リビングの方から母の声がしている。喉が腐ってほとんどノイズで聞き取れないが、俺を呼んでいるのはわかる。血縁の為せる業か。俺は窓の外から来るやつらを警戒して構えていた空気銃を床に置き、予備のボウガンと並べた。
自室からリビングへ出る扉を開けると、甘い腐臭がした。いわゆるゾンビ臭というやつだ。不快極まりないが、我慢できないほどではない。
「なんだババァ」
「なんだババァ」
俺の声に反応して、母が振り向いた。白目は黄色く濁り、瞳孔は開いて漆黒の闇を抱えていた。
「がんでもがいがー」
「がんでもがいがー」
歯が半分抜け落ちた口腔から気色の悪いノイズが吐き出されている。5mは離れているが、キツい口臭がダイレクトに俺の鼻腔を襲う。
「臭えんだよババァ」
俺は口汚く母親を罵った。これは生前からずっと言っていることだ。死後も何も変わらない。
母親だったそれは、すん、と黙り込み、繋がれたチェーンの弧を一定の速度でいったりきたりしはじめた。それがこの物体の基本動作だった。ずっと足を引きずって歩くので、床のカーペットがすり切れて芯材が露出していた。母自身の足裏もだいぶ傷んで緑色の汁が染み出していた。
半年前、母が死んだ。
朝食がいつまでたっても用意されないので、業を煮やして母の寝室を襲ったら、すでに寝床で冷たくなっていた。享年84歳。俺は50歳。俺には兄弟姉妹はおらず独身。起死回生を狙った就職活動も失敗し、父が遺した丘の上のこの家で母親の年金を頼りに質素に暮らしてきた。俺はいい加減そろそろこの実りの全くない人生に決着をつけるつもりでいたが、先に母が死んだのでは計算が狂う。
俺は計画通り、母の亡骸の口と鼻からスプレーのドライオキシン246をたっぷりと吹き込んだ。母だった死体はむくりと起き上がり、俺の朝食の支度をしはじめた。買い物には行かせられないので買い出しは俺が出ているが、それ以外の家事はこの母ゾンビがこなしている。世の8050の息子たちはみんなこの薬剤を使えばいいと思う。一度、市の職員が定期訪問にやって来たが、母には最近認知症の症状が出ていると伝えると、玄関先から遠目に母が動いているのだけ見て、お大事にとだけ言い残して去っていった。その後は電話連絡をたまに寄越すだけで、再度の訪問は受けていない。
訪問といえば何日か前に、母が参加していた老人会の和歌サークルのメンバーがやってきて、母が最近会合に来ないが、具合が悪いのか、と聞いてきた。俺がはあちょっとと言葉を濁していると、勝手に何かを察してそのまま帰っていった。お互い人前に出にくくなる事情がある年頃だとわかっているのだろう。普通の人間はそれ以上何も触れようとしないものだ。
だが、中には普通じゃないのもいる。翌日、同じサークルのメンバーだと名乗る老人がやってきて、一目会わせろとしつこく食い下がった。遠目にはわからなくても、相対したらすぐにゾンビだとわかるぐらいには仕上がっている母をそんな得体の知れない爺さんに会わせる訳にはいかない。その日は体調を崩してい寝ているから後日来い、と言って追い返した。何度か断るうちに、面倒になって来なくなるだろう、あるいは、母に避けられてるいると勝手に判断して距離を置いてくるだろうとも思っていた。俺は俺の人生が終わるまで、母の年金が順調に振り込まれれば、それでよかったのだ。
ところが世界は少し予想とは違う方向に動き出してしまった。
まず、梅田の地下街にゾンビガスが流入して、地下にいた数千人がゾンビ化した。一部生存者がいて救出が試みられているそうだが、時間の無駄だろう。報道では使用されたゾンビガスはドライオキシン246だと言っていた。うちにあるのと同じものだ。うちのはカセットガスのボンベ程度のサイズしかなく、数人のゾンビを作るぐらいしかできない。大阪ではどれほどの量が使用されたのか。そら恐ろしい話である。
横浜駅で使われたらこのあたりにも数日でゾンビがやってくる。そんなことになったら、俺が努力して維持しようとしている年金生活も破綻をきたすだろう。そんなのは嫌だ。なんとしても関西方面の壊滅だけで済んでほしいと思った。だいたい米軍は何をしているんだ。
ボローニャウィルスの対応に追われているさなかでのこの騒動に、民衆は大いに動揺し、混乱し、暴動を起こした。そのうち、暴徒の撃退にドライオキシン246を使うやつらが現れ、集団はそのままゾンビ化した。今、先頭集団が箱根を超えようとしているらしいが、アングラ掲示板の情報に信憑性はない。また、鹿嶋だか五井だか川崎だかのドライオキシン製造プラントが襲われて、さらに大量のゾンビガスが大気中に放出されたという情報もある。そういえば昨日あたりからSNSでの発言もだいぶ減ってきたように思う。テレビ番組もずっとACジャパンになっているし、もうすっかり日本中がやられていて、残るはこの近所だけだったとしても、意外には思わない。そろそろ母親の年金の不正受給にも疲れてきたころだし、ましてや今さら結婚して人生をやり直すなんて気力もない。だからこのままゾンビまみれの世界で、自分もゾンビになってぶらぶらしていても別にそれはそれでいいのではないかと思うのだ。
