サイコパスは選べる。
共感をしようとすれば出来るのだけど、するかどうかを選べる。
感動は出来るのだけど、するかどうかを選べる。
残酷非道に徹する事はできるのだけれど、それをするかしないか、その強弱すらを自由自在に選べる。
死んだ人間を目の前にして、泣いてる人を尻目にしながら、自分だけは泣かないのがサイコパスという訳ではない。泣いていない自分を俯瞰して、泣こうか泣かないかを常に選んでいるのがサイコパスだ。
「好き」がわからない。本当に。サイコパスの本質を一つだけ挙げろと言われたら、間違いなくこれ。「好き」がわからないのだ。
それでも自分の中だけで選択と集中を行うと、本気でこの人物や事象を「好き」と思う事が出来るのだ。
「好き」だけど、実は全く好きではない。関心がない。このどうしようもない自己の矛盾感を抱えながらも、決して苛まれない。躊躇なく決断し実行出来るのがサイコパスというものだ。
自称サイコパスの多くがサイコパスではない。多くは頭が良すぎているだけの人物であって、周回遅れの世の中を斜にみているスタンスがサイコパスのそれに近似している。が、それは疑似相関であって本質が違っている。
頭の悪い世間には共感しないが、頭の良い人物には共感する場合もある。
頭の悪い事柄を忌避するがゆえ感動しないし、関心もないが、頭の良い物語では感動したりもする。
真正のサイコパスは、必ずしも知能が高いとは限らない。けれども、容姿に優れていたり、魅力があって人気があったりする。
美味しい飯を食いながら、不味い不味いと頭の中で呪文を唱え続ける。やはり美味しいか、不味いと感じるか。この感覚すらも自由に選択できる。
子どもの頃からずっと、動物みたいに感情をあらわにして泣いたり笑ったりしている子どもや大人らの気持ちがわからず、大人になって段々と気が付いてゆく。自分が異質なんではないかと。しかしそれすらも、気付くか気付かないかを自在に選べるのがサイコパス。
おそらくサイコパスにしかできない事がある。良いも悪いも、サイコパスにしかできない事があるのだ。
※自分語り(騙り)ではない。
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