無数の棘の老若男女は、現在の医学に満足をしているのか。

巣居けけ

小説

5,493文字

視界の隅で、ゴキブリのような黒い何かが蠢いている。そんなことはよくあることで、常で、この文書は三秒ほどの時間で作られた。

眼底からの赤色が、ひどく叫んでいる。私やこの路地裏に住まう人間たちの耳には、我々の乾いたカマボコのような耳には、それがしっかりと聞こえている。その音は、心地が良い。まるで子宮の中に居る時のような肯定感が有る。両目を閉じると赤色が映る。血管と肉の色。肛門が緩み、やがて汚れたズボンにアンモニアの臭いがつく。私はすぐに目を開いて、ゴキブリが張り付いている焦げた壁から起き上がる……。

狭い路地裏通路に吹く冷たい風に乗って、表の車道を行く新聞配達員のバイクの音がやってくる。さらに遅れてガソリンの臭いが、煙として鼻孔と触れ合う。

ひどく鋭い棘のように眩しく感じられる休日の、連続したフラッシュと全身を進む浮遊感。寒さに犯される指先の敗北感。乾燥してしまった胎芽が裏側にこびりついたベレー帽を捨てた私は、すでに頭の中心部分で医療試験に挑んでいる。問題用紙をさっさと咀嚼し、白紙の味に立ち上がる。ようやく自分の全身が、高級鉱石を使用して創られた巨大駅だと思い込む。
「電車が参ります」
「はい?」白衣の落ちこぼれ試験監督官が口でへの字を作っている。

私は視界の端で無数のゴキブリがざわめいているのを認めながら、監督官に焦げたシャープ・ペンシルを投げつけて、鞄から何もついていない無地の黒ベレー帽を取り出す。被ると同時にゴキブリで埋め尽くされた視界を閉じる。ゴキブリだらけの巨大駅の役割を開始する……。

甘い果実のような煙たい香りが脊髄を一度で輪切りにすると同時に、次の列車の予定表をプリントした空き缶が自動販売機から落下する。上を見上げた革製の大学生が、砂糖の目で映った電光掲示板で時刻と電車運行を確認する。同時に天井のトランシーバーほどの大きさのゴキブリに吐き気を感じる。急ぎの用事がある列車利用者たちは、分厚い黒ブーツで予定表空き缶と米のように小さいゴキブリを踏みつけ、中から出てきたアルミニウムの気配に嫌な顔をする。彼ら彼女らは毛虫を踏みつけた幼少期と、見えないゴキブリだけをひどく嫌う。毛虫の棘が二の腕に刺さった激痛が蘇り、夕焼けのような濃い赤色が眼球に焼き付く感情を頭蓋骨の裏にびっしりと覚えている。私はその赤色に、叫びを感じたことがある。耳鳴りに混ざった叫びで、ちょうどゴキブリの悲鳴のような声だったことをノートの隅に綴る。文字列はゴキブリとして去って行く。私は寝室の中でも、あの黒光り達が動く音を聞いたことがある。

私は水道水のような意識をようやく掴みなおし、黒いベレー帽を後方の受験者の頭に被せてから着席をした。すぐに、足元のゴキブリ死骸を蹴り飛ばす。落ちこぼれ試験監督官はすっかり白衣を使い果たし、今は教壇の上にある乾いたカマボコせんべいを、年老いた山羊のようにむしゃりとやっている。

鼻呼吸をすると、せんべいからの薄い血液の臭いが届く。私は鞄からスケッチブックを取り出して、ようやく見つけることができた、緑の丘の上に立つ赤い自動販売機の絵を描こうとする。

クレヨンを全て食べたところで絵を完成させ、すぐに目的の老人クラブの壁を目指す。張り付いているゴキブリに触れないように注意をすると前方から鳴れた老夫婦の声が聞こえてくるので、それを頼りに暗闇を歩き、鉄の冷たさが伸ばした手の中に当たると、私は水の無い海水浴場の中央にそびえたつ、老人クラブの中に居た。

誰が連想したことだろう。誰が願ったことだろう。地下で爆発した煙が晴れたと思ったら、そこから出てくるものが食用の消しゴム、そして落第を迫られている強烈な削岩機の名人、あるいは発光し続ける臓物の小瓶だなんて! 誰が連行を開始したのだろう! 誰が決定を押印したのだろう! うようよ歩きの老人博士は常に新発見に震えている。元記者の助手が、彼の歩き方に埃まみれのゴキブリを浮かばせて、うんざりとしているのが私には見えてしまう。

私は銀色の手錠に性欲を見出している。どこまでも、いつまでもたむろをしている緑の法律と、紫色のやかん。出戻りを開始している脳は、やはりゴキブリを認めていて、諦めも感じている。不遇の肺が空気を取り入れながら、肉が弾かれる音と共に上下だけの運動を続けている……。血管が通っている肉塊が、確実に発光していると誰もが思う……。

