天使のバプテスマ

合評会2023年05月応募作品

藤城孝輔

小説

4,000文字

破滅派合評会2023年5月(テーマ「信じていない宗教に奉仕している聖職者が逃げ場のない深刻な事態に直面する話」)応募作。

ジェネラル・マネージャーがゴミ捨て場に駆け込んできた夜、又吉アンヘルは一日の最後の仕事であるゴミの分別をしているところだった。

「えー、又吉! ハネムーン・スイートの清掃担当はお前ヤーだったな? お客様から苦情が来てるぞ。とりあえず、ナマから一緒にマジュン謝りに行けるか?」

行けるか? と疑問文の体裁を取ってはいたが、ジェネラル・マネージャーの口調は決してアンヘルに有無を言わさないものだった。こういうときは、あらゆる作業を中断してマネージャーに従わなければならない。アンヘルは手に持っていたゴミ袋を元の山に戻してうなずいた。

清掃に関するクレームは大半が髪の毛か水滴のどちらかである。基本的に日本人の宿泊客はこの二点に関して特にうるさい。アンヘルは新人研修を受けていたころにも客から呼び出しを食らったことがある。そのとき問題だったのはベッドの上に落ちていた髪の毛だった。

「こんなんシーツの上に落ちてたで。なんやこのチリッチリの毛。ちん毛か? ほな、ここはショート1980円イチキュッパの場末のラブホか、えっ? われの頭に生えとんのも、ちん毛とちゃうか?」

一人でオーシャンビューのスペリアー・ルームに長期滞在していたその客はアンヘルを目の前にひざまずかせ、生まれつきウェーブのかかった髪を力まかせに引っ張った。横にいたジェネラル・マネージャーは見ているだけで一切止めようとはしなかった。じっさい髪の毛を部屋に残したのはアンヘルのミスだったし、客の怒りのはけ口にされるのも新人研修の一環だと考えていたのだろう。アンヘルは「申し訳ございません」を呪文のように繰り返しながら大荒れの台風が過ぎ去るのを待った。ようやく解放されたあと、ひりひり痛む頭皮を触ると指に血がついた。二十代後半の今、早くも頭のてっぺんがスカスカになってきたのは、AGAのせいだけじゃなくて当時のケガも一因かもしれないとアンヘルは考えている。

ホテルに就職してからの約十年間でクレーム対応のプロトコルはすっかり体に染みついていた。まずは謝罪。次にも謝罪。言い訳はせずに、とにかく謝る。どれだけ理不尽なクレーム内容でも、口答えはもってのほか。お客様は神様。神の怒りは気まぐれで不条理なものである。たとえお客様の誤解や勘違いに基づくクレームだったとしても、お客様自身が自分で間違いに気づかない限りホテル側の不備という前提で粛々と対応する。ホテルの目的はお客様に気分よく滞在してもらうことであり、批判や誹謗中傷はあくまで職務上の問題として処理してパーソナルには受け止めない。就業時間が終われば、その日一日の恨みや悲しみはアルコールで洗い流す。

だからハネムーン・スイートのお客様からたとえ何を言われようともアンヘルは決して動じない自信があった。起こしてしまったミスはもはやなかったことにはできない。一従業員としての残りの仕事は、お客様の気分が落ち着くまでひたすら謝り続けるだけだ。部屋替えだの割引クーポンだのお詫びのフルーツとシャンパンだのはホテルが責任をもって手配してくれる。

だが、ドアが開くと同時に深々と下げた頭を上げた瞬間、アンヘルを待ち受けていたのはアニメのキャラクターのように目を丸くして彼の顔を覗き込む若い男女の姿だった。美しく着飾った女性のお客様が窒息寸前の鯉みたいに口をパクパクさせながら言葉を発した。

「……し、神父様?」

 

そのお客様は午後に併設のチャペルで式を挙げた新婚夫婦だった。エメラルドの海が見渡せるガラス張りのチャペルでのウエディングがこのリゾートホテルの一番の目玉である。

「汝ワ、コノ女性ヲ妻トシ、生涯愛スルコトヲ誓イマスカ?」

「はい、誓います」

「汝ワ、コノ男性ヲ夫トシ、生涯愛スルコトヲ誓イマスカ?」

「はい、誓います」

「デワ、誓イノkissヲ。アーメン」

この二人に婚礼の誓約をさせた司式者は、外ならぬアンヘルだった。清掃作業以外にも「ガイジンジラー」を買われてホテルで式があるときに司式者の仕事をしていたが、ガイジン面は本当に顔と身長だけで地元生まれの地元育ち。ハーフではあったが父親はなく、家は代々トートーメーを受け継いできた祖先崇拝である。英語は喋れないので、ガイジン訛りもでっち上げだった。要望があればカトリックの神父にもプロテスタントの牧師にもなれたが、たいていの場合はどっちであろうと誰も気にしなかった。もちろんチャペルがキリスト教の礼拝堂として聖別されているわけでもない。そもそも熱心なキリスト教徒であれば、自分が普段通っている教会を差し置いてわざわざ高い金を払ってリゾート地のホテルのチャペルで式を挙げたりはしないだろう。あくまで大事なのはお客様を満足させることであり、アンヘルも式を盛り上げるキーパーソンとして自分の役割をわきまえていた。

