忍野のブラウン

消雲堂

小説

1,927文字

ヒュンヒュンヒュンとロッドは僕の前後にしなって、そのたびにフライラインがシューシューと静かに音をたてながら伸びてゆく。それに合わせて左手は伸びるラインを引いてラインにかかる負荷を上げ、次に解放して負荷を弛めしたりしながら徐々にラインをリールから繰り出していく。僕の前後に飛んでいるフライラインは僕の身長の何倍くらいになるだろうか?

フライ歴が5年にもなるのに僕のキャスティングは少しも上手くならない。

たまにラインとロッドがぶつかる衝撃があるし、ラインが伸びきらないのにロッドを振り返しているからかリーダーやティペットが瞬間的に絡まって“パチン”と音もする。多分、ティペットに結び目ができただろう・・・。このまま水面に投入して下手に魚が釣れたりすればすぐにティペットは“プツッ・・・”と切れてしまうだろうと思いながらそのままロッドを振るのを止めない。

「チッ!」

自分の未熟さにイライラして舌打ちしながら前方の水面を見る。やや大きな魚のライズがある。ラインが伸びきったところでラインを自分の左手から解放させるとラインは5メートルほど先の水面に静かに着水する。別にライズをしたばかりの魚を狙っているわけではない。僕の前方でさえあるならばラインはどこに着水してもいい。

大体、僕の目的は魚を釣ることではない。魚が釣れない負け惜しみのようだが・・・実際魚を釣り上げたくはないのだ。生き物を傷つけたくない・・・釣りをしながらも、そんな偽善的なことを思うのだった。

初秋の忍野の川の中でこうやってフライラインを振っているだけで1週間の内に起こった嫌な出来事を忘れることができるし、また嫌なことが起きていなくても、生きているという感じがして僕は充分に幸福なのだった。

フライラインの先に付いたリーダーにティペットと呼ばれる透明で、か細い糸は、水面に着水するとすぐに大きなS字を描いて僕の方に流れてくる。ラインが水面で絡まないように僕は手元に少しずつ引き戻す。

ティペットの先のフライ(疑似餌)は、音をたてて割れた水面に消える。ラインはそれを合図にいきなり強い力で引っ張られて狭い川の水中を左右に走る。40センチぐらいのブラウン鱒が釣れたのだった。魚が釣れたとなるとげんきんなもので“魚を釣りたくない”気持ちは消え去って何としてでも釣り上げたいという気持ちが強くなる。

「俺はどうせ偽善者さ・・・」と呟きながらラインを手元に引き寄せる。さらに先ほどキャストで失敗したティペットの絡みが気になってくる。大きなブラウンであれば手早く魚を取り込まないと絡んで弱くなった結び目からティペットが切れる可能性が高くなるからだ。

バシャバシャと何度も水面を割って暴れるブラウンは元気が良くて、なかなか手元に引き寄せることができない。僕はロッドを立ててブラウンを水面に引き上げて空気を吸わせて弱らせようとするが、ブラウンはこちらの思い通りにはならない。

長い時間が経過したような気がする。やっと弱って水面に顔を出して大人しくなったブラウンを引き寄せると、僕は背中に吊るした大きめのネットを左手で引いて水中に突き刺す。ネットをそのまま水中で静かにスライドさせてブラウンを入れる。
ブラウンは「信頼している相手に裏切られた者」のような哀れな目で僕を見つめる。

僕は「悪いな」とブラウンに謝りながら彼の口にかかった小さな疑似餌の針をフォーセップで外すと首から提げた防水カメラで写真を撮ってから水中に逃がしてやる。手早に処理しないと魚は死んでしまうのだ。ところが手際が悪かったのかブラウンは口をポカンと空けたまま身動きひとつしないで、そのまま水面を流れて下流へと運ばれていく。
本当に・・・これだから魚を釣るのは嫌なのだ。「魚は神経がない」という釣り人がいる。本当にそうなのだろうか? と僕は思う。僕が釣ったブラウンは、おそらく僕の手際の悪さによって苦しめられてついには死に至ってしまったのだ。

本当に・・・これだから魚を釣るのは嫌なのだ。

人は身体の大きさによって生命の順番を決めているようだ。たとえば小さな蚊や蚤や虱や蠅であれば平気で彼らの命を絶ってしまうくせに、それが少し大きな生物や小動物になると急に殺すのを躊躇うようになる。それらが死ぬと涙して悲しむという場合も多くなる。

もちろん、それも人間による。小さな虫も殺せない人間もいれば、平気で人殺しができてしまう人間もいる。ただ・・・平均すると「命の重さは身体の大きさによる」という物差しはあるようだ。

僕は流れていくブラウンを見ながら「息を吹き返せ・・・お前は気絶しているだけなのだ」と願う。するとブラウンは息を吹き返したのかザッと水面を蹴って水中に消えたように見えた。

2013年9月28日公開

© 2013 消雲堂

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