打懐鉄槌

松尾模糊

小説

5,570文字

幕末江戸市中騒動図(伝細谷松茂画/東京国立博物館蔵)
鳴門市に所縁あるモダニズム建築家、増田友也と技術実習生についての話。

赤黒く錆びついたハンマーヘッドを年季の入ったコンクリート壁に打ちつけると、小さなコンクリート片を飛ばして壁に亀裂が入った。もう一度打ちこむと、さらにコンクリート片が散らばり亀裂が大きくなって、そこから枝葉のように新たな小さい亀裂が走った。初めは重くてよろめいて思った箇所にハンマーヘッドを当てられなかったが、慣れてくるとより打ち込む間隔が狭まり、ひび割れは巨大な樹木のように広がってコンクリートに穴が開き、赤黒い鉄筋がむき出しになった。

「そうです。ダイブ上手くなった」後ろで心配そうに見守っていたタレスは破顔した。彼が笑ったところを見たのは初めてだった。

「ほ、ほんとに? やったね!」もう一度大きく振りかぶろうとしたら、スルっと軍手の先から持ち手が抜けてボンっとハンマーが地面に落ちる鈍い音がした。

「よそ見したら危ない!」タレスは落ちたハンマーを両手で持って、眼前に差し出した。腕まくりした白いロングTシャツから出た両腕の外側に痛々しいみみずばれが何本もはしっている。

「ご、ごめん……今度はタレスが手本を見せてよ」

「よく見ていて……」タレスは右手の人差し指と中指を自分の両目に差して、こちらに向ける動作を繰り返した。すっと力を抜くようにハンマーをぶらりと下に向けて、振り子のようにハンマーヘッドに弧を描かせてコンクリート壁にぶつけた。ドシンと鈍い音が腹に響いた。もう一度、二度、三度、ハンマーヘッドが壁に打ちつけられるたびにタレスの表情は無に返っていくようだった。

 

鳴門市を訪れたのは、モダニズム建築家の増田友也が手掛けた公共施設――増田建築群と呼ばれる――で老朽化し取り壊しが決定したものが解体される様子を、写真に収めておこうと思い立ったからだった。最初に向かった鳴門市庁舎と、併設する鳴門市民会館には、すでに赤いシャベルカーがその鉄の爪を立てて、屋根と外側の一部を除いてほぼ取り壊されていた。なんとか全景を捉えられないかと、回りこんでファインダーを覗いた。そこにタレスはいた。革ベルトで打ち据えられた、悲痛な表情を浮かべて。はじめは作業員がそこにいても不思議はなかったし、気に留めなかった。だけど、どうせなら人間と建物を一緒に撮りたいという欲から、倍率を上げたレンズが違和感を捉えた。ファインダーから目を逸らしてどうすべきか、面倒にしかならない予感にため息が出た。足元にあった石を拾い上げて足場の方に投げつけた。カンっと乾いた音が響いて、作業員たちが散らばったのを確認しつつ走り去った。

翌日もタレスは虐められていた。岡山で技術実習生が暴力を振るわれる動画が拡散されてニュースになった今なら、彼も同じ境遇にいると分かっただろう。よそ者である自分がどうすればいいのか、思いつかなかった。考えた末に、彼らの作業終了を待って本人に話しかけるという結論に至った。

「こんばんは」怪訝な表情を浮かべるタレスにできるだけ警戒心を解いてもらおうと、マスクを外して笑顔を見せ、自販機で買っておいた缶コーヒーを彼に差し出した。

「日本語で大丈夫ですか?」タレスがコーヒーを受け取り、頷いたのを見て安堵した。グエン・クマ・タレスと彼は名乗った。技術実習生としてベトナムから来日したこと、デザインを学ぶために建築事務所を希望したものの解体の現場をあてがわれたこと、隈研吾に心酔していてミドルネームをクマに変えたこと、幼い妹弟と母親の生活費を仕送りするために簡単には帰国できないことなどを聞くことができたが、虐めについて直接は語らなかったし、聞けなかった。しかし、増田友也の名を出すと、彼は途端に表情を緩めて日本語で――ときに英語を交えていたが私は文脈から理解できた――とめどなく語り続けた。

 

鳴門市民会館は、やはり屋根の部分、波を思わせるような形状とマリンブルーの塗装が格好いいですね。鳴門市には、一九六一年から八一年の間に京都帝大出身だった当時の市長・谷光次が、京都大学に市の公共施設の建築を依頼してから、そこで教鞭をとっていた増田によって一九ある建築群が建設されました。竣工から五〇年近く、改築する予算はなく、ここのように取り壊しの決まったものもあります。コンクリート建築は老朽化と耐震の観点から保存が難しい状況になっています。その点では日本の宮大工、木工建築はとても優れていますね。でも、関東大震災とアメリカ軍による焼夷弾の被害は、その歴史を大きく変えてしまった……。

 

グエン、あれ持ってきて! アレ? あ? 日本語わかってんだろ! 日本ナメてんの?

