あたし、と書きはじめる
ひらがなでしか 書けない あたし
漢字で「私」と書いた途端
背筋が伸びて
あたしじゃ なくなってしまふ
七つの あたしは
「好キ」をカタカナで書いた
画数の硬さに
本気を 託していた
ひらがなの「すき」では
息に紛れて 流れてしまふから
十二の あたしは
家族写真の裏に
「死ニタイ」と
鉛筆で書いて すぐに消した
消しゴムの粉の中に
四角い 小さな 死が散らばつて
それを 掌で集めて
庭の隅に 埋めた
あれが あたしの 最初のお葬式
十五の あたしは
母の口紅で
鏡に 「ばか」と書いた
赤い ひらがなが
あたしの 顔と 重なつて
鏡の中の あたしは
口を 動かさずに 笑つてゐた
二十の あたしは
記帳欄に 偽の名を
楷書で 書いた
一画 一画 ていねいに
他人の 名を 着付ける
あたしは そのとき
ほんとうの あたしの名を
脱ぎ捨てた
二十五の あたしは
問診票に チェックを入れた瞬間
胸の奥で
何かが カタカナに化けるのを 聴いた
それを 「ナカッタコト」と書く
ひらがなでは とても 書けない
あの
ナ・カ・ッ・タ・コ・ト
汚レッ血マッタ 悲シミニ
今日も コトバが 降り積もる
ひらがなの雪は 融けても
カタカナの礫は 残り
漢字の岩は 動かない
あたしの上に 言ノ葉は
喪の重みで 堆く
詩、と書けば
死とも、氏とも、四とも 読める
この国の音は どこかで
みな 喪に通じる
それでも あたしは
ひらがなの「あたし」を
ノートの綴ジ目に 挿す
栞の やうに
そこにだけ
まだ 汚れてゐない あたしが
息を 殺して 待つてゐる
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