フグ原カニ男は武者震いをした。絶対に、アメリカ合衆国大統領とローション相撲で勝利しなければならぬ。しかも全裸で。スッポンポンでデブの中年男・カニ男の目の前では、これまたスッポンポンで中年男の大統領が鼻息を荒くし、血走った目をしながら、Fワードを壊れた鳩時計のように連呼していて、大統領の大統領はドン・キホーテのウツボのように長く、土俵はヌルヌルで滑りやすく、あたりをぐるりと囲う金網の外には、制服姿のガチムチの軍人たちが、大統領より少し控えめにFワードを叫んでいる。なんでこんなことになったかカニ男にも分からぬ。だいたいカニ男は政治家でも官僚でも大企業の社長でもない。学もない。大統領はハーバード大学卒のエリート。それに比べてカニ男の最終学歴はド田舎の工業高校卒であった。しかも仮免の試験に六回も落ちている。
そんなカニ男はラッキーボーイだった。コンプライアンスなどという、しち面倒臭い概念がない昭和に生まれ、学校や会社に忠誠を誓えば食いっぱぐれはなく、高校の担任に言われるがまま卒業後は複合機メーカーへ就職し、令和の若者と違い、即戦力になるよう上司や先輩からプレッシャーをかけられず、工場でずっとノンキに働いていた。バブル崩壊。リーマンショック。コロナ禍。会社はなんとか生き残り、カニ男は幸運にもクビにならず、いつのまにか五十五歳になっていたが女に縁がなく独身だった。親は死に、ひとりだけの妹が久しぶりに電話をかけてきたので喜んで会ってみたら、ルノアールの奥の座席に座らされ、仕事仲間だという怪しい男とともに「5Gの電波で全世界にウイルスが拡散されている」と涙ながらに語りかけ、弟の健康が心配だからと、ひとつ二〇〇万円もするただの缶を買うよう勧めてきて、カニ男は猛ダッシュでルノアールを出ると泣きながら妹のLINEをブロックした。仕事は成功も失敗もしなかったが、カニ男はいっちょまえにサブエキスパートなどという洒落た肩書きがついて、トラブル対応で行った海老名の工場では、カニ男がタイムカードを切った瞬間に製造ラインが復活し、コロナ禍以降久しぶりに対面したハゲ部長から「ラッキーボーイのカニ男」と喜ばれ、駅前の魚民で酒をたらふく飲ませてもらい、さらに気をよくした部長から、どこから仕入れたかわからないクオカードを受け取り、カニ男は駅前のルートインにチェックインして廊下でVODのカードを鼻歌まじりに買い、さあ、今日はどんなエッチな動画を見ようかなと楽しみにしながらシングルルームの鍵を開けようしたその瞬間に突然、黒づくめの男たちにとっ捕まったのである。
「キサマ、逃げるなんて。それでも日本のプライムミニスターか。どう落とし前をつけてくれる。大統領が駐車場で待っているぞ」
ガチムチの男たちは殺気だった目でカニ男を見ていた。わけがわからなかった。カニ男の酔いはすっかり醒めてしまった。
「どういうことですか? そもそもあなた達は誰ですか?」
カニ男がキーエンスの営業をあしらうように対応すると、男たちは黙って頷き、カニ男を両脇から抱えあげた。
「離せ離せ! 警察を呼ぶぞ!」
まるで宇宙人のように両脇を抱えられたカニ男。男たちはブラックスーツの胸ポケットから素早くスプレーを取り出すとカニ男の顔面にかけた。
カニ男が目が開くと簡易テントのなかにいた。テントにはロッカーが仰々しく立ち並び、周囲を見渡すとルートインの駐車場だった。
「申し訳ありません、プレジデント。やっぱり東洋人はなかなか言うことを聞かない」
テントの前でガチムチの男たちが誰かに深々と謝罪していた。カニ男が目をやると、その先には、アメリカ合衆国大統領、スクイード・シュリンプが茹でエビのように真っ赤っ赤な顔をしながら、玄田哲章のような声で吐き捨てた。
「おい、貴様、いつまで待たせる気だ。さっさとローション相撲をするぞ。全裸で」
カニ男は母の教えで新聞を毎朝欠かさず読んでいた。大統領が来日中だと知っていたし、元々新聞記者の大統領が若かりし頃、バブルの絶頂期に東京支局で働いていたから流暢に日本語を喋れることも知っていた。だが、なぜアメリカ大統領とローション相撲をしなきゃいけないんだ。しかも全裸で。カニ男はただの一般国民現場猫だった。一人暮らし、友もいない。休みはボロアパートでずっとスマブラをしていたり、なんjをぐるぐる巡ったりする。しいていえば――総理大臣にそこそこ似た顔と名前をしていることぐらいしか思い当たるフシがない。
「フグ田カニイチロー、貴様が久しぶりにローション相撲をしたいっていったからわざわざ日本に来たのに、敵前逃亡とはどういうことだ。俺の名前がシュリンプだけに海老名へ逃げたか。ふざけてんのか!」