リンゴンと呼び鈴が鳴った。立て続けにリンゴンリンゴンと続く。やかましく厚かましく鳴らしてくるのはあいつだ。和歌サークルのサカキタ。あの爺さんに違いない。この状況でよくここまで来られたものだ。
「イサリさん! イサリさん!」
チェーンをかけたままドアに隙間をつくってのぞき込むと、やはりサカキタの爺さんだった。
「なにか御用でしょうか?」
「ホクト君にじゃない、マキコさんにだ。お加減はどうかね」
「ええ。まあお蔭様で。まだ臥せってはいますが、大丈夫です。お気遣いなく」
「そうかね。ちょっと話がしたいんだが、携帯電話も出ないんだよ。取り次いでもらえないだろうか」
「なにか御用でしょうか?」
「ホクト君にじゃない、マキコさんにだ。お加減はどうかね」
「ええ。まあお蔭様で。まだ臥せってはいますが、大丈夫です。お気遣いなく」
「そうかね。ちょっと話がしたいんだが、携帯電話も出ないんだよ。取り次いでもらえないだろうか」
サカキタは拝むしぐさをして、笑みを浮かべた。なるほど愛嬌のあるジジィだ。そういえば母との会話に何度かサカキタ氏の名前は出ていたな。以前から色目をつかって言い寄っていたのか。こんなやつに会わせたら絶対に面倒なことになる。冗談ではない。
「おいでになったことを話しておきますので、今日のところはお引き取りください。ここにもゾンビが来るから早くお帰りになったほうがいい」
「あ、ちょ、待っ……」俺はドアを閉じ、わざと音を立てて施錠した。
「おいでになったことを話しておきますので、今日のところはお引き取りください。ここにもゾンビが来るから早くお帰りになったほうがいい」
「あ、ちょ、待っ……」俺はドアを閉じ、わざと音を立てて施錠した。
サカキタがなにか叫びながらどんどんと扉を叩いているが、無視してリビングに戻った。見ると母の右目がぶらりと垂れて、胸元まで落ちていた。俺はそれを拾って眼窩にはめ込んでやった。眼球はぐるぐると回ってなんとなく焦点があってそうなところで止まった。
「ぼぐどじゃんばんごはんなににずる?」
「あ? 晩飯? それどころじゃないだろババァ」
「ぼぐどじゃんばんごはんなににずる?」
「あ? 晩飯? それどころじゃないだろババァ」
俺は苛ついて亡母を引き倒した。つい力を入れすぎて、左腕が外れしてしまった。
「くそ」俺は外れた腕を元の場所に押し込んで戻して、手に付いたゾン汁をその辺の布切れで拭った。手の匂いをかぐとやはりゾンビ臭がして、ちょっとえづいた。
「くそ」俺は外れた腕を元の場所に押し込んで戻して、手に付いたゾン汁をその辺の布切れで拭った。手の匂いをかぐとやはりゾンビ臭がして、ちょっとえづいた。
背後の窓が強く叩かれた。バンバンバンと叩く方を見るとサカキタがダスティン・ホフマンばりに窓にへばりついてなにか叫んでいる。
「まっこさーん! まっこさーん!」バンバンバン
「まっこさーん! まっこさーん!」バンバンバン
めんどくせえのが来た! お袋がそっちを向いたら見るからに明らかなゾンビ顔が見えてしまう。それはまずい。年金の不正受給がバレるじゃないか。
俺は、爺さんに向かって静かにするようにジェスチャーしながら、スプレー缶を掴んで後ろ手に隠し、レースのカーテンをめくり、クレセント錠を開けた。サカキタの爺さんが強引にサッシを開けて中に踏み込んできたので、顔にドライオキシン246をたっぷり吹き付けてやった。
サカキタは「がふあなにをする! なにをかけた! いたっ痛い、痛い、あががが」などと喚き散らすと、ひざから崩れ落ちて激しく咳き込んでいたが、そのうちぐったりしておとなしくなった。
まったく手間を取らせやがって。貴重なゾンビスプレーが無駄になったじゃないか。
とりあえず、俺は意識を失くした新ゾンビをダクトテープで縛り上げて、窓際に転がしてやった。窓から誰か入ってきたときに、つまづいてくれたら多少の役にも立つというものだ。転がしながら、なにか武器を持ってきていないかサカキタのポケットをまさぐる。
「ん?」
胸ポケットになにか紙切れが入っている。引っ張り出してみるとそれは婚姻届で、サカキタの名前とお袋の名前が書かれていた。保証人には町会長の名前がある。和歌サークルのボスだ。なんだこいつお袋と再婚する気だったのか。キメえな。
「ぼぐどぢゃんだれがぎだの」
「ぼぐどぢゃんだれがぎだの」
脳まで腐っているはずの母が、来訪者の心配をしている。あんたのダーリンが来たようだが、一緒にゾンビにしといてやったから末永くお幸せにな。もしこいつらをゾンビ化していなかったら、ここは熟年新婚カップルの巣になり、自動的に俺は追い出されるはずだった。やれやれ。
