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第二部 宿泊

休憩の国(第2話)

無花果回

ハンカチをわざと忘れていく男がいる。左耳のピアスばかり落としていく女がいる。兄のシャツを置いて帰ると決めた男がいる。何ひとつ置いていかないと決めた少女がいる。彼らに名前がつきはじめたとき、千尋ははじめて気づく。自分は、家にも、ここにも、まだ何ひとつ置いてきてはいない――と。

タグ: #休憩の国 #小説 #第二部

小説

9,826文字

千尋がパライソで二度目の月給を受け取ったころ、町の街路樹はもう半分以上が裸になっていた。

国道沿いの欅の葉が、駐車場の衝立のあたりまで風で運ばれてきて、すりガラスに張りついては落ちた。落ちた葉を、千尋は朝の清掃のときに箒で集めた。集めた葉は、ゴミ置き場の脇に積んで、燃えるゴミの日に出す。集めるたびに、葉が手袋越しに湿っていくのがわかった。乾いた葉から、一日ごとに、湿った葉になっていく。十一月の半ば、町は冬になりそびれて、雨の多い秋の終わりにとどまっていた。

ホテル・パライソの外壁のうすいピンクは、雨が降ると一段濃くなって、止むとまた一段薄くなった。
その変化に、千尋は最近、気づくようになっていた。
働きはじめて二か月。
建物の色の濃淡を見分けられるくらいには、千尋はこの場所に「いる」ようになっていた。

 

 

水曜日の昼に来る男のことを、千尋は最初、シフト表の余白で覚えた。

毎週、決まって午前十一時半から午後一時半まで。二時間ちょうどの「休憩」。部屋は二〇五号室。空いていなければ二〇三号室か二〇七号室。北側の、駐車場側の部屋だった。

律子は、彼の名前を呼ばなかった。
律子はだいたいの常連客の名前を呼ばなかった。けれど、男の予約は予約簿の右上に小さく「水2」と書かれていた。水曜日の二時間、という意味だった。水曜と二時間がくっついて、男はもう「水2」になっていた。

千尋は、彼を見たことがなかった。
彼はチェックインのときも、チェックアウトのときも、フロントのすりガラスを軽く一度叩くだけだった。叩く回数で意思を示すのが、パライソでは少し前までの作法だった。一度なら入室、二度なら延長、三度なら退室。今は若い客の半分以上はその作法を知らなくて、ふつうにマイクで話しかけてくる。けれど水2は、いつも一度叩いて鍵を受け取り、二時間後に三度叩いて鍵を返した。

二〇五号室を、千尋は何度か掃除した。

ベッドはほとんど乱れていなかった。シーツの中央に、ひとり分の沈みがあるだけだった。沈みは、寝返りを打たなかった人の沈みだった。仰向けで両手をまっすぐ下ろしたまま、長いあいだ動かなかった人の。

まくらには、汗の痕が小さく丸く残っていた。
涙ではない、と千尋は最初に思った。
涙のあとは、もっと不規則な形をする。輪郭がにじむ。
まくらの汗は、整っていた。仰向けで眠った人の後頭部の汗。
それは、よく眠れた人の汗ではなかった。
眠ろうとして眠れず、しかし起き上がる勇気もない人の汗だった。

水2の部屋からは、ほかに何も出なかった。
ティッシュは一枚も使われていない。
グラスは伏せられたまま。
ボトルの水は手をつけられていない。
洗面所の鏡には、息の曇りもなかった。

ただ一度だけ、ベッドサイドの引き出しのなかに、たたまれたハンカチが置き忘れられていた。
白に近い、うすい灰色のハンカチ。
角がきちんと揃っていて、洗濯のあとの折り目がそのまま残っていた。

千尋はそれを律子のところへ持っていった。
律子はちらりと見て、小さく息を吐いた。

「奥さんに、たたんでもらってる人ね」

「奥さん」

「自分でたたまない人って、たためないわけじゃないの。たためるんだけど、自分ではたたまない。たたんでもらえる、っていうほうが、その人には大事だから。自分が忘れたって、家に帰ればまた誰かがたたんでくれる。それを確認しに、来てる」