「……お、お風呂場が濡れてたから、来てもらったんですが、なあ?」と、新婚夫婦の夫が言って妻の顔を見た。意表を突かれて戦意喪失といった様子である。

「そ、そうなんです。チェックインした部屋に入ってみたら浴室の風呂おけのなかに水滴が落ちていたものですから……」と、新婚夫婦の妻もしどろもどろになりながら説明を加えた。

アンヘルは横に立つジェネラル・マネージャーの顔を盗み見た。マネージャーもアンヘルの目を見て何やら合図らしきものを送っていたが、顔を痙攣のようにピクピクと引きつらせるばかりなので何を伝えたいのかよくわからなかった。とにかく非常にまずい状況であることは明らかだった。ここでアンヘルが清掃担当者として平身低頭して謝罪に徹すれば、クレームに対するお客様の怒りは収まるとしても教会で挙げた結婚式という幻想が崩れ去ってしまうことになる。新婚夫婦は、神父(正しくは単なる「司式者」だが)はニセモノだったという現実をまざまざと直視させられるわけだ。かといって、お客様の幻想を守るためにここで神父、いや司式者としての立場を押し通すとすれば、容易に頭を下げるわけにはいかない。結婚の誓約を与えた権威までもが謝罪とともに失墜しかねないからだ。

新婚夫婦は曖昧な薄ら笑いを浮かべて屹立し、ジェネラル・マネージャーは顔の筋肉がどこかってしまったらしく醜く歪んだ表情を顔面に貼りつけている。アンヘルの頭の内側では「えー、又吉!」と彼をどやすジェネラル・マネージャーの声や「ちん毛とちゃうか?」と彼を罵倒する関西弁の遠いこだまが暴れ回る。オーバーヒートを起こした脳が酸素を消費しつくす。考えるには酸素が足りない。圧倒的に酸素が足りなかった。

 

ふっと息が抜けて、体が軽くなった。

 

「オフロバ、ヌレテル? イイsignデス!」

両腕を広げ、ヒステリックに哄笑しながらアンヘルは叫んだ。

「新約聖書ニワ、コウアリマス。『バプテスマノヨハネガ荒野ニ現レテ、罪ノユルシヲ得サセル悔改メノバプテスマヲベ伝エテイタ。ソコデ、ユダヤ全土トエルサレムの全住民トガ、彼ノモトニゾクゾクト出テ行ッテ、自分ノ罪ヲ告白シ、ヨルダン川デヨハネカラバプテスマヲ受ケタ。ソノコロ、イエスワ、ガリラヤノナザレカラ出テキテ、ヨルダン川デ、ヨハネカラバプテスマヲオ受ケニナッタ。ソシテ、水ノ中カラ上ガラレルトスグ、天ガ裂ケテ、聖霊ガハトノヨウニ自分ニ下ッテ来ルノヲ、ゴランニナッタ。スルト天カラ声ガアッタ、「アナタワワタシノ愛スル子、ワタシノ心ニカナウ者デアル」』

水ワ汝ラノアラユル罪ヲ洗イ流シ、聖霊ノ力デ汝ラヲイエスニ導クデショウ。サア、オフロバニ来ナサイ。ワタシガ汝ラニモ、バプテスマヲ授ケマス」

立ったままで半分眠っているような状態になった新婚夫婦の腕を取り、アンヘルはゆっくりと浴室に導いた。そして、まずは妻を浴槽の前にひざまずかせた。蛇口の絞めが甘かったらしく、たしかに浴槽の底には水滴が飛び散っていた。だが、たかが水滴である。アンヘルが勢いよく蛇口をひねると水滴はすべて奔流のなかに消えていった。

アンヘルは女の後頭部をそっと押さえ、女の喉もとを浴槽のへりにつけて言った。

「神ヨ、コノ女ノ罪ヲ赦シ、イエスト同ジヨウニ聖霊デ満タシタマエ。アーメン」

黄金色に輝く聖水が女の頭に降りかかった。聖水はアンヘルの硬く勃起したペニスの先から放たれ、女の髪をびしゃびしゃに濡らすと頬を伝って女の鼻や口に惜しみなく入っていった。女は短い叫び声を二、三度あげ、ある種の麻薬的な高揚感に満たされたかのようにパクパクと口を動かした。彼女の夫は、ぼうっとした表情で自分の妻の顔にアンヘルの尿が浴びせられるのを見つめ続けた。

