一
今は昔、在るかも知らぬ北国の、それも野鄙な山の麓に、名もなき小さな村が御座いました。その村を見下ろす小さな山の崖際の、ぽっかりと空いた小さな洞穴の中に、犬鷲の家族が棲んで居りました。なんでも蝦夷の方から飛んで来たとか云うものですから、京から大勢の見物人が、吾こそはと挙って村に訪れるのであります。将軍様も見に来られたとか。そのような始末で御座いますから、村は小さくとも其処々々繁昌している様で、一人の絵師が崖に悠々と佇む風貌を見事描き上て京へ売ったものが、遂にはその、質素且つ剛健たる犬鷲の風采を、京の武士が大いに気に入って、近頃ではその絵師はせっせと崖を遠望して揮毫*するようになったのであります。村には幾十人かの戈人が居りますが、将軍様の御下知によりますと犬鷲への発砲は堅く禁じられて居るようなので御座います。戈人たちは毎朝山に潜る度に、彼等の啼声を聴いて山の容子がハッキリと判るのだそうで──。譬えば犬鷲が平生より慌ただしく啼いて居るのであれば、熊やら狼やらが鹿を多く喰って了って居るのだそうで、平生より低く遠く響くのであれば、少し湿っている訳ですから、もうすぐ大雨が降るぞという警めなのだそうです。
しかし戈人たちも、決して悠々たる彼らを好く思っている訳ではないので御座います。兎や仔禽やらは、みな犬鷲が掠めて行って了いますから、彼らは毎日仔兎や熊に葬られた、腐った鹿の骸から少量の無事な肉を剥ぎ取るしかないのです。時折鹿を見かけることはありますが、手軽な兎は根刮ぎ奪われてゆくので御座います。ですが、将軍様の御下知に逆らえばどうなるか考えたいものではありませんので、戈人たちは今日も、口惜しい思いで山を下りるのでした。
或る年紀の冬のことでありました。戈人の一人がとうとう堪えかねて、遂に父鷲の羽翅に向けて猟銃を放ったのです。殺して了っては不可ませんので、この戈人は姑息にも羽翅を狙ったのであります。弾は見事に父鷲の、左の羽翅に命中しました。父鷲はよろけながら、それでも猛禽としての勢威を張り続けて居りました。別の戈人がもう二、三発放ちました。一度桜の枝で悪戯をかけた戈人が、その父鷲の大きく鋭利な爪で、散々にやられて帰ってきたことがありました。ですから、一方的ではありますが一発撃っただけでは彼らの憤慨は収まらなかったのであります。放った弾の内一発が、父鷲の脾腹に喰い込みました。戈人たちがそろそろ逃げ果せようとしたときに、父鷲はようやく断崖の棲処へと帰って行きました。
断崖の棲処に帰った父鷲は、洞穴の奥に這入って静かに眠りに就きました。彼が気力を治すのには莫大な時間が必要だったのでした。そして彼には、その莫大な時間を有すのに、眠入ることしかできませんでした。母鷲は血を垂れ流しながら帰って来た夫の身を案じていたのでしょうか、静かに啼声を上ました。しかし父鷲はそれを気にも留めずに、じっと瞼を閉じて眠りにつくのでした。
仔鷲はそのとき、父鷲の傍に坐り込んで居りました。そうして一つ、欠伸をしたかと思うと、父鷲の羽翅から垂れた一滴の血が、緩っくりと仔鷲の口の中に流れ落ちたのです。仔鷲はそれを滑らかに呑み込んで、眼を見開いて父鷲の素形を凝視っと見詰めるのでありました。──
二
その後少時は、父鷲は洞穴から出ない日が続きましたから、戈人たちは清々して、痛快な思いで山に籠るようになったのであります。別段父鷲を殺した訳ではありませんし、発泡が禁じられているとは云え監察者がいる訳でもないので、特に彼らが罰を享けるということはありませんでした。将軍様も、近頃は御身体が悪くなったようで、毎月犬鷲を観に来ていたのが、今ではパタリと止んで了いました。民衆も、態々遠出して行く位なら、例の絵師の画を見ようじゃないかと思うようになりました。ですから戈人たちは、今までの口惜しい思い出に仇を成すように、程好く収穫を得て程好く山を恣にするのでした。