律子はハンカチを手に取って、そのまま事務机の引き出しに入れた。

「次の水曜に、何も言わずに返す。気づかれないように」

「気づかれないように、ですか」

「気づかれたら、そのために来てたみたいになるでしょ」

千尋は、律子の言葉のなかにある「ために」を、しばらく考えた。
ハンカチを忘れたのではなく、ハンカチが家にあることを確かめるために、忘れたふりをしているのかもしれない、と思った。
思って、すぐに、それは想像しすぎかもしれない、と打ち消した。
けれど、打ち消すことが少しずつ難しくなってきていた。
この建物で働きはじめてから、客のすべての所作が、一度は意味のあるものに見えるようになっていた。

 

 

水曜日の昼にだけ、二時間、ここで眠る。
眠れない夜が続いて、もうどこで眠っていいかわからなくなったとき、ここを思い出した。
二〇五号室の天井のシミは、海の地図に似ている。
目を閉じると、シミが見える。閉じているのに、見える。
妻はもうほとんどしゃべらない。
モルヒネを増やした日からは、痛みではなく時間の感覚を失ったようだった。
時間の感覚を失った妻のそばで、私は、自分の時間を持つことができない。
持つことができないのではなくて、持ってはいけないと思ってしまう。
ここでだけ、二時間、私は私の時間を持つ。
持つ、と言ってもなにかをするわけではない。
ただ、眠るふりをして、眠れない時間を過ごすだけ。
それが妻に対する裏切りなのか、せめてもの誠実なのか、私には分からないままになっている。
ハンカチをわざと忘れていく。
次の水曜に、フロントが何も言わずに返してくれる。
返してくれることで、私は、まだ妻のいる家に帰っていいような気がする。

 

 

ミオを、千尋は最初、別人だと思っていた。

毎回、違う男と来る女が同じ女だとは、しばらく気づかなかった。
気づいたのは、忘れ物の引き出しのなかだった。

パライソには、客の忘れ物を保管する引き出しがバックヤードにある。律子は半年ごとに整理する。一年経って取りに来ない物は処分する。処分する直前に、律子は引き出しの中身をぜんぶテーブルに広げて、思い出す素振りをする。
ある日の午後、千尋がそれを手伝っていた。
ピアスが、ピアスばかり、十数組ほどあった。
そのうちの五つが、片方だけだった。
片方ずつのピアスが、形は違うのに、どれも左耳のものだった。

「同じ人」と律子は言った。「来るたびに片方だけ忘れていく」

「全部、左耳ですね」

「左の人なのよ、たぶん」

左の人、という言い方が、千尋には新鮮だった。
左耳しか開いていないのではなくて、右耳も開いているのに、左しか落とさない。
落とすのではなくて、置いていく、と律子は言い直した。

「忘れ物にね、形があるの。落としていく忘れ物と、置いていく忘れ物。あれは置いていくほう」

その女がミオだと、千尋が知ったのは、彼女が初めてひとりで来た日のことだった。

ミオは午後九時にチェックインした。
受付で「四〇五号室」と部屋を指名した。
四〇五号室は、ベッドの正面に大きな鏡がある部屋だった。
ミオはひとりで部屋に入り、二時間後に、化粧を直さずに出てきた。
千尋がチェックアウト後にその部屋に入ると、ベッドはまったく使われていなかった。
シーツに皺ひとつなかった。
けれど、鏡の前のじゅうたんに、靴の跡が無数に残っていた。
同じ場所で、何度も、向きを変えながら、立ち直していた跡だった。

鏡の前の机には、スマートフォンの充電器が忘れられていた。
ケーブルの被覆が剥けかかっていた。長く使われている充電器だった。

千尋はそれを引き出しに入れた。
左耳のピアスのとなりに置いた。
ピアスたちが、その充電器を、なんとなく仲間として受け入れた、ような気がした。

 

 

わたしは、自分の写真を、見るために撮る。
送るためじゃない。
誰にも送らない。
撮って、すぐ見て、ああこの形でいたんだ、と思う。
思って、ちゃんといた、と確かめて、消す。
消さないと、増えていくから。
増えると、どれが本当のわたしか、わからなくなるから。
誰かと一緒に来るときは、その人の指が写りこむと安心する。
わたしひとりじゃ、わたしは足りない。
今日は、ひとりで来てみた。
ひとりで撮ってみたら、ぜんぶ、いない人の写真みたいだった。
いないわけじゃないのに。

