の両手を取った。そして何やら話しはじめた。全く分からない異国の言葉だ。突然のことに固まってしまった真蘇香媛だったが、李密翳の懐から何かが薫ってくるのを認めると、思わず叫んでいた。
「この香り! もしやこれは探している香りでは?」

二人は手を取り合ったままそれぞれに自分の国の言葉で叫んでいた。そしてほどなく話が全く通じていないことに気が付いて、顔を見合わせ大笑いした。

「あの」

樟舎人の声がした。
「皇后さまに謁見のお約束でいらしたのですよね? お取次ぎは?」

あっ、そうだったと、真蘇香媛は慌てて奥へ先導する。

 

大君は具合が悪いというので、皇后が一人で謁見の間に現れた。紅の小袖に若草色の大袖を重ね、白の領巾をまとい、結い上げた髪に翡翠を飾っただけの質素な衣装だった。男性の謁見者というので、薄絹のさしば(丸い扇)で顔を隠してはいるが、都一番の美女と謳われた美貌を隠し切ることはできない。

李密翳に一言、二言、話しかけて、大和言葉があまり得意ではないと見て取ると、真蘇香媛に命じて筆と紙と墨を用意させ、筆談を始めた。

二人は漢文で筆談をした。李密翳は大和へ渡る前は唐の国にいて漢語は得意だし、皇后は当時の知識人の素養として漢語の読み書きができる。さすがに一つ机で顔を合わせて筆談するわけにはゆかないので、真蘇香媛が紙を持って二人の間を往復することになった。

 

李密翳は、昨年帰国した遣唐使の一行と共に大和へやってきて、天皇から大いに歓待を受けた。そのお礼をしたいのに、疫病が大流行して謁見もままならない状況となった、と書いた。

それを見て、皇后は思い巡らすように首を傾げた。翳の影から麗しい目元が見えた。
「そう言えば陛下が西域の方に会ったと仰っていました」
「今日、参上したのは、故郷の西域から持参した貴重な織物を献上するためです」

皇后は礼を言って献上品を受取った。

 

それから李密翳はあたりの空気を嗅ぐ仕草を見せて、
「此乃吾故郷之香(これは我が故郷の香りです)」
と書いた。
「此話当真?(本当ですか)」

そして皇后は真蘇香媛を指した。
「これはこの女官が調合した香です。その昔、波斯国から来た渡来人の末裔です。あなたの同胞ではありませんか?」
「はい。さきほどこの方が『エーラーンシャフル』と言うのを聞きました。イラン人の国、という意味で、我が故郷波斯国はしこく(ペルシャ)を表す言葉なのです」
「波斯国とはどんな国ですか」
「とても遠い。唐の国よりも天竺よりも、もっともっと遠くです。二千年以上の歴史、唐よりも広い国土、豊かに流れる川、豊富な乳と蜜と肉、果物に溢れる国です。話す言葉は詩になり、咲く花は香露(香水)になります」

「香露」と書かれた紙を見て、真蘇香媛の胸が轟いた。しかし会話は違う方向へ進んでゆく。

 

「なぜ波斯国を離れたのですか?」
「帰れなくなったのです」

李密翳は商人の出身で、数年単位で波斯国と唐とを往復していたのだが、唐に滞在中に故郷で反乱が起こったので一旦帰国を延期した。
「そうこうしているうちに政情がますます不安定になってしまい、帰国するのは諦めました」

当時の波斯国が属していたウマイヤ朝が、戦乱の末、アッバース朝に打倒されて滅びるのは十数年後のことだが、それを皇后や真蘇香媛が知るはずもない。
「西に帰るのは諦めたので、今度は東へ行ってみることにしました。唐の東の果てまで行って、新羅にも行きました。もっと東に行こうと思って、大和へ来ました」

 

「あ、あの! 花の香露のこと、お教えくださいませ!」

真蘇香媛は我慢ができずについ口に出してしまった。そしてハッと気づいて蒼白になった。皇后の謁見の会話に口を挟むなどありえない非礼だ。

皇后は真蘇香媛の顔を見てクスッと笑った。
「構わぬ。ここには我ら三人しかおらぬ。せっかく出会えた同胞であろう。聞きたいことがあれば筆談に書いてやろう」

この美しい微笑みを、この数ヶ月の災厄のせいでほとんど見られなくなっていた。涙が出る思いがする。

「あなたの懐で香っていた香り、あれは何でしょうか」
「これですか」

李密翳は懐から小さな布包みを出した。匂袋だろうか。中身を取り出してみると乾燥した花弁がいくつか入っていた。

 

花びらから立ち上った強い芳香が遠い記憶を呼び起こし、欠けていた最後の一つがピタリと嵌る。胸が高鳴り手が震え、嵐のような感情が湧き起こった。気が付くと真蘇香媛は礼節も忘れて叫んでいた。
「これは私の祖母が調合していたのと同じ香りです! 波斯国由来の香りと聞いていました。花だったのですね!」

皇后はそれをさっと紙に書いてくれた。あの大好きな微笑みを浮かべたまま。
「これは波斯国ではあちこちに咲いている花で、ここから上質な香露ができます」
「なんという花ですか?」

すると李密翳は筆談をやめて、言葉で話した。
「昔の言葉はヴァレダ、今の言葉はグル。ごめんなさい、唐の字、難しい、書けない」

それから再び筆を取ってこう書いた。
「皇后さまに献上した織物に描いてある花です」

織物を広げてみると、青の背景上に赤い花の同心円が幾つも描かれている。上質の絹地の手触りはうっとりするほど心地よく、果てなく繰り返される花の文様は、気が遠くなるほど精緻で複雑だった。
「この花! これこそが私が欲しかった香りです!」

涙を流して喜ぶ真蘇香媛に、李密翳はにこにこと笑ってこう言った。
「そんなにお気に召したのなら、それはあなたに差し上げます。ただしこれから、私と友人付き合いをしてくれるのが条件です」

 

皇后は織物をしばらく見つめていたが、やおら筆を取ってさらさらと文字を書いた。
「これではないかしら。西域の花の名だと何かの書物で見た気がする」
「薔薇」と書いてあった。

 

翌年、天然痘の流行はようやく落ち着きを見せた。

聖武天皇、光明子皇后は、再びこの災厄を繰り返すまいと、大仏建立の請願を立て、八年後に東大寺にて大仏開眼供養を行うこととなる。

 

苦心の末に薔薇の香を完成した後の真蘇香媛の消息は分かっていない。ただ、大仏開眼の二十年ほど後、波斯清道はしのきよみちと言う人物が宮中に仕えていたとの記録が残っている。一度滅びた波斯氏が復活したのは、李密翳が子孫を残したからではないかと推測されている。

© 2026 大猫 ( 2026年5月17日公開

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