 

一週間後、又吉アンヘルはハローワークに来ていた。すぐにでも入れるのは肉体労働の現場くらいしかなかったが、そうわがままは言えない。彼の左頬には大きな黒いあざができていた。

正直なところ、あざを作ったときの記憶はおぼろげでしかない。彼を殴ったのはジェネラル・マネージャーだったかもしれないし、別の男かもしれない。とにかく、逃げ場のない深刻な事態だったことだけは理解している。自分が何をやらかしたかよく憶えていなかったが、どうしてもそれをする必要があった気がした。だからこそ、高校卒業から勤め続けたホテルを辞めたことをアンヘルはまったく後悔していなかった。

ハローワークの建物を出ると、五月の陽ざしに輝く雨が静かな音を立てて降っていた。

「ガイジンの兄さん、太陽雨ティーダアミやさ。傘持っていきなさいムッティチェー

出口のそばにある宝くじ売り場のおばあが差し出したビニール傘をそっと手で押しのけて、アンヘルは雨のなかに歩いて行った。地肌の透けて見える若はげの頭を温かい雨が濡らし、あざの目立つ頬からあごにかけて広がる栗色の無精ひげを伝って細かい水晶の粒のような滴がこぼれ落ちていく。草木に生命の恵みをもたらす五月の雨はあらゆるものを分け隔てなく祝福していた。

2023年5月15日公開

© 2023 藤城孝輔

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"天使のバプテスマ"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2023-05-19 21:45

    「神父様?」で大笑いしました。それも外人のアルバイトじゃなくて従業員がガイジン顔だからって兼業させるとは。その上、ハネムーン・スイートならうちのチャペルで式を挙げているかもしれないから、アンヘルを行かせるとまずいかもとは一瞬も思いつかない間抜けさ加減。にっぽんのリゾートの現実を見た思いです。
    テンパってわけのわからないことをやり出すのも良いです。ダイジンスィッチが入っていきなり言葉がカタカナになるのも笑いました。『デカメロン』にこんな話があった気がしましたが、おしっこじゃないものをかけていたかも。

  • 投稿者 | 2023-05-19 23:18

    おしっこネタは二回目でしょうか。自分もうんちやおしっこをうまく駆使したこういう作品を書きたいという念願を抱いているのですが、まさかお堅いイメージのFujikiさんにこういうものを書かれてしまうとはと愕然としました。改めてFujikiさんの文学的教養の深さに敬意を表したいと思います。

  • 投稿者 | 2023-05-20 10:34

    私も観光地のホテルのチャペルで挙式しましたのでニセ教会もニセ神父もビジネスとして立派な需要のもとに成り立っているということは痛いほど解ります。それにしてもアンヘルやっちゃいましたね。アンヘルを誰が殴ったかぼやかしているのが、ビジネスの需要という共益関係を壊すものへの圧力の匿名性を上手く表現していると思います。

  • 編集者 | 2023-05-20 23:52

    久しぶりの4000字フィニッシュで、とても吹っ切れた感がパないです。この調子で飛ばしていってください。ネクストステージに来ている気がします。

  • 投稿者 | 2023-05-21 10:46

    おしっこなんですね! 確かにおしっこも出ますもんね。
    読んでる最中に誰の作品か忘れたのですが、おしっこの所で慌てて作者名を確認して納得しました。
    信じてない聖職者! 結婚式の神父さんのバイトってそうですもんね。身近なところで具体的なのが出てきてしっくり来ました。

  • 投稿者 | 2023-05-21 11:31

    Fujikiさんがふっきれた?!
    シリアスなJuanさんとまた対象的に新しい一面を垣間見た気がして、すごく……すごかったです!

  • 投稿者 | 2023-05-21 11:36

    以前の作品でもしやと思って、今回の作品で確信しました。自分の性癖を開陳するお話し、良いと思います! 面白かったです。

  • 投稿者 | 2023-05-21 16:15

    宗教と糞尿で韻を踏めるが、今回はあまりに下世話な設定が多いのではないだろうか。よくない傾向であるが全く構わない。

  • 投稿者 | 2023-05-21 16:17

    「オフロバ、ヌレテル? イイsignデス!」
    ってこれ超怖いセリフですよね。いきなりね。これが六速に入った合図でしたね。一回ハンドルから手を離して、で、次の瞬間もう六速入ってましたね。

  • ゲスト | 2023-05-21 19:09

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  • 編集者 | 2023-05-21 19:31

    確かになんちゃって結婚式は雰囲気だけで行われているので、鋭い描写が光る。黄金色に。
    藤城さんが今回のお題でさらに突き進まれたようで、大変嬉しく思います。

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