「まっござーん」
「まっござーん」
後ろから声がした。丸太がなんかしゃべっている。芋虫みたいに這いずり回りながら、爺さんは想い人の方へとにじり寄ってきた。顔は青く、体液は緑色だ。
このご時世に自宅に二体もゾンビを飼うのは面倒だ。こいつは解体して崖下に撒いてしまおう。とそこで俺は手にしていた婚姻届を思い出した。
「なるほどそうか」
俺は母とは逆の側の壁にチェーンを埋め込み、サカキタをつないだ。ちょうど手が届かない距離につなぐと、一番近いところで二人の動きがぴたっと止まった。これはいい。床も減らないし鎖も傷まない。俺は適当な封筒に婚姻届を入れ、ボウガンとナイフを装備し、軍用ブーツを履いた。ここから区役所まで約2km。路上をさまよう死体を避けながら婚姻届を提出するのだ。これが俺のファイナルミッション。行くぞ。年金倍増のために。
THE END
諏訪真 投稿者 | 2023-03-21 22:12
往年の名作(あるいは迷作)の某ゾンビ映画の小道具が出てきて、私には非常に刺さりまして。
1作目のゾンビは鬼のようにタフで(既に死んでいるのだから死にようがないという謎理屈の説得力)、2作目は一転して紙のように脆くなったり、シリーズ通してゾンビの設定が毎回変わるのは、まあゾンビ映画だしで片付けられるとして。
この主人公、本当にムカつきますね。(非常な褒め言葉
諏訪靖彦 投稿者 | 2023-03-24 18:39
相変わらずの速さでサクサク読めてとっても面白かった! 最低な主人公なんだけど親の年金を頼って生きてる中年は結構いるみたいですね。お袋の年金がもらえなくなる可能性からの一発逆転、年金倍増計画が成功するといいですね。
大猫 投稿者 | 2023-03-24 23:37
名人芸ですね。
世界が悲劇的で壮大な崩壊を始めているさなか、親の年金しか頭にない地に足のついたみみっちさ。ゾンビになってもバカ息子の世話を続けるおっかさんと言い、人類滅びる時ってわりとこんなもんなんじゃね?と思わされました。サカキタさんの純愛がわずかな救いですが、彼にも年金すねかじりのバカ息子娘がいるんじゃないかと想像して一人で笑いました。
黍ノ由 投稿者 | 2023-03-25 16:38
ゾンビとして蘇ってすぐさま50歳の息子のための朝食を用意するお母さんの姿を想像するとやるせないですね。
腕が外れちゃうけど、押し込むと戻せたりとか、「ゾン汁」、ゾンビの「先頭集団」とかのツボを刺激される表現がちょいちょい出てきて面白かったです。
松尾模糊 編集者 | 2023-03-25 20:10
どこまでも冷徹で現金でも、なぜか憎めない感じがいいですね。とてもリーダビリティも高くて感心します。
曾根崎十三 投稿者 | 2023-03-25 21:52
職人芸ですね。Twitter漫画くらいサクサク読めました。面白かったです。
梅田の地下街がやられてしまった……梅田の地下街が……となりました。
第三者(しかも年金不正受給しか頭にない)から見た老人の純愛! 良いですね。ゾンビの話なのに躍動感のある速い小説でした。ラストの躍動感も好きです。「笹食ってる場合じゃねぇ」くらいの躍動感を覚えました。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2023-03-27 00:36
8050問題が他人事ではない、いまそこにある危機である無職中年としては思い切りぶっ刺さる作品でした。ただ当事者から言いますと、両親ではなく自分こそが生ける屍であるように感じています。こないだの教授を刺した犯人も、自分をそう感じていたのではないかなあと推察します。
退会したユーザー ゲスト | 2023-03-27 01:05
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小林TKG 投稿者 | 2023-03-27 09:45
ゾンビになってもご飯とか作るんですねえ。どんだけ好きでも、無理だなあ。ゾンビになってまで他人、他人じゃないけども、でもまあ、もう他人だよな。他人のご飯作りたくないなあ。あと、床も減らないし鎖も傷まない。っていうのが最高に好き。
Juan.B 編集者 | 2023-03-27 19:14
目の付け所がシャープ。ゾンビ化社会の下でも生きなければならないのだから、年金のために戦うのは正しい。
Fujiki 投稿者 | 2023-03-27 20:41
無職や引きこもりの子どもの行く末が心配で死んでも死にきれないという親は実際いるので、ゾンビになってセカンドライフというのは全然ありだと思う。凄惨な家庭内暴力がゾンビだと妙に笑える。