放課後の教室の黒板には高校数学じゃ絶対出てこないようなギザギザの記号やξやζなんて妙に形がセクシーなギリシャ文字、はたまたバックベアードや洞窟にこもるハチワレなど、他にも訳のわからない絵がびっしりと書かれていて、幼なじみの芽衣は左手で頭をかきながら鼻歌を交え、赤みがかったピンク色のチョークを手に取ると黒板の中央に大きく98.6%と書いた。その数字は死刑宣告に等しかった。
俺の全身に宇宙的恐怖が駆け巡った。嫌だ、嫌だ、嫌だ。嘘だろ。嘘だと言ってくれ。その場で膝から崩れ落ちた。わななく手を、芽衣の脚へ伸ばす。すべすべの脚にすがりつくと、のび太がドラえもんにひみつ道具をせびるように泣いた。
「芽衣さ、おれ、信じられないんだ、ずび、ひっく、俺の、ずび、金玉を潰せば、ぐしゅ、98.6%の確率で地球の平均気温が2℃下がるって、ぐすん、ホントかよ」
「うん! 最高じゃない? 金玉をぐしゃあって握りつぶされるだけでさ、地球温暖化防止に貢献できるなんて」
芽衣は俺に天使のような笑顔をふりまくと、左手を宙にあげた。開いた左手を見せつけるように一気に閉じ、握り拳をつくった。
「馬鹿じゃん。ぐす、お前、ひっく、ついにおかしくなったんか?」
「違うよ。優太のためを思って潰してあげるんだから。優太、あんたは英雄よ。世界史の教科書に載るよ。それにね、わたしはね、幼稚園の頃から優太のナッツクラッカーになるのが夢だったのよ!!!」
芽衣はケーケッケッケと笑った。
――私には凡てがわかった。一刻も早く逃げなければならぬ。
馬鹿野郎。なんでこんなときに仮面の告白の名台詞を思い出すんだよ、俺。しかも、これはキスシーンのセリフやぞ。こちとら、生殖機能に関わる緊急事態。死ぬまでに製造するだろう数兆の精子とまだ見ぬ子どもたちのために、一刻も早く逃げなければならぬ。金玉を守らねばならぬ。
「ちょっと待ってね。スマホで写真を撮るから。この奇跡的な黒板を全世界に広めないと」
芽衣はスマホを取り出すと黒板を撮影し始めた。
今だ。涙を拭く。立ち上がって教室の出口めがけ疾走! あっと背後で声がした。無視だ。振り返っちゃいけない。廊下へ出る。誰もいない夕暮れ時の廊下は、遮るものは一切ない。全力ダッシュ。一気に駆ける。
「いやああああ!! 逃げないで!!」
背後で芽衣は鬼婆のように叫びだした。
なんとか芽衣を撒いた。男子トイレの暗い個室に閉じこもる。スマホを開く。画面を通知が滝のように流れた。芽衣がXにあげた黒板の写真は、リポスト数がすでに2万を突破している。ご丁寧に俺のアカウントのIDをつけていたから、リプライが洪水のように押し寄せる。
便座に座りながら頭を抱えた。――天才と秀才は誤解されがちだ。動画サイトやネットニュースを騒がせる天才は所詮は秀才。芽衣のようなマジモンの天才は、社会や政治に1ミリも興味がない。JKにして俗世間に興味が失せて、うんこのフォルムを四次関数で表現したり、淫夢語録を古文や中国語に訳したりする。芽衣が淫夢語録の中国語訳を毎晩送ってきてくれたおかげで、つい最近中国語検定の四級に受かってしまった。
しかし、これからどうしようか。さすがに一生トイレに隠れるわけにもいかない。
芽衣の計算によると、俺の金玉は潰すと世界が変わる代物らしい。中3で行ったナポリをふと思い出した。父親がアタック25で優勝し地中海クルーズへ連れられた。クルーズ船がナポリ湾に寄った際、岬に低く陰鬱な城がへばりつくようにそびえていた。――卵城。11世紀に城が建てられた時、どこからともなく魔術師がやってきて、城の基礎に卵を埋めた。魔術師は「この卵が割れるときには城もナポリも滅びる」と言い放つと瞬く間に消え去ったという。
