変温動物である両生類や爬虫類、昆虫などは地面に潜ったり木の中に入って仮死状態で一冬を超える。それが冬眠だ。哺乳類でもリスやねずみなどの小型哺乳類は冬眠する種類が知られている。彼らが冬眠できるのは体表面積が小さいから可能なのであって、熊のように大きな身体を持つ動物が冬眠するというのはかなり珍しい。しかし、彼らのそれは、わずかな足音でも目を覚ますほど浅い眠りで、ただ穴の中に籠っているように見えることから「冬ごもり」とも呼ばれる。彼らは冬眠前にたっぷりの栄養分を体内に取り込むために大量の食物を必要とする。冬の前に熊が人里に降りて来て騒ぎになるのは、必然とこのシーズンになる。幼い冬二が〝ヌシ〟と呼ばれるヒグマに襲われたのも、ちょうど里山の木々が色づいた頃だった。母の季美子が洗濯物を取り込む最中に、近くで土をいじっていた冬二からわずかに目を離した瞬間の出来事だった。黒く大きな影が蠢くのを目の端で捉えた瞬間に、冬二は右肩に激しい痛みを感じて目を開いたまま気を失った。
――あんなでけえのは今まで見たことねえ。じいさんに聞いてた〝ヌシ〟に違ぇねえと思ったね……。
当時、〝ヌシ〟から冬二を救った猟師は地元のテレビ局によるインタビューでそう応えていた。猟師の放った銃弾を受けた〝ヌシ〟は咥えていた冬二の肩から牙を抜いて走り去った。駆け寄った猟師は、青い顔で泡を吹いていた冬二を見て死んでいると思った。右肩から流れ出る血は止まらず、肉がえぐれていた。呆然と立ち尽くしていた猟師は、冬二の息が止まっていないことを確認して気を取り直し、ネルシャツの袖を破って止血し、彼を背負って山を下りた。
冬二の記憶にあるのは、街にある大きな病院でたくさんの管に繋がれたままベッドの上で目を覚ました後のことだった。
――……よく覚えてません。
医者に何を聞かれても、幼い冬二はただそう言いごもるだけだった。今でも冬二の右肩には大きな傷跡があり、彼は右肩から上に手を上げることができない。季美子は一生ものの傷を負った息子に対する罪悪感から精神を病んで、精神病院にかかるようになって冬二が小学校を出る頃に父親の夏生とも離婚した。それからは夏生が男手一つで冬二を育てた。その夏生も、冬二が高校生の時に里山で〝ヌシ〟に襲われて死んだ。父の葬式で冬二は〝ヌシ〟を仕留めることを決意して、彼を救った猟師の元で狩猟を学んだ。
樹齢三〇〇年はとうに越えていそうな巨木の根が岩石に絡まり一体になった洞穴の奥に、全長三メートルはあろうかという巨躯を丸めて寝息を立てる生き物は、ぱっと見、童話にでも出てきそうな微笑ましさすら携えている。この二〇年、人間の味を覚えたそれが幾人もの餌を貪ってきたことを知らなければ、確かに穏やかな気持ちでいられるだろう。落葉樹の葉は色づき、山の景色は秋の到来を告げている。胃袋の空白が〝ヌシ〟を目覚めさせて、人里へと誘う。穴の入り口に積もった落ち葉を踏む音がそれの神経を逆なでて、それは「ヴォオ」と大きな口を開けて声を上げる。幾年もおこぼれを啄んできた鴉が帝王の降臨を仲間に知らせるように「アァー」「アァー」と鳴いて杉の枝から枝へと飛び移る。山の向かい側に落ち始めた陽の光が木々の合間を抜けて、それの焦げ茶色の毛に覆われた巨躯を照らすと、そこに無数の弾痕による陰影ができて人間との戦史を物語っている。両耳を澄まし、目を凝らし、鼻頭をびくつかせて、四肢の先に張り巡った神経に意識を集中し、人の気配を五感を研ぎ澄ませながら探す。落ち葉を舞い上げる風に乗って、わずかな火薬の匂いが漂ってきた。前脚を上げた巨躯を広背筋が持ち上げて、首を左右に振って周囲を注意深く見渡す。
冬二は大きく息を吐いて、猟銃のボルトハンドルをスライドさせた。銃口の先に〝ヌシ〟の姿が見える。右肩の傷が疼いて、銃身を持つ手に力が入った。右手の人差し指を引き金に当てて、また大きく息を吐き出した。一発で確実に仕留めなければならない。何十発と弾丸を受けながら何十年もやつは人を喰らってきた。脳天に撃ちこむか、あるいは心臓に当てるしかないだろう。しかし、心臓はやつが立ち上がりでもしない限り狙えない。頭は的が小さい上によく動く……どちらにしろ、十二分に距離を詰めて確実性を高めるしかない。冬二は銃口を上に向けて、屈んだ姿勢のままゆっくりと移動した。適当な岩の影に隠れ、再びボルトハンドルをスライドした。影から顔を覗かせて銃口を向けると、やつは身体を起こしていた。千載一遇のチャンスだ。心臓の辺りを狙い、冬二は引き金を引いた。
