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トマ・プランス

ポーランド・ドイツ紀行(第5話)

一希 零

神奈川文芸賞2022、1次審査通過作(19/374)。

小説

11,753文字

画面に並ぶ女性の写真を眺め、気になったらタップする。ポイントを使って「いいね」を送りつけると、何人かが「いいね」を返してくれた。複数の女性とマッチングし、マッチングした女性のうちの何人かとメッセージのやりとりをして、上手いこと話が進めば会う約束を交わした。彼女は、そうやって実際に会う約束まで辿り着いた貴重な一人だった。一月前に横浜へ引っ越して来た社会人一年目だという彼女に、僕は高校までずっと横浜で生まれ育ったと伝えた。横浜を案内する、と明言することは慎重に避けつつ、横浜でデートをする予定を取り付けた。

一時間弱電車に揺られた。川を渡った。二回乗り換えをして、みなとみらい駅に着いた。電車を降りると聞き覚えのある音楽が流れ、電車の扉が閉まった。聞き覚えはあるが、曲名を思い出せない。人混みの末席に加わり、エスカレーターに乗った。東京と横浜とでは、人々の着ている服装や髪型に僅かな傾向の違いがあるように思ったが、それが何かはわからなかった。勘違いや偏見かもしれない。トイレへ行き、用を済ませ、念入りに手を洗った。鏡に映る自分を観察し、ジャケットのラペルが裏返りかけているのを直した。インナーのシャツに皺がないことを確認した。改札を出て、地下の通路をいくらか歩き、地上に出た。天は青く、大きな夏雲がひどく緩慢に移動していた。スマートフォンをポケットから取り出し画面をタップすると、十二時五十分を示していた。三分あれば待ち合わせ場所に着く。余裕はないが、時間はある。

二十七歳になっていた。すぐに三十歳になるだろうが、まだ三年程はある。高校生だった自分は十年前の存在となった。高校まで横浜で生まれ育ったというのは小さな嘘だった。実家は鎌倉で、小中と鎌倉の公立高校に通い、高校を横浜市内の私立に通っていたというのが事実だ。歳を重ね、経験し、適度に嘘を混ぜて自分の見られ方を多少調整するくらいはできるようになった。十年前の自分と随分と違う人間になってしまったと思うが、しかし、よくよく振り返ってみると、過去の自分と今の自分は間違いなくひとつの線で結び付けられることに気がつく。僕は今も昔も変わらない。昔よりは、自分のことを理解しているだけだ。当時自分が認識していなかった自分を、十年かけて認めるに至った、と言えるかもしれない。

千葉の大学を卒業し、東京の有名企業に勤めている僕は、パートナー探しのために土日の時間を使っていた。今日の結果次第で、明日以降の予定も変わってくる。十年前の僕は十年後の今の僕を想像できなかっただろう。パートナー探しに苦労していることにではない。積極的にパートナー探しを行なっていること、品質の良いジャケットを身に纏い、ヘアワックスで髪をセットしている自分を驚くに違いない。塵ひとつ付着していない黒の革靴を軽妙に踏み鳴らして歩きながら、一軒の洒落たカフェに入る。マッチングアプリを立ち上げ、会う相手の情報を一通り再確認する。アイスコーヒーを注文する。窓から店外の景色に目を向ける。ランドマークタワーがそびえ立っていた。久しぶりに横浜へ来たことを実感する。

僕は駅で流れていた曲を思い出した。電車の発車前に流れたメロディー、あれは横浜市歌だった。高校時代、いつも友人がカラオケで歌っていた。どんな歌詞だったか。記憶を頼りに言葉を手繰りよせようとする。無意識に口が開きかけた時、店の扉が開き、一人の若い女性がやって来たのが見えた。彼女の姿を隠すように、店員が目の前に現れ、アイスコーヒーをテーブルの上に置く。

 

 

「とま屋って、この歌に出てくるとま屋のこと?」僕は言った。

「知らなかったんだ。なんだと思ってた?」彼はそう言いながら、マイクを僕に渡した。

「富岡だから、とま屋?」

「いや、合ってないじゃん」

「とま屋ってどういう意味?」

「粗末な小屋」

「富岡くんって」

「貧乏なのよ。家ぼろいし」

その言葉に対し、僕は何か返事をしようと思ったが、イントロが流れ始めたため、カラオケに集中することにした。

お互い部活動に入っていない僕らは、放課後によく二人でカラオケへ行った。エグザイルの曲を数曲歌った後、彼が入れた曲は横浜市歌だった。当たり前のような顔で歌っていたが、僕はその歌を知らなかったし、一体なぜ彼がその歌を歌う必要があったのか理解できなかった。リアクションに困った僕は、デンモクにひたすら視線を向け、自分の歌う曲を選んでいた。ドリンクバーで持ってきたカルピスソーダは氷がほとんど溶けて、白が透き通っていた。