「ちょっと待ってください。人違いです」
「貴様、言い訳するな。それでも気高きサムライの末裔か! 脱げ、せっかくここまで来てやったんだ。ほら、さっさと全裸になるんだ」
シュリンプ大統領がにらみける。するとロッカールームへスーツ姿のおっさんが駆けこんできた。
「フグ原さん。わたしは首相秘書官のクジラ井です。本当に申し訳ありませんが、総理が到着するまでのあいだ、大統領とローション相撲をしていただけないでしょうか。全裸で」
どういうことだとカニ男は困惑した。あまりにも突然過ぎて、本当にどうでもいいことを聞いてしまった。
「あの、本物の総理はいまどこにいらっしゃるのですか?」
「荻窪の実家に隠れていたのを発見しました。大和トンネルの渋滞にハマってしまい、来るのが遅れています」
カニ男はその場でずっコケそうになった。
そうしてカニ男は全裸にされて土俵際に立っていたのである。ルートインの駐車場に作られた土俵には、大量のローションがぶち撒かれていた。
「カニイチロー、貴様と戦えて嬉しいよ」
全裸の大統領は土俵の向こう側でカニ男を威嚇してきた。泣きそうになり、生まれたての子鹿のように足が震えていると、呼出しの男がこれまた全裸で土俵へやってきて叫んだ。
「ひがああしいい、スクイーーーード・シュリンプゥゥゥゥ。にいいいいしい、フグ田ああああ、カニイチロオオオオオオオ」
別の呼出しが桶をひっくり返し、カニ男にヌルヌルローションをぶっかけてきやがった。ローションはほんのり温かかった。
そしてこれまたどこからともなく全裸の行司が現れた。行司の体はすでにローションまみれだった。ヌルヌル行司は長台詞を儀式のように言うと、軍配を左右に振りかざす。カニ男は遠い昔に高校で受けた相撲の授業を思い出しながら、土俵に上がると律儀に礼をし、蹲踞をして塵手水をしたあと後、仕切り線まで進むが足元が滑って何度もコケそうになった。ようやくカニ男は仕切り線まで来た。大統領が自信満々な顔で待ち構えていた。新聞社を解雇された後、イラク戦争で戦ってきた大統領の体は分厚い筋肉で覆われていた。正攻法でいったら絶対に敵わない。カニ男は悟った。
「構えて!」
行司が威勢よく叫ぶ。腰を落とす。大統領も腰を落とす。大統領のウツボは土俵についてしまった。誰も文句を言わないところを見ると、土俵についても大丈夫なんだろう。
拳を土俵へとつける。目線が合う。
「はっけよい!」
大統領は立ち上がるやいな、強烈な張り手を頭に食らわせてきた! 脳が揺れる! 「のこったのこった!」と行司が断末魔のように叫ぶ。頭に激痛。時が止まる。景色が歪む。ああ、死ぬのだな――カニ男は薄れゆく意識のなかで諦めた。ふと、土俵の外へ目をやると驚いた。死んだはずの母親が、高校の卒業式に着てきた黒留袖姿で、金網にしがみついて泣いていたのだった。
カニ男は思わず叫んだ。
「母ちゃん!」
「カニ男、てめえを貧弱な男に育てた覚えはねえ。勝つんだよ!」
そうだ。いままでの人生、特に成功もしなかった。失敗もしなかった。けど一度でいい。勝ちたい! 母の一言にカニ男は奮起した。戦えカニ男!
足を踏ん張る。ヌルヌル土俵の際で耐えた。カニ男は手を、大統領の股に差すとウツボを握り思い切り下へ引っ張った!
「んああああああああああ! 貴様、卑怯だぞ!」
大統領は目をかっぴらいて天を仰いだ。そのままカニ男は大統領の体を押し返した。大統領はヌルヌル土俵をスケートのように滑っていき、伸び切ったウツボと足が絡って派手に転倒した!
軍配が、上がった。
カニ男がリングの外をもう一度見ると、当たり前だが母はいなかった。かわりに、母がいた場所には、本物の総理が顔面を真っ青にして立っていた。
スマホのアラームが鳴った。目を覚ますとルートインのベッドにいた。すでに朝だった。ああ、変な夢を見たな。酒を飲みすぎると夢見が悪い。カニ男は酒を飲ませた上司に心の中で文句を言いながら食堂へ向かった。熱々のコーヒーを飲みながら新聞をひらく。首相動静へ目をやった瞬間、カニ男は飲みかけのコーヒーを吹き出してしまった。
首相動静
フグ田首相
【午後】4時42分、日米共同記者会見。6時01分、皇居。シュリンプ大統領歓迎の宮中晩餐会。9時37分、荻窪 私邸。11時7分、海老名 日米親善相撲大会。東 スクイード・シュリンプ ●(腰砕け)○ フグ田カニイチロー 西、1時37分、荻窪 私邸。
勝ったはずなのに、カニ男はなぜか急に恥ずかしくなった。どこからか「やったね、カニ男」と声がした。
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