 

「この辺りには共済会館、勤労青少年ホーム、老人福祉センター、文化会館と彼が手掛けた施設が密集しています。よければ、一緒に回りませんか?」寂しそうに崩れ落ちる瓦礫に縋るように残った、鳴門市民会館のマリンブルーの天井部を眺めるタレスを励ますつもりで声を掛けた。ところが共済会館も解体工事が進んでいた。市民会館から南へ歩いてすぐに現れる二階部分と陸橋で歩車分離された箱型RC造の共済会館は、市民会館とは趣の違う強固な印象を与えるはずが、足場に覆われて瀕死の状態だった。これでは逆効果だったか。心配する私をよそに、タレスは話し始めた。

 

この裏側は窓の外側にルーバー、日除けですね。コンクリートの大きい枠組みを取り付けたルーバーの構造になっています。この形はブリーズ・ソレイユと呼ばれます。ル・コルビュジエがネーミングして彼の建築でも多く見られます。

「コルビュジエはお好きですか?」うーん、と返事に困っているとタレスは頷いた。コルビュジエが代表作≪サヴォア邸≫を建てるより前に、モダニズム建築の先駆け的な傑作≪E-1027≫を設計したアイリーン・グレイは、彼女がインテリアデザイナーとして大成していたこともあり、徹底した過ごしやすさ、機能性と快適さを合わせた、人が暮らす場としてのデザインを大切にしていました。それは、増田が目指した哲学としての建築にかなり似ています。「家は住むためのマシーンだ」というコルビュジエが定義した五原則「ピロティ(支柱によってできる空間)」「屋上庭園」「自由な平面構成」「横長の窓」「自由な正面構成」という外観と空間に重点を置いた思想は、グレイと最後まで相容れなかった。でも、なんと言うのかな、彼女の正しさはコルビュジエが≪E-1027≫に入り浸り、グレイに内緒でサイン入りの醜悪な壁画を残した、幼稚な嫉妬を思わせる落書きや、彼が≪E-1027≫の建つコートダジュールの海岸で溺死してしまった事実が物語っています。

 

おつかれさまでした。 おい、なに勝手に帰っとんか! え? え、じゃねえ! おい、こいつ吊るせ! ちょ、やめてください! やかましか! 口で言ってもわからん奴には体で教えなな。

 

そこから南西に歩いて撫養川の流れる岸に面した撫養川親水公園の中で存在感を放つ、それぞれ一九七五年、七七年に竣工した勤労青少年ホームと老人福祉センター――二〇一七年に二つの施設を併合し鳴門市健康福祉交流センターとして開館した――へと向かった。歩きながらベトナムの建築について聞いた。

「ベトナムは北と南でカルチャーが違います。チャイナから影響を受けたテンプル建築や、インディアの影響を色濃く残すストゥーパ建築でイメージされています。その後フランスの植民地になり、ヨーロップの近代建築が都市にできて、さらにベトナム戦争で多くの建物が壊されました。今は≪ファーミング・キンダーガーデン≫や≪ウィンド・アンド・ウォーター・カフェ≫の、日本で建築を学んだヴォ・チョン・ギアなどがフェイマスです」不勉強で全くイメージできなかった自分を恥じていたところで、撫養川からの爽やかな風が目的地への到着を知らせていた。RC造の堅固なイメージを覆すような、丸みを帯びた柔らかさを感じさせる外観に見惚れる。

 

増田の建築論に大きな影響を与えたのはマルティン・ハイデガーです。ハイデガーは一九五一年に、コルビュジエをはじめ、モダニズム建築を牽引する建築家が腕を競ったダルムシュタット建築展のスピーチ『建てること、住むこと、考えること』でバウエン、「建てること」について言っています。タレスは作業着のポケットから本を取り出した。付箋がたくさんついている、その本を開いて指を走らせた。仏語の本らしかったがハイデガーの著作だろう。彼は難解な言葉を並べていった。

 

