病院は清浄でつまらないところだ。新しいことが何も起きないし、暮れても明けても目にするのはいつも同じ壁や人。それが僕の体には何より必要だと言われたので受け入れたが、断る理由が特にないからそうした、ただそれだけのことだった。
「無理させちゃいけないと、きみの主治医に散々説教された」
二週間ぶりに病室を訪ねてきたお父さんは、側の椅子を引き寄せ腰を下ろすなり、子供のように言った。あの後に受けた血液検査の結果がよくなかったらしく、しばらく絶対安静になったのは無茶な任務のせいだと随分怒られたらしい。
「無理してない。楽しかった」
本心だった。外に出られるのは楽しいし嬉しい。こんなところにいつまでもいたら、無駄に生きて兄さんを益々困らせてしまう。理由がないと外出の許可が下りないから、仕事がなくなったら死ねなくなってしまう。
「きみには悪いけど、ここは煙草が吸えないから早めに帰るよ。今度また屋敷でゆっくり話そう」
お父さんは残念そうに言った。この人に病室は似合わないなといつも思う。いつだって好きなところに呼び出してくれればいいのに、そうしたら誰も、病院の先生達だってきっとノーとは言えない。以前そう訴えたら、お父さんは慈愛に満ちた顔をして言ったっけ――きみには生きていてほしいんだよ、と。
「次はこの人?」
もらった菓子の箱の底に写真が入っていた。いつものターゲットよりずっと若く見える。国籍不明の外国人でも、テレビでたまに見かける偉そうな政治家でも、戦争の生き残りのような老人でもない。どこにでもいそうな日本人の青年だった。最近テレビで放送しているドラマの主人公に少し雰囲気が似ていた。
「そう。元々うちの組の人……家族みたいなものだったんだけどね。ちょっと色々あったんだ」
見かけによらず、なかなか手強いよ? お父さんは気遣うように僕を見た。
「大丈夫。失敗しないから」
「頼もしいね」
お父さんは、僕達兄弟に相応しい居場所を与えてくれた人だ。恩を仇で返したくはない。長くは生きられないこの身体でも、役に立てることがあるのなら少しでも貢献したかった。
「家族だったのに、殺してしまうの?」
お父さんが消せというなら、その命令は絶対だ。しかしどうにも寂しげに見える横顔を眺めていたら、ふと訊きたくなってしまった。本意ではないのではと思ったからだ。僕のせいでお父さんが悲しむのは見たくない。
「家族は殺し合ったりしないものだから、家族じゃなかったんだろうね」
そういうものか、と思う。僕には家族と呼べる人は兄さんとお父さんしかいないから、彼のように家族の多い人の考えることはよくわからない。
「仕方がなかったとはいえ、あまり手を出しちゃいけない人間を手にかけてしまってね。それで、そのままにしておくわけにはいかなくなってしまったんだ。もっと慎重派だったと思っていたんだけど……どうしちゃったんだろうね」
よくないお友達に感化されちゃったかな、とお父さんは呟いた。
「まあいい、というわけでこれ以上はうちの組にとって危険だから、可哀想だけど消えてもらうことにしたんだよ」
「わかった」
時期が決まったらまた声をかけるね、とお父さんは優しく笑った。僕と兄さんはいつもとても優しくしてもらっている。だからきっと、お父さんにとって僕達は大切な家族なのだろう。それが嬉しくて、僕はいつだってお父さんの期待に応えたいと思う。――たとえこの身体が保たないとしても。
「兄さんは?」
「忙しくしてるよ」
そうか最近会えてないね、気になるかい、とお父さんは言った。
「なんだっけな、乱数放送? そんなのを使って楽しく撹乱作戦中だ。私にはもう到底理解が及ばないよ」
「それ、兄さんの得意分野」
鼻が高い。僕と違って、兄さんはとても頭が良いのだ。僕にはさっぱり理解できない難しい数学や物理を使って、外国の諜報機関のデータベースに侵入して秘密を抜き出したり、偽物の暗号を流して混乱させたりしている。
「どうもね、最近行き詰まってるらしいんだよ」
どうしたものかね、とお父さんは困ったように呟いた。
「手伝わなきゃ。僕にできることはある? 作戦に邪魔な人はいない?」
「いいや、あれはお兄さんに任せておいた方がいい。その方が面白いからね」
化け物は化け物同士戦わせておけばいいのさ。お父さんはそっと笑った。
僕にはその言葉の意味はよくわからなかった。首を傾げてみても教えてくれなかったので、きっと知らなくていいことなのだろう。
次のターゲットの写真を裏返してみると、下の方にその人物の名前らしきものが走り書きされていた。
「あか、いし……この字、なんて読むの」
「あかいしじゃない、明石だ。次の漢字は柊。ヒイラギっていう、冬に見かけるトゲトゲした葉っぱを持つ植物のことだよ。冬生まれだから、それに因んでつけられた名前なんだって」
「ふうん」
僕の名前にも由来があるのだろうか。兄さんなら知っているだろうか。
「ターゲットの名前に興味を持つなんて珍しいね」
「別に……読めなかったから、きいただけ」
名前も知らずに命を奪うより、せめて知っておいてあげた方が安らかに旅立ってくれそうだと思って。そう言ったら、きっとお父さんは馬鹿らしいと笑うだろう。だから黙っておくことにした。
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