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その日、仕事の帰りに舩馬洲(ふねめず)の街まで出て同僚数人と数件を飲み歩いて、気がついて時計を見たら、もう終電の時間になっていた。「まだまだ飲むぞ」と大騒ぎで夜通し覚悟の同僚たちと漸く別れて、北武野中線の舩馬洲駅ホームへの階段を駆け上がって発車寸前の終電電車に滑り込んだ。息を整えながら腕時計を見ると午前零時を過ぎて翌日になっていた。最終電車とあって、いつもはすし詰めとは言わぬまでも座る場所もなく立つ人間も多いのだが、この日は空いていて立っている人間は一人もいなかった。座席もまばらに空いている。「こういう日もあるんだな」と、鞄を網棚に置いて、その下の席に座った。
舩馬洲駅のホームから電車が出ると街並みが見えた。先ほどまであれほど明るく賑やかだった街は、漆黒の闇が増殖していて電車も、その闇に呑み込まれそうな気がした。冬の夜空にはくっきりと無数の星が輝いていて、鋭く尖った三日月が星たちを司る神のように異常な光彩を放っていた。
舩馬洲は東京湾に面した港町で、風が海側から吹く日には街は潮の香りに満ちて、郷愁の念を抑えきれなくなることがあった。僕の故郷も港町だった。僕が乗る電車は港の反対側の北武台地を登って行く。
北武台地側は高圧線を抱えた鉄塔が無数に聳え立っており、車窓の左右には漆黒の闇にただ鉄塔の先に点滅する航空障害灯が空中に浮遊する人魂のように見えた。
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車窓からの闇に目を凝らしていると「こんばんは」と、いきなり声をかけられた。もともとこの土地の人間ではないので、この沿線に知人は少ない。誰だろうと声のする方をみると、異様に背の高い女性が前に立って見下ろしている。顔が黒く影になっていて潰れたように見える。よく見ると黒く潰れているのは、彼女の異様に長い髪の毛が顔を覆うように垂れ下がっているからだった。少し驚いた。サラサラと長い髪が僕の目の前で音をたてている。
「あ、こんばんは、ん…どちらさまでしょうか」聞いてみた。
すると、女性は僕の左隣にゆっくりと座って「うふふふ」と笑った。
隣に座った姿を見ると顔が見えない。今度は髪の毛で隠れているのではない。目がぼんやりと霞んでしまうのだ。(疲れているんだろう)目をゴシゴシとこすってみたが、目の前は靄がかかったようになっている。
「申し訳ありません、最近は年をとったせいか親しい人の名前も忘れてしまったりするんですよ」頭をガリガリと掻いた。そうは言うものの彼女の姿はボンヤリとしか見えない。声の感じからは20代のようにも思えるのだが…しかし、彼女は誰なんだろう。
「あのう、今、おかしいんです。目が急にボヤけちゃって、ですからお顔もよく見えなくて」
「ふふふふ…どうしたんでしょう、心配ですわね。お疲れなんでしょう」
「すみません…」
ー本当に思い出せない、この女性は一体誰なんだ。
「うふふふ」女性は笑ってばかりだ。
しばらく静寂…。車窓の景色を見る。電車は台地を登りきって平坦な土地を滑るように進んで行く。
ーそういえば、馬頭駅に到着するはずなのにどうしたんだろう…。
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その時、中年らしい男の声が聞こえた。
「オネエちゃん、こいつにはあんたが見えるらしいね」
「ふふふ、そうみたいよ。こいつが電車に乗る時には、いっつも側に寄り添うように取り憑いてやってるんだけど、今日まであたしが見えなかったみたいでさ、今日は見えてるみたいだから脅かしてやろうと思ってさ」
ー何だ、急に言葉遣いが乱暴になったぞ、見えるとか見えないとか、それに取り憑くってのは何の話だ」
「面白そうだけど、なんで、こんな貧相な男に取り憑くんだよ。若くていい男に取り憑きゃぁいいじゃねえか」
「こいつ弱々しそうだけど、あたしたちが見える能力があると思ったのさ。見えるんならちょいと驚かして暇つぶしにいいと思ってさ。ところがこいつ、今日まであたしが見えなかっただけじゃなくて取り憑いても病気にもならないんだよ。つまんないから今夜はホームから線路の上に突き飛ばしてやろうかと思ってたんだよ」
「そこまでしちゃあ、かわいそうじゃねぇか」と言いながら男性が右隣にドンと勢いよく座った。(乱暴な奴)まだ目の前は霞がかっていてよく見えない。
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ー何だ、こいつら…仲間か、もしかしたら強盗かな。見えるとか取り憑くってのは…。
「え…からかわないでくださいよ、何ですか、あなたたちは」
「あ、俺も見えるのか」
ー見えるって、横にいるじゃねえか。
「見えますよ、はっきりは見えないですけどね…」目をゴシゴシとこすってみる、
まだ見えない。
「ふふふ、そうみたいね」
「見えるのか、面白ぇな」