私は赤い煙だと思った。しかし店長は、電光掲示板を視たり、懐中電灯によく似た電信柱に野球帽を引っ掛ける人間こそが、粉末のチョコレートを電子レンジのネジ穴だけで形成できると説明する。科学者がバイトとして入り込み、その説明会に必死にメモ帳を持って参加する。私はそれを横から見ている。受講者の頭がゴキブリの右足だけで形成されていることに気づいたとき、私は季節に合った退職届を食道に落とした。

三人以上の店長。私の父も、ちょうど三人。彼らは同一のコック帽を付けている上質な警察官と、誰も知らない粘土の宇宙旅行に興じる。

私は紙飛行機で作ったロケットの、唯一の丸い窓越しに塩分の増幅を考える。作りかけの論文がポケットから出てくる。途中途中にレシートがついていて、どこにでも大根おろしを売りつけている株式会社の創設が香る。私が足を付けている下には、宇宙空間に適応できるような加工がされたゴキブリが茶会を開いていた。

隣人の婆さんは、緑色の固形物だと思ったらしい。ならコンビニバイトの紫髪は? 彼女とおでんを分けていた、円柱の素材は? みんなが私の手元を注視して、その膨れ具合に興ざめしてゆく。私は自分の周りから人間が消えていく妄想に寝起きの母親を感じ取る。それから、どこにも見えない階段を駆け上がる。私は裁判官になったつもりで木製のハンマーを他人に叩きつけ、ようやく堂々と、肺に空気を入れることに成功する。「嗚呼、皆々さま。どうか静粛に!」喪服の男どもが、あの世で私に感謝をする……。
「十月になると、何があるんですか」
「おでん」

粉末をやかんに入れたと思ったら、それが炎になって、全身を焼く! 私はすぐにその場で屈伸を開始し、店長が戻るまでの時間稼ぎを開始した!
「十一月の恩恵を、私はまだ知らないんです」

コンビニバイトの同僚は、いつでもおでん温め装置のダイアルを操作している。
「私だけ、みすぼらしいよ、エプロンが。咲いたら散った、あの日の紫陽花……」帰り道に紫陽花に、ゴキブリが乗っていたのを思い出してしまう。

同僚は、おでん温め装置の中の大根が透明になって、さらに茶色のだし汁を吸い込んでいくのを見つめている。私はそれを横から視る。いつかの受講の際と同様に、汚いバックヤードから自前の三つの目で、常に視る。

おでん温め装置が音を立てた。中のお湯が勇敢に沸騰しているせいで、泡が弾ける音が鳴り響く。同僚はそれに顔を赤くする。
「うるさいよ! ボクはトッケイヤモリの無理心中計画に時間を費やしたいんだ!」地団駄を踏み、おでん温め装置の中の大根を掴み上げる。すぐに熱に発狂し始める。紙を素早く破く時の音のような悲鳴が、泡が弾ける音に混ざって演奏を開始している。

掴みかけた大根は放り出され、レジカウンターの前のお菓子コーナーに飛んでゆく。放物線を描き、やがて煙草を模した砂糖菓子のパッケージの上にへばりついた。

私は救急箱を持ってバックヤードから這い出た。ゴキブリたちが続いて来るのが確信できる。おでんを求めた若者が入店してくる音が、耳鳴りと同時に聞こえる……

そうして私は、ようやく十二月六日の午後に発生した事案についてを口にする決心を構築した。何度見上げてもアルミニウムの海のようで、銀色の水平線を目撃した市役所職員は、一斉に舌の裏側に海水が流れていくのを感じている……。私はいつでも本名以外の名称で呼ばれる。病院の待合室では二つ目の名前を持った薬物常用者たちが、ぷるぷるとゴキブリに震えながらも、自前の新聞紙に定まらない眼球を向けている。小刻みに揺れる視線で、理解ができない文字を追う。

私は比較的清潔な見た目の、ゲロの臭いがするソファーに座り、待合室の中の薬物常用者たちを見まわす。ソファーの破れている部分をちらりと見ると、黄色いスポンジのカスに混ざったゴキブリが入っていた。

ここの全員が顔見知りであり、全員と初対面だった。右から、警報をひたすら舐める紫色唾液の捜査官、水掛け数学教師、落ちこぼれ販売員の彼女、みんなのマンホール男、区役所の滅亡を囁く人工知能、蜜柑の皮を泣きながら売る幼児。そして、『呂律の回らない科学者』の私が居る。誰もがゴキブリの音に怯え、ハエを好んで路地に行きつく。自宅を自宅として認識できない人間も居るが、彼らはいずれにしても路地を求めて歩いている。

奥の通路から看護婦が出てくる。待合室の誰もが、その体つきに注目をする。小さいサイズの看護婦衣服のせいで良く見える身体のラインに、男性陣が小さく騒ぐ。
「千鳥足のお喋り屋さん。千鳥足のお喋り屋さん。三番診察室へどうぞ!

