バスは一日七度来る。さすがに電話ぐらいはある。イオンもある。
夏休み前の期末テストが終わった昼過ぎ、駐輪場でスマホの画面を表示させると「二時前にイオンのフードコートに来て」とメッセージが届いていた。隣のクラスの吉原からだった。やることもなかったし、イオンのしょぼい自転車コーナーで買ったチャリを漕ぎだして、校門を出る。ミンミンゼミのうるさく鳴く炎天下が広がるなか、真緑の稲が絨毯のように生える水田のあぜ道をただ走るとイオンにたどり着いた。
とってつけたような狭い駐輪場に、チャリを停める。見上げると、棺桶のように真四角で白い建物に、あの毒々しく赤の看板が、クソコラのように不自然に貼り付く。微風が吹くと堆肥の臭いが漂ってきた。鼻を思わずつまんでしまう。もし大事な用事じゃなかったら吉原のことを蹴り飛ばそうと思いながら店の入口を通ると、目の前には虚無が広がっていた。誰もいないがらんどうの売り場はなんの音も――外の蝉の声も一切聞こえず、病院の待合室のように白い壁は温かみがまったくない。
通路を進む。おもちゃ売り場の人形たちが、ギョロッとした目を向けていた。その通路の先は蛍光灯が点いておらず、暗闇が広がっていた。フードコートは闇の先にある。体を闇にダイブさせて角を曲がる。漆黒が身体をつつむ。闇と自分の体の境目が溶けあって、自分が闇なのか闇が自分なのか、わからなくなる。目の前に再び光が蘇ったとき、自分はまた境目の内側に戻った。
柱だらけのフードコートには、たこ焼きだったり焼きそばだったりを売る店と、マックしかなく、その前のイートインスペースには、学校の机ぐらい小さいテーブルが両手で数えられるぐらいしかない。吉原は、壁際の椅子にスマホをいじって座っていた。壁には真っ黒なギターケースが立てかけてある。中身は生意気にもギブソンのレスポールだったはずだ。吉原の向かい側には、文芸部の青田が、分厚い眼鏡をクイクイさせながら、鈍器のように分厚い電撃文庫を読んでいた。
「よう、吉原。それに、青田。どうしたの?」
声をかける。隣の席からプラスチックのひょろひょろした椅子を持ってきて、吉原と青田の間に座る。
「知らない。俺も急に呼び出された」
右の青田は妙に顔がひきつっていた。最終日の科目が現代文だったからかもしれない。青田はなぜか千ページを超すラノベを読めるくせに現代文で五〇点以上をとったことがない。
「来てくれてマジありがとう」
吉原の手が指す先に、三人分のマックシェイクがあった。
「さあ飲んで、飲んで。これからガチで面白いことをする」
高校を卒業すれば、よくて工業団地の自動車部品工場、悪くて山奥の介護施設の職員。夢も希望も、職も金もない街で男の一番の娯楽といえば――エロだ。
生唾を飲みこむ。すけべイベントに巻きこまれるのなら大歓迎だ。青田も、目をキラキラ輝かせて吉原を見つめていた。だが吉原は期待に反し、急に真面目な顔つきになった。
「俺、告白するんだ」
急にがっかりした。なんだよ。俺のラッキースケベを返せ。吉原に忠告する。
「また? どうせ玉砕するのがオチだろ。ビンタされてまた歯が欠けるぞ」
テーブルからバニラのシェイクをとって吸う。口の中が一瞬で甘ったるくなった。
「ちなみに誰?」
青田が電撃文庫を閉じながら聞くと、吉原は夢見るお姫様のような面をした。
「C組の星川さん」
そう吉原が言った瞬間、青田の顔が一気に青ざめ、体を微かに震わせた。
「やめろ――星川さんは“虚乳”だよ。下手すりゃ、お前、命を取られるぞ」
なに言っているんだこいつ? それに、なんでこんなに怖がっているんだ?