そこでは「建てることは、すでにそれ自体、住まうことである」と言っています。「住むとは、死すべき者たちが大地のうえに存在するその仕方である」、「〈大地のうえに〉ということは、〈天空のしたに〉ということをすでに意味している。この両者は〈神的な者たちの前にとどまること〉をともに指示し、〈人間たちの相互共同性のうちへと帰属して〉いることを含意する」と大地・天空・神々・人々、「四者のこうした一重の壁を、われわれは〈四者の会域〉と呼ぶ」とハイデガーの命題を打ち立てています。そして、「大地を救うことにおいて、天空を受け取ることにおいて、神的な者たちを期待することにおいて、死すべき者たちを同行とすることにおいて、住むことは〈四者の会域〉を四重に思いやることとして保つ」とし、住むことは人間の実存そのもので、建てることはそこに根ざしていなければならず「家は住むことによってはじめて家になる」と。増田も空間から景観、そして存在そのものへとその思想を展開しました。ここにはもともと三つの建物があったわけですが、どれも広場を通して一つの空間、この撫養川むやがわに寄り添う景観としての建築が実現しています。

 

鳴門市健康福祉交流センターと対を成すように、広場を挟んで建つのは増田の遺作となった鳴門市文化会館だ。ここも四月に閉館して耐震化を含む大規模な改修工事が行われる予定だった。

「対岸から望むファサードは美しいです。向こうに行きましょう」タレスがそう言って、私たちは文化会館の南側に架かるうずしお橋を渡った。タレスは傾く夕日の方に右手を翳して静かに語り始めた。

 

増田の建築は光を取り入れた設計に定評があります。垂直に連なるブリーズ・ソレイユが素晴らしい。川に反射する光の揺れはまるでそれを取り込む建物自体が呼吸するように感じるでしょう。それに、その前に突きでた、両端が曲線状にせり上がるキャノピーがとても美しいです。増田は淡路島に生まれて、幼少期は瀬戸内海を望む景観の中で過ごしています。その記憶は彼の遺作となった鳴門市文化会館の設計に見られます。なんと言うのかな。平清盛が作った厳島神社の本殿、穏やかな海に浮かぶような荘厳さを感じさせつつ、場所として「開かれた」自然の景観に溶け込むような配置と外観、まさに増田の最高傑作と言っていいでしょう。ハイデガーや禅の思想へと増田が傾倒していったことを考えれば、増田の手掛けた鳴門市の公共建築が丹下健三、安藤忠雄、磯崎新といった日本モダニズム建築のメインストリームで、忘れられようとしていることは悲しいですが……増田の哲学が息づいている証拠かもしれません。

 

「帰ろうかな……」「なんかあったの? コロナ?」「いや、別に。みんな元気?」「うん。みんな、あんたの送ってくれたスナックに夢中だよ、ありがとね」「いや、そのくらい気にしないで」「あたしの身体がもう少し丈夫ならねえ、お金は必要ないんだけど……」「大丈夫、何も心配ないから」

 

タレスは、撫養川と新池川しんいけがわの交わる岸辺に建つ文化会館に視線を送りながらいつまでも佇んでいた。

「写真を撮りましょう」リュックから脚立を取り出してカメラをタイマーセットした。データを差し上げますよ、と言ったが、彼は現像して送ってほしいとメモ帳を取り出して滞在先の住所を記した。翌日、私は彼の現場を覗いた。ちょうど昼時でタレスは市庁舎の現場に私を招き入れた。そこでハンマーを手渡して、コンクリート片を記念にと手渡してくれた。私はその二ヶ月後、彼を写した写真と、ちょうど桜が美しく映える隈研吾が設計した埼玉の所沢にある≪角川武蔵野ミュージアム≫の写真を添えて簡単な手紙を送った。その返事が来たのは、三ヶ月ほど経った暑さの厳しいときだった。

 

A testament

 

ニホンノコトハダイスキデス。デモ、モウタエキレナイ。ベトナムニイルカゾクニアイタカッタケド、ココハデルノモハイルノモタイヘンデス。アナタカライタダイタシャシンハオカエシシマス。ソノカワリ、オネガイガアリマス。シャシントテガミヲワタシノカゾクニオクッテホシイ。

 

その後にはベトナムの住所とベトナム語で家族に向けたメッセージが便箋四枚に渡って書かれていた。すぐに彼の滞在先を訪れた。しかし、彼はもうそこに居なかった。それから新聞やニュースを欠かさずチェックしているが、岡山のニュースや熊本で双子を死産した技術実習生のニュース以外に、ベトナムの技術実習生が自殺した、もしくは死亡した記事はまだ発見できていない。別れ際に手に持たされた小さなコンクリート片は、玄関の壁にあるニッチに置いてある。彼の遺書もそこに立てかけたままベトナムに送れずにいる。マンションを出る度に思い出すのは、彼の両腕に残った生々しい傷跡と、コンクリート壁をハンマーで打ち込んだ手の感触、そしてコンクリートを無表情で打ちつづけるタレスの姿である。

 

参考文献:『ハイデッガーの建築論―建てる・住まう・考える』マルティン・ハイデッガー著、中村貴志訳・編(中央公論美術出版)

2022年7月31日公開

© 2022 松尾模糊

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