 

 

市役所の山科を、千尋は最初、職員バッジで認識した。

職員バッジを胸につけたままホテルに入ってくる人は珍しかった。たいていの人は、駐車場の車のなかでバッジを外す。山科は、外し忘れていた。三回目に来たときには、千尋はそれを覚えていた。
四十代の半ば。背広は紺。糊のきいた白いシャツ。靴は黒の革靴で、磨きすぎて少し白っぽくなっていた。家庭のあるひとが手入れをした靴だった。
山科はいつも、平日の夜の早い時間に、ひとりで来た。
二時間か、三時間。延長することもあった。三〇四号室を指名した。

山科は、最初、煙草の銘柄が合わない人だった。

三〇四号室の灰皿に、いつも同じ銘柄の吸い殻が残っていた。フィルターの色がうすい黄色の、もう町のコンビニにはほとんど置いていない種類の銘柄だった。千尋の父も生前、その銘柄を吸っていた。

山科は、ホテルから出てくるとき、煙草の匂いをさせていなかった。
すれちがうと、糊のきいたシャツの匂いと、軽い整髪料の匂いだけがした。
吸い殻がそこにあるのに、本人からは煙草の匂いがしない。
その不一致を、千尋はしばらく不思議に思っていた。

ある夜、千尋は三〇四号室のクローゼットを開けた。
ハンガーが二本、壁側に寄せられて掛かっていた。
ハンガーには、男物の服がかかっていた。
くたびれたデニムのジャケット。
えりぐりのよれた、灰色のスウェットシャツ。
どちらも、山科の背広よりも一回り大きかった。
肩幅も、山科のものではなかった。

千尋はそれを律子のところへ持っていった。
律子は、ハンガーごと受け取って、しばらくしげしげと見ていた。

「これは、忘れ物じゃないの」と律子は言った。

「忘れ物じゃない」

「持って帰るのを、自分で禁じてる人がいる」

律子は、ハンガーをそのままバックヤードの奥のラックにかけた。
そのラックには、男物の服が何着か、すでに同じようにかかっていた。
季節がずれていたり、サイズが違っていたりした。
けれど、どれも、誰かが「持って帰るのを禁じた」服のように、しずかに掛かっていた。

「次に来たとき、また使うんですか」

「使う人は、自分で出していく。私たちは、しまっておくだけ」

「しまっておく場所、なんですね」

「そう」律子は少し笑った。「うちは、しまっておく場所」

千尋はその夜、ラックの前にしばらく立っていた。
持って帰るのを自分で禁じる、ということが、千尋にはなんとなくわかった。
持ち帰ってしまうと、家のなかに、家のものではないものが、増える。
家のなかは、家のもののためだけに保たれている。
そこに家ではないものを持ち帰ると、家がふくれてしまう。
ふくれた家には、もう住めなくなる。

ラックには、ぜんぶで七、八着の、誰のためのものでもない服が掛かっていた。
その服たちは、誰かに着られるのを待っているように見えた。
けれど、誰かに着られたあと、また、誰かに脱がれて、ここに戻ってくることも知っているように見えた。

 

 

兄のシャツは、私には少し大きい。
肩から先が、どうしても余ってしまう。
その余った布のところに、兄がまだ少し、残っている気がする。
兄は、もう家族のなかにいない。
いない、というのは、死んだ、ということではない。
家族のなかでは、いなかったことになっている、ということだ。
いなかったことになった人は、どこにいるのだろうか。
たぶん、この部屋に来ている。
兄のシャツを着るあいだだけ、私は兄に場所を貸す。
貸しているあいだ、私は私でなくなる。
私でなくなることが、こんなに楽だとは思わなかった。
家に帰る前に、シャツを脱ぐ。
脱いだシャツを、ここに置いていく。
持って帰ると、家のなかが、いなかった人でいっぱいになってしまう。
いなかった人は、ここでだけ、また少し、いる。

 

 

あの少女は、あれから何度かパライソの裏口に来ていた。

いつも夕方の早い時間で、千尋の入り時間とちょうど重なった。
千尋が裏口から入っていくとき、彼女はゴミ置き場のそばにしゃがんで、スマホを見ていた。
千尋は声をかけたり、かけなかったりした。
声をかけたとき、彼女はだいたい、いいです、と短く返した。
いいです、というのが、肯定なのか否定なのか、千尋にはわからなかった。
わからないままにしておくほうが、彼女の領分を侵さないような気がした。