「キョニュウ? 星川さんっておっぱいが大きかった記憶はないけど」
「違う、虚ろの『虚』の乳だよ。星川さんのおっぱいは――宇宙の深淵そのものだ」
青田が怯えたような目で俺を見つめる。
「今度のソースはどこだよ。オカルト研? なんj? それともナオキマンショーか?」
吉原はそう言うと、スマホに視線を戻してマックシェイクを一気に吸った。
「いまからでもいい、やめろ。それでオカルト研の菊池が……」
「ああ、五月に行方不明になった菊池? それと星川さんがどう関係あるんだよ。てか、あともう少しで星川さんが来るんだけど」
吉原がスマホの画面を指さした。時刻は一三時五八分。
吉原は立ち上がると俺と青田を、マックの隣の無駄に大きいゴミスペースに連れて行った。真剣な顔つきの吉原は、「ここに隠れて見てろ」と俺達に言いつけ、ついでにマックシェイクをゴミ箱へつっこんだ。
吉原は再び席に戻ると、下をうつむきながら、ため息をして、ふわふわのパーマを欠けた茶髪を指で神経質そうにいじっている。
ゴミスペースの、ゴミ箱と壁の狭い隙に間詰めこまれた俺達は身体を密着させていた。青田の体温がみるみるうちに冷えているのがわかる。
「吉原、死んじゃうよ。俺、見たんだ。菊池も、星川さんに告白したんだ。放課後の、視聴覚室で。そしたら――菊池の身体は虚乳に吸いこまれたんだ」
そう青田がつぶやいた瞬間、館内放送が耳のつんざけるほどの大音量で鳴りだし、アニメ声優の弾けるように明るい声が午後二時を告げた。文明の光が届かないこの日本の辺境でも、ようやく深夜アニメが流れだすようになったので声だけなら聞いたことはあった。いっぽう、青田は菊池がどうなったか最後まで言わずに、声優の名前と、やけに長ったらしい作品名を、魔導師の呪文のようにすらすら詠唱していた。
放送が鳴り終わると、フードコートの闇から突然、星川さんが姿を現れた。金髪のロングヘアをかきあげながら、星川さんは明るく吉原に挨拶して、テーブルの向かい側、さっきまで青田が座っていた席にすっと腰をかけた。
吉原はしばらくもじもじすると、ようやく声を出した。
「好きです。付き合ってください」
吉原は、顔を真っ赤にさせて、蚊の鳴くような声で告白した。
「……ありがとう。いいよ」
星川さんは微笑んで返事した。
「やった!」
吉原は小さくガッツポーズした。へ、お前は陰キャだと思ってたのに。これから陽キャかよ。
「けどね、わたし、面倒くさいよ? 好きになってくれた人をずっと手放したくないの」
星川さんは急に周囲をキョロキョロ見回して、いきなり椅子から離れると、テーブルの下へと隠れた。そしてあろうことか、野暮ったい紺のブレザーとシャツを一気に脱いだ。
「え、え?」
吉原が慌てる。あらわになったブラジャーは神々しいほどの黒。
「おいおい、いきなりラッキースケベかよ。ほら、青田、見ろ」
俺は興奮した。青田はガタガタ震えていた。
「わたしは“虚乳”なの。マイナス∀カップ。∀って、なにを指しているか、わかる? 数学用語なのよ」
吉原の表情は微動だにしなかった。しょせん数学三点マンの吉原には、答えられるはずがないだろう。
「答えられないのね。バカ」
星川さんはため息をつくとブラジャーをたくし上げた。ブラジャーにつつまれた胸は、虚無だった。
「あ、あ、あれが、“虚乳”か!」
虚乳はまさに全てだった。
乳のあるべき場所には深い穴が広がり、その穴から無数の銀河が見える。七色に光る星雲たちが見える。オールトの雲も、太陽系も見える。地球が見える。そして、このイオンが見える。森羅万象が見える。その森羅万象が、生々流転する様が見えた。星が生まれ、海のなかで生命が生まれ、木々や獣や鳥が陸を覆い、知的生命体が文明をつくり、やがて星間戦争を引き起こし、銀河団をあっという間に葬り去って、戦争で勝利したものはなく、生命は絶滅し、やがて宇宙は爆縮し、また、不死鳥のように蘇る――。