「あのぅ…本当に目が霞んで良く見えないし、こちらには知人がいないのです。年はとっていますが、これでも記憶力は良い方なので、一度お目にかかった方は覚えているんです。やっぱり、人違いではないでしょうか。もし僕が忘れていて失礼をしているならば、申し訳ありませんが、お名前を教えてください」
「ふふふふ」
「はははは」男女が嘲笑している。腹が立った。こっちは疲れているのだ。
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「あのね…」(バカにするな!)と叫んで立ち上がろうとした。そこで気がついた。僕の周りに男女の二人以外に人が集まって僕の顔を覗き込んでいる。十人以上の男女と幼児もいるようだ。その圧力を全身に感じる。しかし、相変わらず目が霞んでいるので彼らをはっきりと見ることができない。おまけに車内照明が暗い。すると…薄暗い車両の中で彼らは幻のようにゆらゆらと空中で揺らぎ始めた。
ーもしかしたら…。(ようやく気づいた)
ーこいつらは人間じゃない、化け物か…でもなぜ電車の中に…背筋が寒くなった。
「あはははは…ふひひひひ…あはははは…あたしたちが見える」彼らがこの世のものではない声で嘲笑った。恐怖心が全身に満ちて震えが止まらなくなった。膝が大きく震えて床に伝わってガタガタと音をたてる。
ーこいつらに取り憑かれでもしたら大変だ、そうだ、隣の車両に逃げよう。
立ち上がって、車掌がいる最後端に向かおうとしたが目が霞んでいる上に車内が暗いので自分の足につまずいて思い切り倒れてしまった。手をついて防ぐ間もなかった。バンと大きな音がして額が床にぶつかった。目の前をダラダラと滑った液体が流れ落ちた。(血だ)額が割れたらしい。
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目の中に血が入って痛む。ゴシゴシと瞼を擦りながら立ち上がろうとしたが腰が抜けているのか立ち上がれない。その時、血で目の霞が取れたのだろうか。彼らの姿がはっきりと見えた。彼らはいずれも見たことのない恐ろしい顔をしていた。足が無いのかユラユラと宙に揺らめきながらゆっくりとこちらに向かってくる。
「うわああああっ、化け物ぅっ」みっともない叫び声をあげた。立ち上がれないので、腰を抜かしたまま両手を左右にバタバタさせて後ずさりをして逃げる。ドンと背中に電車の壁が当たった。
「あたしたちは化け物じゃないよ、成仏できずに現世を徘徊する亡霊だよ」
ー化け物も亡霊も同じようなもんじゃないか。
「違うね」
「心の声も聞こえちまうのか」
「そうだよ」目の前にさっきの女性の霊の顔があった。
「うわわわっ」(その時気がついた)
ーそうだ、一番後ろの車両に乗ったんだ。運転席には車掌がいるはずだ。助けを求めよう。壁に後ろ向きで手をついて徐々に立ち上がろうとした。目の前には化け物たちがユラユラと迫っている。ようやく立ち上がれた。
最後尾の運転席を見ると車掌が後ろ向きに座っている。客車との壁を叩いて車掌を呼んだ。
「おおい、化け物だ、助けてくれぇっ、ここを開けてくれぇっ」自分でも驚くほどに大声が出た。声に気づいたのか車掌がゆっくりとこちらを振り返る。
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「車掌が振り返るとのっぺらぼうだったんだろ」友人のSがそう言って笑った。
「それじゃ、よくあるパターンで面白くないしあまりにも安っぽいじゃないか」僕は寝転がって天井の沁みを見つめた。
「で、実際にはどうだったんだよ」
「うん、それが気を失ったらしくて車掌の顔だけ記憶がないんだよ」
「気を失った」
「うん、実はさ、船馬洲駅の階段を駆け上がる時に踏み外して転んだらしいんだ」
「どういうことだよ、それ」
「転んで気を失ったらしいんだ、終電に乗り損ねてたってわけさ。電車には乗っていなかったんだよ」
「ええ、それじゃ…電車の幽霊ってのは…」
「気を失った時に見た夢だったってことだよ。車掌が振り返ったときに男の声が聞こえて、気がついたら船馬洲駅の駅員に揺り起こされてた」
「夢オチなのかよ、のっぺらぼうより安っぽいじゃねぇか、がっかりだ」
「まぁそう言うなよ、続きがあるんだ」
「ほう、聞こうじゃないか」
「その時に持っていた俺の鞄が終電車の最高部の網棚に乗っかってたんだよ」
「荷物だけ終電に間に合ったってのか」
「そうなんだ」
「お前は酔っ払っていてさ、一度終電に乗ったけど、何かを忘れて戻って転んだんじゃないのか」
「なるほどね」
「絶対そうだって、この世に幽霊なんているもんか」
「そうだよね」
「そうだよ…」と言ってSは 笑った。
ー違うんだ、俺は転んだ時のことを思い出したんだよ。階段で転んで意識が薄れていく中で俺の鞄を持って笑いながら電車に乗り込んで行く女を見たんだ。その女は電車の中で見た幽霊だったんだよ。
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