ある夕方、彼女のセーラー服の左胸に縫われた名札が、はじめて千尋の目に入った。
佐伯灯、と書かれていた。
佐伯と灯のあいだに、糸のほつれた小さな空白があった。
その日から、千尋は心のなかで、彼女を灯と呼ぶようになった。
声に出して呼んだことは、まだなかった。

ある日、灯は珍しく、自分から千尋に話しかけた。

「ここって、お客さんに、ご飯ってあげるんですか」

「ご飯」

「うどんとか。深夜にお腹すいたら」

「うちは、自販機しかないよ」

「あ、そうですか」

灯は少し残念そうな顔をした。
その顔が、子どもじみていた。
千尋はエプロンのポケットから、コンビニで買ってあったおにぎりを一つ取り出した。
ラップにくるまれたままの、温められていないおにぎりだった。

「これ、一個あるけど」

「いいんですか」

「一人で食べきれないから」

ほんとうは食べきれないわけではなかった。
けれど、食べきれない、と言ったほうが、灯が受け取りやすいだろうと思った。
灯は受け取って、「ありがとうございます」と小さく言った。
ありがとうございます、を、灯は最後の「す」のところで少し舌を引っ込めて発音した。
学校で礼儀を教わった子の発音だった。
学校に行きたくないわけじゃないのかもしれない、と千尋は思った。
行けるけれど、行きたくない時間がいくつかある、というだけのことなのかもしれなかった。

灯はおにぎりをラップから出して、ゆっくり食べた。
食べおわると、ラップを丁寧にたたんで、ポケットに入れた。
ゴミ置き場のそばにいるくせに、ラップをそこに捨てなかった。

「家に持って帰るんですか」と千尋は聞いた。

「いや、コンビニで捨てます」

「ここで捨てていいよ」

「ここに、自分のものを置いていきたくないんで」

千尋は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
ここに、自分のものを置いていきたくない。
灯は、ゴミ置き場のそばに座っていながら、ゴミ置き場には何も置かないと決めていた。
置いていったら、ここに来た理由が、他人にも見えてしまうからだろう、と千尋は思った。
灯はここに、いない、ためだけに来ている。
いない人間は、ものを残してはいけない。

千尋は、灯のことを、それ以上問いただすのをやめた。
ただ、明日も明後日も、おにぎりをひとつ多く買おう、と決めた。
決めたあとで、自分が、誰かのために何かをひとつ多く買うのは、ずいぶん久しぶりだと気づいた。
久しぶりだという気づきは、悪くはなかった。

 

 

休憩、という言葉は、戻ることが前提にある言葉だった。
戻る場所があるから、休憩できる。
戻る場所のない人は、休憩しない。
戻る場所のない人は、ずっと「いる」しかない。
ここで二時間、私は休憩する。
二時間が終われば、戻っていく。
戻る場所が、ほんとうに私の戻りたい場所かどうかは、わからない。
わからないけれど、二時間休憩できたから、戻れる。
ここは、戻ることを誰も保証してくれない人たちのために、ある。

 

 

その夜、千尋は自分の部屋でなかなか眠れなかった。

千尋のアパートは、駅から歩いて十二分ほどの、古い木造の二階だった。台所と六畳が一間つながっただけの部屋だった。寝室と居間の区別はなかった。区別するためのしきりがなかった。

布団を敷くと、布団のうえだけが寝る場所になった。
布団から外れると、起きる場所になった。
区切られていない部屋のなかに、布団のひと囲いだけが、千尋の眠りのための場所だった。

その晩、千尋は布団に入ってから、ふいにパライソの二〇五号室を思い出した。
水曜の男のための部屋。
仰向けで、両手をまっすぐ下ろしたまま、二時間動かない男のための部屋。
あの男は、家のベッドでは眠れないのだろう、と千尋は想像していた。
眠れないから、二〇五で眠ろうとして、結局眠れない。
眠れないまま、二時間、横になっている。
それでもよかった。
眠れなくてもよかった。
なにもしなくても、眠ろうとしてさえいなくても、横になっていることが許される場所だった。