私はスッと腰を上げる。スリッパの乾いた音を立てながら看護婦に続く。穴の中のゴキブリも自然について来る。

三番診察室のドアを開ける……。医薬品の香りの中に、白髭の主治医が見える……。千鳥足のお喋り屋であることを名乗り、促されて丸椅子に落ちる……。医薬品の香りが農場の香りに切り替わる……。主治医の万年筆が馬糞になったり試験管になったりを繰り返して、私のカルテに赤いミミズを描いている……。
「本当にこれで良いと思っているの?」

私は素晴らしく客観的に、私を覗いて嘔吐をしている。

 

私は、「『首吊り用の縄を引っ掛けて垂らすことができそうな場所』を探して、ふらふらと家の中や職場のコンビニエンスストアを歩いていたこと」を主治医に打ち明けた。昼食のハンバーグが口から出てくるような違和感が喉を膨らませていたので、例の馬糞試験管を強く見つめたり、唾液を流して黙らせながら、この前の休日はそれで終わりを迎えたことも添付すると、主治医は面倒くさいキャッチに絡まれた七三分け会社員のような顔をして、引き出しの中の赤い錠剤を二本指でつまみ上げた。

私は、その指をよく見ていた。薄いハエがびっしりと張り付いているようにも見える、親指と人差し指。それらと、赤錠剤で作られている円形。骨の輪郭が浮き出ている指から、私はいくつかの職場の一つのコンビニエンスストア、その揚げ物製造機のことを思い出す。
「あんたはまだ若い。うん。どれくらい若いかというと、喇叭とトランペットの違いがわからないくらいには、若い。だから大丈夫。この赤い薬、山奥の村で作られている醤油を凝縮して、固形にしたのちに何も無い牛舎の中で一か月を過ごした精鋭の薬を飲んでいれば、すぐに治る」

赤い錠剤が差し出される。私がしわくちゃな右手でそれを持つと、すぐに主治医の指に居るハエたちが私の指に乗り移って来る。主治医は大量の赤錠剤が入った瓶を追加で出してくる。
「ほら、タダで良いから、もう家に帰りな」

私は瓶も受け取ると、流しそうめんを流れる白いそうめんのように、速やかにこの三番診察室を退室した。

生徒だったキノコ。いつでも街の床の間を進んでいたキノコ。彼らは粉末状になったオーケストラを必死にしゃぶる習性がある。そうして生計を立てていることが発見されていることも、同僚から聞いている。いつでも苦味に頭を悩ませているキノコ。人型だったキノコは自分のきょろきょろとしたリズムを気にしすぎたせいで、どこかに行った木星のようなボールペンを落下の中で見失う。盲目の、生徒だった足の無いキノコ。
「うん。でもそれって一方通行の思い出なんじゃないの?」

だからって砂浜を飲み干して良いとは限らないでしょ。と、私は水面に浮かぶ泡を使って伝える。電子の技術に魅了をされた怪人たちはその肌を黒に染め、頭から伸びる釘の頭に醤油を垂らす。鉄のような悪寒を半径五メートルに漂わせ、すぐに各地の女神を発見する。軽く頷いただけで、頭の上から胞子が飛んで進んでいく感覚になる。盲目なせいで宙を舞う胞子はわからないが、確実に、頭に掛かっていた重さが消えている。
「長い遠足の末に、私は承認欲求のような固形物を見つけたんだ」
「へえ、それで?」白昼夢を好む主治医は白髪をいじりながら、深緑色のボードを睨んでいる。黄ばんだセロハンテープで止められている私が提出したアンケートに目をやっている。

私は、無数のゴキブリが雑談をしているのを視界の隅に認めながら、主治医に唾混じりの声を突きつける。「ええ。つまり、マンホールが食用になるということは、白色と紫の煙が混ざった駅の改札機に変換されるということになると思います」
「科学的にはな」
「はい。科学的には、そうなるはずです。ええ……だから、みんなが排水溝と口づけを交わしているということで、あのマンホール裁判は決定しました。しかし後の書類の中で、追加の作業として、チョコレートの成分に、揚げ物のプロモーションを執行しなくてはならなくなったのです。彼女の見た目は真剣な亀。履修をすべき臭いとオーロラソースは、三十日限りの落下を演奏しているんだと、私は思いました。ええ、私はオーケストラ怪人と麻雀に興じたことがあります。さらに、彼女と常に、配牌について論じたことがある。駅長はいつでもドライアイスを舌に乗せているから、高級なホテルに繋がる路線を見過ごすこともできます。あの人は、忘れられた麻雀戦士。あの国籍は、忘れられないキノコ。本当なんです。信じるか信じないかはマンホールによって決められているのではなくて、やはり完璧に、あなた次第……」

2021年12月17日公開

© 2021 巣居けけ

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