ところで、洞穴の容子はと云いますと、父鷲はやっぱり眠入ったままで、しかし死んだ容子ではありませんでした。仔鷲は、昔は小さく、こじんまりとしていたのが、今ではもうすぐ、母鷲を押し潰せる位に育って居りましたが、しかし、父鷲が撃たれたからというもの、中々外に出ることは稀なので御座いました。もう餌を独力で獲れる程でしたが、近頃は戈人たちの、山での行動が盛んですから、ちょっと出てみれば、彼らの気に障りかねないのであります。仔鷲は立派で黒い、鋭い爪と、焦茶色の雄々しき羽翅を具えて居りましたが、しかし流石に戈人たちを襲える程、勇敢な気力は持ち合わせて居りませんでした。それでも、洞穴の入り口から森を見下ろして、戈人たちの咾と銃声の居ぬ間に、ひっそりと飛び降りて兎や仔禽やらをつらまえて来るのでした。
山は、春の陽気に塗れて、桃色に染まって居りました。麓の方では、村人たちが花見に出て、筵を敷いて宴を開いて騒ぐのでした。その春が、夢のように去っていって、杏子の萌える節から、鮮緑の波が山を呑み込む節になりますと、森は賑わって、鹿も増え、仔禽も唄の勢いを増して、青蛙は清水に集って大夏*を貫きました。その鮮緑の節が、今度は紅い葉の躍る節となって、山は一気に燃え上り、幾枚もの落葉が、洞穴の中に舞い込んで来ました(この節が一番絵師の売れる時期なのです)。村人は、今度は紅葉狩りのために森へ脚を踏み込み、恰も花札の、鹿を時折見ゆる、真っ赤な森で御座いました。しかしその燃える秋も、二た月もすれば寒風甚しい節となって、骨のような枝と、冴えて干からびた幹のみを残すようになったのです。そう、折節の目紛しい合間に、父鷲はすっかり好くなって、しかし猛禽たる狩りは未だに消極的で御座いました。
仔鷲は、父が撃たれて洞穴に逃げ帰ってきた日、何かを口にしたような感覚がしてなりませんでした。珍味と云うべきか、得体の知れぬ何かを、自分は咽喉に滑り込ませた気がして居りました。それが液体だというのは心得て居りましたが、野兎を喰っても、鹿の肉を喰っても、それと似た風味は引き出されませんでした。
× × ×
或日、父鷲に仔鷲が持って狩りに出かけました。燃える山もすっかり侘しくなって、枝垂れた紅葉も己の夢を抛り投げて、そのために、冬の気配が、ひしひしと羽毛の先から取って感じることができました。
そのときでした。彼らが仔鹿を為留めて、その肉を貪っていると、途端に草叢から、一疋の牝鹿が躍り出たかと思うと、此方に向かって走り出したのです。牝鹿の目に、彼らがどう映っていたのかはあまり明瞭としませんが、憎悪のような目を燃やしながら(その牝鹿は母親だったのです)、突っ込んで来たので御座います。仔鷲は運好く鹿の通り道から外れましたが、不運なことに、三日前傷痍の塞がった父鷲の羽翅に、鹿の厳しい角が当たったのです。鹿はそのまま、森の奥へと消え去って行きました。
父鷲は仔鹿に凭れて、血を流して呻き声を上ていました。彼の爪は、鹿に踐まれて雄邁さが欠けて居りました。仔鷲が、父鷲に倚りかかって看病していましたが、父鷲の羽翅を嘗めたときに、どこか懐かしい風味を見つけ出したのです。仔鷲は──澄んだ奥深い眸を以て──凛々しい顔をふと上て、電撃の疾った口の内で、その風味そのものの、空間的な形を、存分に、過剰に味わい続けるのでした。──
三
父鷲の屍は、その日の内に空間的な形を失くしました。夕暮れ、洞穴に帰ったのは仔鷲だけでした。
母鷲は、特に何か思う由はありませんでした。それは、ただただ、仔鷲が、長々と狩りに出続けることに、母鷲自身が反駁する姿勢を見せていたからでした。仔鷲は仔鹿の骸の千切ったものをを、父鷲から承け継いだ剛健な爪で抱えて居りました。しかし、仔鷲は、鉤のような嘴でも肉を啣えて降りたって来たのです。母鷲は、吾子の帰りを、待ち侘びていたように啼いて体現しました。仔鷲は、獲物を捕らえている所為か、それに応じることなく、洞穴の奥へと歩んで黙然と骸を啄みました。
仔鷲は、嘴で捕らえていた骸の断片を巣に吐き捨てて、爪で仔鹿の骸を押さえ込んだまま、遮二無二僅かな毛を貪って喰らいました。母鷲はその容子を微笑ましく眺めていました。吾子が、夫と共に狩ったであろう獲物を喰らう容子を、祝福するように──。