なにかが弾ける音が響き、胸の内側に大きな衝撃を受けた。どこに隠れていた? 右前脚の肉球におびただしい量の血がついたの見て、目が回る。視界の隅に動くものが映った。岩陰に身を潜めていたようだ。「ヴウォー」と声を上げて威嚇する。走れるか? 左後ろ脚を蹴って一気に間合いを詰める。大きな発砲音が耳をつんざく。
まだ動けるのか? 二発目は外れた。ベルトに取りつけたカバーからサバイバルナイフを引き抜いて、顎のあたりに突き立てる。「ヴウォー」と腹に響く声を上げて歯茎をむき出しにしてヌシは頭を振った。鉤爪が右肩に振り下ろされ、右腕の感覚が無くなった。突き立てたナイフの柄を左手で引き抜いて、再び何度も無我夢中で刺した。馬乗りのまま動かなくなった巨躯を両足で上に蹴り上げるようにして、抜け出した。夕焼で赤くなった空が紫色に変わりながら夜になろうとしていた。
空腹で目が覚めた。何か食べるものを探すために上体を起こそうとした時に、違和感を覚えた。ここはどこだろう……? 暗闇の中にいる。手を動かすと、ガサッと落ち葉のようなものに当たる感覚があって、慌てて手を引っ込めた。真っ暗で自分の体も見えない。ひとまず両手を前でガサゴソと動かしつつ、膝を立てて前進しようとしたら尻もちをついた。何かがおかしい。暗闇で平衡感覚を失っているのだろうか。気を取り直して、前屈みになって前進する。白い光が差し込んでいるのが見えて、穴の中にいることが分かる。光の方へ気を急いて進んだ。眩しい光に目が眩み、外に出ると白い雪で一面が覆われている。ひどく寒い。そう思って、両手に息を吹きかけようと口元に掲げた時に毛むくじゃらの獣の手が視界に飛び込んできて声が出た。その声も「ヴォオオ」という身の毛のよだつものだった。何が起きたか、見当もつかない。きっと夢なのだろう。そうとしか思えない。夢から覚めるためにもう一度眠るしかないと考えて、巨木の根の下にある洞穴に戻って目を瞑った。
軒下で白いシーツを物干し竿に掛けている割烹着を着た母の後ろ姿に向かって、「母ちゃん」と呼びかけると、彼女は洗濯ばさみでシーツの端を留めてから顔だけをこちらに向けて「なあに?」と笑いかける。その瞬間に何を言おうとしたのか、忘れてしまって「何でもない」と答える。母は「なんね、それ」とシーツの端をもってパンパンと鳴らす。あの時間が幸福なことだとは思いもしなかった。山を下りて、同じ光景が目に入った。母は作業着のようなベージュの上着をハンガーにかけていた。その隣で小さな男の子が玩具のショベルカーを片手に地面にしゃがみ込んでいた。なぜだか胸が疼いた。ここにはもう戻ることができない。諦めの境地へと陥ったときに無性に空腹感を覚えた。
――今でも思うんです。あれは息子の生まれ変わりだったんじゃないかと。この世界に生んでやることはできなかったけど、熊に生まれ変わって挨拶にきたんじゃないか。弟にじゃれ合うつもりで、ひょっとしたら嫉妬の心もあってあんなことになった……そう思うと、二人とも守れなかった自分がただただ悔しくて、しょうがないんです。
彼女のもともとの病の要因は、流産の経験にあるのだろう。そこから立ち直りつつあった時期に不幸にも、熊に息子が襲われるという悲劇がダメ押しになった。精神科医は診断書に書き込みながら、窓の外に視線を投げかけている患者の表情を見た。なんとも穏やかな顔をしている。精神科医は彼女の視線の先に目をやった。向かいにそびえる里山の頂にうっすらと雪が積もって白くなっていた。
「長い冬が来ますね」
「ええ。熊も冬眠して長い夢を見るのでしょう」
そう言って、彼女は微笑んだ。翌年、自ら命を絶った彼女のことを精神科医は時々思い出す。この日も、彼は里山に趣味の登山で訪れていた道中で彼女との会話のことを思い出していた。右足を滑らせて、谷間に落ちたのはその時だった。目の前に見上げてもてっぺんが見えないほどの巨木が立っていた。そのむき出しになった大きな根が絡みついた岩と一体になって大きな洞穴になった暗がりの前に落ち葉が降り積もっている。精神科医は穴の奥で一瞬、何かが動いた気がした。
鹿嶌安路 投稿者 | 2024-03-19 16:46
松尾模糊先生!受賞記事、ありがとうございました!!作品と企画のご紹介を頂けたことを大変嬉しく思います。先生の記事をきっかけに、さらに企画へ参加される方が増えると嬉しいです。以下コメントでございます。よろしくお願いいたします。
もしかして『レヴェナント』です?戦闘シーンの流れがそっくりでした。もしそうなら嬉しいです!私も大好きなので!!