歌い終わった富岡くんは僕の微妙な反応を見て、「もしかして、知らない?」と言った。「普通、知っているものなの?」と僕は言った。「横浜市民なら当然」と彼は口にし、「そっか、鎌倉だったか」と呟いた。僕は「うん。まあ、鎌倉にも何かしらの歌があったとして、知らないけれど」と答えた。それから、ふと、彼が歌っていた歌詞に出てきた言葉を思い出し、聞いたのだ。「とま屋って、この歌に出てくるとま屋のこと?」と。

富岡くんは「とま屋の王子さま」「とま王子」「トマ・プランス」などと学校で呼ばれていた。品行方正、美少年、成績優秀、スポート万能という完璧超人だった。彼に笑顔を向けられて良い気持ちにならない女性はいなかった。特定の部活に所属していないが、あらゆる部活動から助人で試合に出るよう頻繁に頼まれていた。テストでは学年十位以内をキープし続け、教師からの信頼も厚かった。唯一の欠点は、彼が決して裕福な家庭の生まれでないことくらいなのだろうが、それも欠点というより、むしろ彼のいくつもの長所をより輝かせるスパイスのような作用を果たしていた。彼にはいつもライトが当たっていた。彼は常にクラスの中心にいて、クラスメイトは彼を取り囲んでいた。

とま屋、という言葉を理解していなかった僕は、彼の呼び名を単に完璧超人を意味するものとして認識していたが、意味を知り、侮辱的な響きを持つ呼称を憂いた。富岡くんはそれも否定した。「カラオケでいつも歌っているからね、横浜市歌を。それがあって、とま屋なんだ。まあ、貧乏なのも確かだけど」彼は笑いながらそう言った。彼が気にしていないのであれば、それでいいと思った。呼ぶ側も、蔑称というよりは、ガラスのエース的な、ある種の欠点すら魅力に変えてしまう存在であるということを表現したかったのかもしれない。彼のあだ名について深く考えることは、以来やめた。

「その靴袋、また依頼の?」ペン回しみたいにマイクを回しながら、彼は僕に尋ねた。

「うん。サッカー部の相澤」デンモクを元の場所に片付けながら、僕は答えた。

「あいつ、大事な試合前は、手入れを君に頼むんだ。自分でやれよ、って最初は思ってたけど、君の腕を信頼しているんだよな」

「サッカーのスパイクは、他のスポーツのシューズと性質が違う。靴であると同時に、ラケット的な役割も担う。人工素材やカンガルーレザーなど、種類が豊富な上に、使用による変化がとても大きい。個人差も顕著で、興味深い」

「ほんと、好きなんだな」

カラオケ店を出ると、僕は靴袋を抱えながら、富岡くんは自転車を押しながら、二人並んで歩いた。ビルの隙間に夕日が落ちていった。氷が溶けて滲むみたいに、夕日の橙色が空に広がり、青を変色させた。それらの光景に何となく視線を向けながら、僕らは止まない雨のように会話を続けた。僕らは仲が良かった。彼とは違い、僕はイケメンでもないし、勉強も運動も並かそれ以下だった。友達も少なかった。親密な関係を築いた相手は、僕にとって彼のみだった。僕らの間に共通する趣味も特にない。僕は横浜市歌を知らない鎌倉市民で、彼は横浜を愛する横浜市民だった。

駅の前で彼と別れた。構内には多くの人が様々な方向へ向かって歩いていた。学生やサラリーマンの革靴の音が、屋根に打ち付ける雨のように辺りに木霊する。季節や時間帯によって音は変化する。靴の種類の比率が変化するからだ。電車に揺られ、帰宅する頃には、夕日は世界から姿を消している。家に帰るとシューズケースを玄関に置き、一度部屋へ戻ってスクールバッグを下ろし、制服から部屋着に着替え、再び玄関へ戻る。シューズケースを開き、サッカーのスパイクを取り出す。

サイズは二十七、黒色のカンガルーレザーのシューズで、紐は赤色だった。グラウンドの土がこびり付き、汗や雨を吸い込み、革は硬く、重くなっていた。皺が幾重にも入り、乾燥していた。シューズキーパーを使っていないため、スパイクの形状は横に広がって潰れ、親指のつま先の辺りが擦れて穴が開きそうになっていた。裏面は踵の内側から摩耗し、ポイントが短くなっていた。一通り確認すると、袖をまくり、ブラシとクリーム、布を用意する。スマホでスパイクの現状の写真を撮った後、まず靴紐を外してゆく。

© 2023 一希 零 ( 2023年2月6日公開

作品集『ポーランド・ドイツ紀行』第5話 (全7話)

ポーランド・ドイツ紀行

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