巣の奥底は、一定の毛が散らばって居りましたが、母鷲の視点からそれを目にすることはできませんでした(崖に無理遣り抉じ開けられたその棲処は奥の方が低い造りで御座いましたから、母鷲からすれば、子の頭が上下に振られている様態しか見えないのでした)。ですから、いつしか厭きたようで、外に広がる春の訪れを賞翫*するのでした。
仔鷲は、その骸を喰い終えると、すぐさま仔鹿の肉に着手しました。しかし、どこか物足りない、つまらない表情で小首を傾げると、その肉を啣えて母鷲の元へ歩み倚り、懐裡へ落としました。母鷲はそれに気付いて、眸と、啼声と、その矮躯で愛を示しました。そうして忙しそうに喰うのでした。冬の陽が傾き始めました。
父鷲は、帰りの遅いようでした。夫の帰りも待ち侘びていました。もしかすると、戈人に撃たれているのやもという忌まわしい見解が頭を過ぎりましたが、銃声のないために忘れました。もう冬の陽は、遠く遠く、京の方へ、惜しむように沈みかけて居りましたから、母鷲はいよいよ心配し始めて、少し両翼を運動させて、飛ぼうか、飛ぶまいか、迎えんか否かと、少しずつではありますが、巣の外へと、脚を動かすのでした。それでもやはり、優柔不断な母鷲でしたが、夫の姿が沈む天日の前に見えることはありませんでした。母鷲は、宵闇に呑み込まれる森に向けて、一つ、甲高い、虚しい啼声を上ました。
その内に──母鷲は結局飛び立つことはありませんでした──夫の、翌朝に帰ってくることを願いながら母鷲は瞼を閉じました。澄んだ夜の気が充満する頃でした。
仔鷲は月明かりに眠る母鷲の姿を、雄壮な眼で凝視っと捉えていました。眠る気配を一切醸し出すことなく、凝視っと、凝視っと、──彼の頭には屹度、父鷲に下敷きになった仔鹿の骸と羽毛とが散らばった情景を、感情もなく記憶の舟の上に浮かべていたに違いありません。しかしその記憶の舟の中に、或る風味が同伴していたのです。
仔鷲は羽翅を、微風のように、それとて風を裂いて、剛健たる爪を躍動させました。
× × ×
落葉が北風に連れられて、とうとう消え去って、もうすぐ冬の終わりの、微かに感じる時分となりました。戈人たちが、冬の動悸が目を醒ましていない内に、霧の立ち込める森の中に這入って行ったときのことです。枝を踐む音さえ騒がしいこの時だけは、森は恐怖の精神でした。白い息はその精神を更に膨張させるのですから、戈人たちは、その猟銃を構えながらも顫える手と脚とを、ただ暗い森の中に──そして魔物は冷気に化けて──同時に、薄い嵐気*に圧されて、ギコチナイ息切れをしながら歩いて行きました。
その朝霧が、ようやく晴れたと見えて、一人の戈人が、聳える崖と澄明たる冬の曙空を一眼拝めようと、無意識に顔を上げたときでした。
「おい、あれを見ろ」
その戈人が、構えていた猟銃を肩に引っ提げて、威勢よく指を差しました。皆が、彼の指の延長線を、自慢の眼を扱って凝視っと、その光景を目撃したのです。
戈人の指す方は──忘れもしない犬鷲の棲処のある断崖で御座いました。その洞穴から飛び出た、枝で乱雑に組み込まれたと判るほどの外側に、一疋の犬鷲が佇んで居りました。しかし熟視てみると、その犬鷲は、ピクリとも動かないのでありました。戈人たちが、棲処の直ぐ傍まで来てみても、やはり、その──厳しい眼と羽と爪とを携えた──犬鷲は、冬の寒さに羽を顫わせることもなく、まるで撼がない冷気の魔物のように、佇んで居りました。
戈人が、その犬鷲の容貌に見惚れていると、途端にその犬鷲が、ふわりと揺れたかと思うと、そのまま柔らかに舞い降りて来たのです。羽を広げて、しかし羽搏きませんでした。地に落ちた犬鷲の素形を見て、戈人は遂に、この魔物の動かぬ訳を知りました。
犬鷲は、遠くから見て厳荘だった犬鷲の容貌は、酷く痩せこけて居りました。ただ雄々しかったのは羽の色と爪の鋭さだけで御座いました。彼は飢えて死んで居りました。その、父鷲から承け継いだという、爪に、懐かしい形を持たぬ温もりを、毛に添えて──。
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