「∀ってね、『すべての』って意味。わたしのおっぱいはね、この全宇宙の全歴史を表しているのよ。触ってみる?」
星川さんの目つきは、うっとりとしていた。
「ねえ、ひとつに、ならない?」
星川さんは吉原の手をむんずとつかんだ。吉川は目が点になって、おそらくギターとスマホしかろくに触ってない白い手はなんの抵抗もなく、星川さんの乳へ押しつけられた。刹那、吉原の手は一気に乳に吸いこまれた。腕も吸いこまれた。胴も、頭も、足も吸いこまれた。――吉原の肉体が消失した。吉原の痕跡は、壁際のギターケースだけだった。
「星川さん、なにやっているんだ!」
突然、隣の青田が叫んで立ち上がった。青田は、星川さんのもとへ行く。俺も立ち上がった、星川さんに向かう。吉原を助けなければ。
星川さんはこちらを振り返ると乳を両手で隠した。
「あんたたち、吉原くんの友達でしょ。あんたらはクソ陰キャだから、このなかに入れてあげない」
「うるせえ! 俺達の吉原を返せ!」
俺は叫ぶと、青田とともに、乳を隠す手を引っぺはがし、漆黒の虚乳へダイブした。
「こら、なにすんの」
星川さんの声がするやいやな足首を掴まれた。
目の前には、広大な大宇宙の闇が広がり、吉原はまんざらでもない顔をして、真っ逆さまに落ちていった。数多の色に輝く混沌が吉原を包むと、吉原の存在がいきなり無数に分裂した。全宇宙の歴史に、吉原の人生のすべてが投影された。卵子と精子の姿、胎児の姿、ハイハイする乳児の姿、レスポールを弾く姿、野暮ったいスーツを着て死んだ目つきになり電車に揺られる姿、しわだらけになり腰の曲がった姿、そして、死体となって腐る姿。
「吉原くん、ああ、みじめね。これから、吉原くんはわたしと、いいえ、全宇宙と一体になるの」
星川さんの狂気を孕んだような甘い声が全宇宙に響く。すべての、ありとあらゆる吉原は涙を流して、「ママーー!!」と一斉に叫び、大宇宙の深淵の中心に溶けこむとその形を失った。
足首を引っ張られて、大宇宙は目の前から消えた。フードコートの、硬い床に尻もちをついた。青田はピクリとも動かず、床に倒れていた。
「いまのこと、誰にも言っちゃだめ」
星川さんは冷たい視線を浴びせた。星川さんは服を手早く着ると立ち上がって、フードコート奥の闇へ向かって歩き、姿を消した。
俺と青田は、なすすべなく、立ち上がることすらできなかった。
虚無のフードコートには、マックのポテトが揚がった電子音が馬鹿らしく陽気に響きだした。
曾根崎十三 投稿者 | 2024-05-23 19:43
面白かったです! ちょっとネタ被りしてしまった気がして悔しいです。
カマキリのメスみたいで良いですね。愛する人を取り込む。愛する人に取り込まれ宇宙に還る。カニバリズムみたいな発想です。星川にもっと愛を突き詰めてほしいです。星川というネーミングも良いですね。天の川とか銀河とかそのまますぎなくて。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-24 12:53
ありがとうございます!
究極の愛の形ってカニバリズムになるのかな? と思い執筆しました。
ネーミングについてはこだわりました。気に入っていただけて嬉しいです!
今野和人 投稿者 | 2024-05-24 12:49
序盤のガランとしたイオンの描写から惹きつけられました。
男子3人のキャラもよかったし、『アンダー・ザ・スキン』のスカヨハのような捕食者である星川さんも恐ろしくかつ美しかったです。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-24 12:58
岩手の田舎のイオンに行ったらまさしくこんな感じでした。見たそのまんまを書いています。
男子三人のキャラのうち、青田のモデルは実在します。ラノベをすらすら読むのに国語の点数はいつも赤点を取っていました。
アンダー・ザ・スキンの名前は初めて聞きました。今度機会があったら観てみます!