「樹齢三百年の巨木→巨大なヒグマ」のカメラワークにうわぁっ!ってなりました。茶色と巨大さの二つの性質を類接させ、さらに二つをダブらせた奥で大自然への畏怖が浮かんでくる。このカメラワークはエグいです。なので、これだけ偉大な描写が現前化した以上、大自然への畏怖まではいかないにしても、『レヴェナント』が用意するような復讐のテーマだったり、自然との対比で描かれる人間の矮小さだったりを期待しました。バキみたいな融和のテーマも面白いですよね。
大猫 投稿者 | 2024-03-23 21:55
白状しますと、初回読んだ時は時系列の顛倒や視点の移動について行けずに(?)となりましたが、二回読んで分かったような気がします。
冬二と「ヌシ」の関わりを、ステレオタイプの「害獣と被害者」に留めず、家族の物語にまで広げているのが上手い作りだと思いました。もう少し長い枚数で冬二の成長を読みたい。
文体が理知的なので、おとぎ話にも夢幻譚にもならず、リアリティのある物語になっています。逆に冒頭の冬眠の蘊蓄はなくてもいいかなとも思いました。
深山 投稿者 | 2024-03-24 14:47
単に自然対人間、あるいは人のドラマと動物のドラマみたいなものを想像していたので、予想を越えられたと思いました。
もっとおとぎ話か民話っぽく振り切っても面白いかもしれませんね。
私の読解力がないだけなのですが、ベージュの上着をハンガーにかけているお母さんを見るのがヌシ目線なら、白いシーツを干す割烹着のお母さんに呼びかけるのは誰だ?これもヌシ?と混乱しました。すみません。
時系列としては、熊の回想→冬ニが襲われる→母と精神科医→谷間に落ちる精神科医→冬ニと熊の対決、で合っているでしょうか。
「流産で生まれなかった冬二の兄」が重要なので序盤で触れられるといいと思いました。「一人目を流産した後に遅く生まれた子だった冬二は大切に育てられていたが」みたいに冬二の育ちと絡められるとか。あくまで私が書くとしたらという感想です。
小林TKG 投稿者 | 2024-03-25 13:03
最初読んでて、私の大好きな海のいのち的な話なのかなって思ってたら、全然違いました。いや、違いましたけども、でも、もしかしたら海のいのち的な話なのかもしれないとも思います。そう思いました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2024-03-25 15:27
冬二ろヒグマの戦いがスリリングうまく書けてるなと感心しました。ですが冬二がヒグマに狙いをつけて弾を放ったはずなのに、隠れていたヒグマに襲われたと書いていて、もう一匹いいるのかと思いましたが、サバイバルナイフで戦っている相手をヌシと呼んでいるので違うのかな。
曾根崎十三 投稿者 | 2024-03-25 16:18
ハードな作風で異色だったのですが、時系列がわかりにくかったです。熊との対決から過去にまた戻っていくということですか?
熊は流産したお兄ちゃんの生まれ変わり?的なのも、他の方も書いてますが、もっと先に存在が出ていた方が唐突感がなかったかと思います。
いろんな人の視点で回すには尺が足りない気がしました。
退会したユーザー ゲスト | 2024-03-25 18:24
退会したユーザーのコメントは表示されません。
※管理者と投稿者には表示されます。
Juan.B 編集者 | 2024-03-25 19:22
視点に戸惑うこともあったが、宗教・オカルト的なそれだけでなく、何かの死に臨むのも臨死体験だと思っているので外していない作品だと思った。クマの冬眠も一種の死なのだろうか。面白かった。