千尋は、自分の布団のうえで、思った。
自分には、そういう場所があっただろうか。

介護施設で働いていたころは、家で眠ることだけが「自分の場所」だった。
けれど、家で眠ることは、明日また働きにいくための準備だった。
準備としての眠りで、休憩としての眠りではなかった。

パライソに来てからも、家での眠りは変わらなかった。
眠りが、次の労働のための充電になってしまっていた。
充電のあいだ、千尋は自分のための時間を、ほとんど持っていなかった。

水2は、ハンカチを家に置いてくる。
ミオは、片方のピアスをパライソに置いていく。
山科は、兄のシャツをパライソに置いていく。
灯は、自分のものをどこにも置かない。
みんな、家に置けないものを、ここに置きにきている。
あるいは、ここに置けないものを、家に置きにいっている。
あるいは、両方を持たないでおくことを、選んでいる。

千尋は、家に置いていない自分の何かを、まだパライソに持ちこんでいない、と気づいた。
持ちこんでいないから、千尋にはまだ、休憩する場所がなかった。

布団のなかで、千尋は仰向けになって、両手をまっすぐ下ろしてみた。
水2の、まくらの汗のかたちを思い出した。
そのかたちが、自分のうしろあたまの汗のかたちと、すこし、似ているような気がした。
そう思ったとき、なぜか、息が深く吸えた。
深く吸えたあとで、すぐにまた、浅くなった。
千尋は天井を見つめた。
天井のシミは、自分の部屋のものだった。
誰かに分けることのできないシミだった。
共有されないシミの下で、千尋はその夜、結局あまり眠れなかった。

 

 

ある明け方、清掃が早めに片づいた日に、千尋はバックヤードで律子と二人きりになった。

律子は事務机のうえで湯呑みを温めていた。湯呑みは古い陶器で、ふちが少し欠けていた。欠けたところを、律子は親指の腹で何度もなぞっていた。

「その湯呑み」と千尋は声をかけた。「ずっとお使いなんですか」

「先代のだよ」

「あの、四〇七で」

「四〇七で死んだ人ね。私の前にいた支配人」

律子は欠けたふちを見ながら言った。

「あの人、自分の物が少なかった。本当に少なかった。それでもこの湯呑みは、毎朝必ず使ってた。あの人が使っていたから、私も使ってる」

「使い続けているんですね」

「使い続けているっていうか、捨てられないだけ。捨てられないのが、長い」

律子は湯呑みを口に運び、冷めかけたお茶を一口飲んだ。

「あの人がここで死んだとき、私は受付にいたの。電話で気がついた。三時間、ベルを押しても出ない、って」

「鍵で開けたんですか」

「マスターキーで。そしたら、あの人、ベッドの上で、靴も脱いで、上着もきちんと畳んで、目を閉じて、寝てるみたいな顔で死んでた。もう脈はなかった。睡眠薬と、お酒。検視の結果はそうだった」

千尋は、湯呑みのふちの欠けを見つめた。

「自殺だったんですね」

「そうだとも、そうじゃないとも、検視官は言わなかった。眠ろうとして、眠れなくて、もう少し眠れるように飲んだら、戻ってこれなかった、っていうふうにも見えるって。私は、たぶんそっちだと思ってる」

律子は湯呑みを置いた。

「眠ろうとした人を、自殺って言いたくないの」

千尋はうなずいた。
うなずきながら、律子の言葉のなかの「眠ろうとした」という言い方が、ふだん律子の口から出る言葉のなかで、いちばんやわらかいのに気づいた。

律子は続けた。

「あの人は、ここを、お客さんが眠るための場所にしようとしてた。ふつうのラブホテルじゃなくて、ね。ベッドのリネンを高いやつに変えたり、枕を選べるようにしたり、お客さんが匿名で書ける小さなノートを、四〇七に置いたり」