卵城の卵は潰してはいけないが、俺の金玉は潰すと莫大なメリットがある。各国政府と大企業が頭を悩ませている大問題を一発で解決できてしまう。たとえ芽衣に金玉を潰されなくても、どこかの国のスパイがやってきてクラッシュさせられるかもしれない。
万事休す。絶望に打ちひしがれていると、個室の外からゴリラのような雄叫びが聞こえた。
「クソが、くたばれ読売!」
なんだよ、ヤクルト狂いの武山先生か。贔屓のチームが負けたら怒るなんて、昭和じゃないんだから。へっ。
そう思った時、はっと閃いた。そうか、危険人物に対抗するには別の危険人物をけしかければいいんだ。
すぐさま個室から出る。
「武山先生ー、A組の夏川さんが『ヤクルトのファンなんていつも傘振り回して草生える』なんて言ってましたー」
「なんだと! ふざけんな、さてはクソ読売のスパイだな?」
武山先生は小便器に向かったまま、顔を真っ赤にさせ震えだした。まんまとかかったな。生きるためなら嘘でもなんでもでっちあげてやる。芽衣と武山先生を戦わせ、芽衣に計算をやり直させよう。あいつはおっちょこちょいだから検算なんてしていないはず。もしかしたら計算を外しているかもしれない。
「先生、説教しましょう。夏川さんのためです。そのうち夏川さんは読売なんて邪教を信じて悪の道に進みますよ」
武山先生は「悪即斬!」と叫ぶと、いきなり刃牙のような強面に変貌した。
計画通り。そそのかした効果は絶大だった。芽衣に対抗できる人間はこの学校に武山先生しかいない。ボディービルダーを目指しながら東大の柏キャンパスで複雑系を研究していたものの、「学生がもやしっ子で筋肉が足りていないし、千葉ロッテの野蛮な臭いがキャンパスまで漂ってくる」という理由で大学を辞め、神宮球場からほど近いこの高校で教師になった。そんな、フィジカルも頭脳も思考回路も規格外の先生だった。
「金属バットを持って来い!」
武山先生は鼻息を荒くした。
学校の屋上から見える夕暮れ時の空は妖しく紫がかっていた。フェンスの向こう側、ビル群に囲まれた神宮球場はナイター照明がすでに輝きだしていた。そのフェンスの手前に芽衣と武山先生が対峙していた。
「芽衣、正気に戻ってくれ!」
そう叫んだが、芽衣は目を潤ませて訴えてきた。
「優太、わたしの邪魔をしないで! あなたのためなの。金玉をクラッシュさせて!」
話が通じない、クソ。
「読売のスパイに口答えする権利は無い!」
武山先生は金属バットを振りかざすと芽衣へ飛びかかった。芽衣は素早くジャンプしながら後方へと下がった。着地した武山先生が悔しそうにつぶやく。
「チッ。どうせあの天才だ。軌道を計算されて届かねえか」
「そうよ。わたしは天才よ。ねえ、優太、先生、この完全無敵なわたしに勝てると思っているの? さあ、早く優太の金玉を潰させて!」
ああ、もう終わった。すがるように武山先生を見る。武山先生はうつむいていて、なにかをブツブツ唱えると、突然表情をハッとさせ顔をあげた。
「夏川、完全無敵なわたしって、それマジで言っているの? 黒板に書いていた計算式、途中のℵ1がℵ0になっていたぞ。無限集合の濃度を間違えるなんてお前らしくないぞ」
「え、嘘、嘘。あれ、どうしよう。そしたら待って、前提条件が全部ひっくり返る……」
芽衣は天を仰いでなにかをモゴモゴ唱えた。刹那、顔を真っ青にさせ、コンクリートの床にいきなり土下座した。
「ごめん、計算間違えた! 金玉を潰しても、温暖化は止まらないや!」
芽衣はひょこっと顔をあげると、舌を出してウインクした。
当たり前だ、バカ!
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