春風亭どれみ 投稿者 | 2024-05-24 15:35
バスは一日7度来る、でもそのうち多くは朝晩の時間帯に偏りもしてるだろうから、こんな昼下がりに申し訳程度に営みを見せてるイオンのフードコートはまさに彼にとって世界の中心なんでしょうね。
「∀」、アニオタっぽくいえばターンエー。Aの反対…なんては某つるっぱげ監督の創作解釈ですが、
Aの反対は巨でなく虚…。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-24 19:12
田舎の高校生にとってはこういうイオンが世界の全てなんですよねえ……。∀はわが小田原市の誇るお禿の作品を参考にしました
深山 投稿者 | 2024-05-24 19:05
初めまして。初めましての方にこのような感想を申しあげるのは気が引けるのですが、死ぬほどバカバカしくて読んでも一切何の学びも残らなくて最高でした。ありがとうございました。
やっぱり”虚乳”って言葉の思い付きからできたんでしょうか。そこから虚数という発想はわかるんですが、マイナス∀カップもぎりわかるんですが、乳のあるべき場所に無数の銀河と七色に光る星雲とオールトの雲と森羅万象は全然わかりません。超好きです。
魅惑的なおっぱいは宇宙の神秘のようですが虚のおっぱいは恐ろしいものですね。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-24 19:16
テキーラを8杯飲まされた日に思いついたネタを養命酒6杯飲みながら書きました。バカバカしい小説にしあがり、無事バカバカしいと褒められて嬉しいです。
虚乳は音の響きで決めましたね。こんな乳を持ってる女の子には絶対遭遇したくありません((( ´ºωº `)))
諏訪靖彦 投稿者 | 2024-05-24 19:24
私はいったい何を読まされたのか。「虚」について改めて調べたら「虚無」は無限の宇宙を現す言葉でもあるみたいですね。しっくりきました。いや、しっくりくるか笑
眞山大知 投稿者 | 2024-05-24 20:28
書いた本人でも正直この作品が理解できませんので安心して下さいm(_ _)m
吉田柚葉 投稿者 | 2024-05-24 22:54
文章がめちゃくちゃ上手くて、序盤からワクワクさせられました。フードコートにつくところまでの感じで、結局最後まで何も起こらなかったとしても全然読めるな、と思いました。
それはそうと、男でありながら陰キャである吉原が告白を成功させたために陽キャになり、そのために男=陽、女=陰という陰陽説の「世界観」のもとに収斂されたのが、星川さんに取り込まれた原因かと。よくわからんが、そう思いました。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-24 23:09
ありがとうございます!
なるほど、陰陽説ですか……。まったく考えてなかったです(:3_ヽ)_
大猫 投稿者 | 2024-05-25 12:12
良質なサイエンス・ファンタジー(というのかな?)を読ませていただきました。
劉慈欣の『三体』で、三次元の世界から二次元を見るシーン、あるいは四次元から見た三次元のシーンに、ミクロの凝視とマクロの俯瞰が同時にできるという圧倒的な描写があり、心震えたことを思い出しました。イオンのフードコートで同じことをやってのけるとはすごい!
キャラ設定もいい感じです。特に青田君がいいです。星川さんは何者なのでしょう。あるいは宇宙の根源たる何かなのかもしれません。それが日本の片田舎のイオンで何気なくおっぱい出しているなんて想像するのも楽しいです。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-25 12:34
劉慈欣の短編に『郷村教師』という作品があります。中国の貧しい村の中学校がいきなり宇宙戦争の舞台となるというとんでもない作品で、初めて読んだ時は度肝を抜かれました。もしかしたら無意識のなかでいつの間にか模倣していたかもしれません。
青田君には実在するモデルがいます。本当にこんなヤツでした。もう十何年も連絡をとってないですが元気でいてくれることを願ってます
河野沢雉 投稿者 | 2024-05-27 05:55
むちゃくちゃ面白かったです!
クソコラとかラッキースケベとかなんjとか語彙の選択がいちいち素敵でした。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-27 07:21
ありがとうございます!
Juan.B 編集者 | 2024-05-27 19:27
少年たちが、乳みたいな誤魔化しではなく、大宇宙生殖の本義に向かいあっていれば……。
いつの日か、虚乳を埋める強大なエネルギー(よくわかんないけど道鏡みたいなおじさんだとおもう)が現れ、陰陽の和合が果たされる日があるかも知れない。いや、0に何をかけても0みたいな乳なら、それはもうそれだ。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-27 20:58
3人が童貞ムーブをかまさずもう少しグイグイいっていたら……。もし、星川さんを満足させられる男(というよりもイチモツ)が現れれば、新しい宇宙が生まれるのかもしれません
小林TKG 投稿者 | 2024-07-21 22:34
田舎のイオン感が最高です。そうなんですよね。田舎のイオンって何も無いところに忽然と建ってたんだよなあって思いました。その様。田んぼや草木の中にピンクに白字の看板。忽然巨大建造物。昔の御所野イオンはこういう感じでした。夢も希望も職も金も無い街で一番の娯楽はエロなのも分かる。分かりすぎる。辛いくらいわかる。
眞山大知 投稿者 | 2024-07-22 18:51
なんで田舎のイオンってシムシティ初心者がつくったように忽然と建つんでしょうね? 長年の謎です。そんな田舎の娯楽は本当にエロしかないんですよ。他にあったとしてもパチンコ屋ぐらいでしょう。イオンとパチンコ屋は日本の原風景だと思ってます