「ノート」

「お客さんが、なんか書きたかったら書ける、っていうやつ。あれは今もある。私はそのままにしてある」

千尋は、心臓のすこし下のほうが、ふっと冷たくなるのを感じた。
四〇七号室にノートがある。
律子は、それを「そのままにしてある」と言った。

「読んだことは」と千尋は聞いた。

「私は、読まないことにしてる」

「どうしてですか」

「読んだら、お客さんを覚えちゃうから」

律子は湯呑みを取り、また欠けたふちを親指でなぞった。

「ここでね、覚えるのと、忘れるのと、どっちが商売としてまっとうかっていったら、忘れるほうなの。お客さんは、覚えられるためにここに来てない。忘れてもらうために来てる。だから、ノートは部屋にある。読まれないように部屋にある。読まないことが、ここでは、覚えないってこと」

千尋は、その理屈を、しばらくゆっくり呑みこんだ。
覚えないために、ノートを読まない。
ノートを読まないために、ノートはそこに置いたままになっている。
誰かが書きたくなったときには、そのノートにまた、誰かの名前にならない言葉が書き足されていく。

「律子さん」

「なに」

「もし、あの部屋を私が掃除するようになったら、ノートを、読んでもいいんでしょうか」

律子は、千尋を見た。
長く見た。
その目には、責めるような色も、許すような色もなかった。
ただ、長く見ていた。
それから、湯呑みをゆっくり口に運んで、ぬるくなったお茶を飲み干した。

「読みたくなったときには、もう、読んでいいことになってる」

律子はそれだけ言った。
千尋はそれ以上聞かなかった。
律子の言い方には、許可とも禁止ともつかない、もっと奇妙な、待っている、というような響きがあった。
その響きは、千尋の心臓のすこし下のあたりで、長く尾を引いた。

 

 

その夜、清掃が終わって、千尋は四階の廊下を歩いていた。
四〇七号室のドアの前を通った。
ふだんはそのまま通り過ぎる。
その夜は、足がとまった。

ドアは、鉛色の金属だった。
ノブは丸くて、傷がいくつもあった。
誰かが何度もまわした傷だった。
まわしたあと、入った人と、入らなかった人がいた。

千尋は、ノブに手をかけてみた。
冷たかった。
手のひらの熱が、ノブにしばらく溶けこんだ。
千尋は、まわさなかった。
ただ、しばらく、手をかけたままでいた。

ノブのなかで、ノートが、誰かの息のつづきとして待っていた。
それを千尋は感じた。
感じたけれど、まだ、読みたくはならなかった。
律子が言った「読みたくなったとき」は、まだ、来ていなかった。
来ていないことが、千尋にはなぜか少し、安心だった。

手を離した。
ノブには、千尋の手のひらの熱が、少しだけ残った。
残った熱は、長くは続かなかった。
長く続かないことが、わかった。
わかってから、千尋はその場を離れた。

階段を降りるとき、千尋は気づいた。
律子がさっき言った「読みたくなったときには、もう、読んでいいことになってる」というのは、許しの言葉ではなかった。
順番の言葉だった。
四〇七のドアは、千尋の意志で開くのではなく、千尋のなかの何かが熟したときに、開かされる。

その何かが、まだ、千尋のなかには熟していなかった。
熟していないことが、悪いことのようには思えなかった。
ただ、熟していくらしい、ということが、あった。

 

 

外に出ると、国道は深夜の白い光のなかにあった。
二十四時間営業のドラッグストアの看板。
信号機の青。
遠くを走るトラックのテールランプ。
パライソのネオンの「ライソ」。
ぜんぶが、千尋の知っている光だった。

歩きはじめながら、千尋は思った。
明日も水曜だった。
水2が来る。
ハンカチを忘れていく。
ミオは、ピアスを左耳から落とすかもしれない。
山科は、兄のシャツを、ラックから出して、また置いていくかもしれない。
灯は、もしかしたら、来ない日もあるかもしれない。
千尋は、彼らの誰でもなかった。
けれど、彼らの誰でもなかったということが、少しだけ、千尋を彼らに近づけていた。

歩く影が、アスファルトのうえに伸びた。
ひとり分の影だった。
その影のなかに、まだ、誰かを入れる余地があるとは、千尋には思えなかった。
けれど、入れない、と決めることも、もう、できなくなっていた。

国道沿いの欅の枝が、街灯のひかりのなかで黒く揺れていた。
欅はもう、枝先まで葉を落とし終えていた。
冬になりそびれた秋が、そろそろ終わろうとしていた。

© 2026 無花果回 ( 2026年4月26日公開

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