ラフバスター・カフェの扉。

巣居けけ

小説

2,774文字

こんな場所に来るべきではない。

狩野優来は昨日から通常通りの職務に戻っている。それは第三受付窓口に所属しているメンバーの、最古参削岩機ですら認知している。ガソリンのような気前の良さを職場の後ろで発揮する。新人会社員は自分の利き耳が恋人の義母の唾液に包まれていることを察知する。課長が丸裸にされている現場を無視して都市の中央に向かって走る。黄色くなってゆくソックスにはまっている。桃色のサンダル……。
「カフェインは、誰しもの不安の隣に存在している……」サブスクリプションと立体的な教壇が迫って来る。新聞紙を頬張ると、水泳の授業で入り込んできた海水が耳から垂れてくる。目の前の国語教師が読み上げる歴史小説が遠くで聞こえる……。右隣りの彼がげっぷと共に蜜柑の色を黒板に記述した。生徒たちはそれに向かって連続ドラマのような駆け引きを開始する……。軍隊の声を想像する。ノートの隅に他国を想い、自分の頭の中だけの図書館を作成する。ボタンが赤色に輝く。名簿が前の席の生徒から回される。思わず母親の名前を書く。耳が母親の唾液で満たされる。すぐに下に顔を向ける。ズボンのはずのスカートが、床からの色を吸い込んでいる。裾が木目調になる。ゴムがレモンの色になってゆくのを感じる。いつかの手術と薬物の臭いを思い出す。どこまで行っても山羊しか居ない世界を思い出す……。
「どんな医者でも直せないから。おれはドラミングと草を食べることに決めた」

ゴリラのあいつは病室にバナナの皮をまき散らしている。おれは足を適当に動かすだけでそれらを踏みつけて、そのまま頭を病室の白色にぶつける。おれが頭をぶつける位置にはいつでもバナナの皮が無い。しかしおれはいつでもバナナの皮に足をすくわれる。

おれはバナナの果実臭さに顔を潰しながら、その病室から出ていくことを決めた。

紫外線の白色に顔を再び潰す。病院の巨大な屋根から這い出ると、自分がダンゴムシになったような気で道を歩くことができる。病院の前にあるバスやタクシー専用の車道を縦横無尽に疾走する。運転手たちからの黄色い歓声が耳を潤す。

おれはそれからラフバエスター・カフェに行こうと考え付いた……。

カフェの黄色いドアを開いた少年は、近づいてくる店員を無視して店内に進む。店員は彼が強烈な興奮剤を噛んでいると勝手に想像し、少年の注射針で作った微小の穴だらけのうなじを見ながら「ごゆっくり!」と言い放つ。少年はコカイン中毒の山羊の真似で、キョロキョロとしながら店内をさまよう。

少年が三つ目の席の横を通り過ぎようとした時、その腕を一秒だけ老人に掴まれる。老人は閉じ切っていない口からローションのような唾液を垂らしながら少年の顔を見ている。少年はそのまま歩き続ける。腕はするりと離れ、ついに四つ目の席にさしかかる。席についているスーツ男は、その少年のうなじを見て驚愕をしながらも、手持ちの黒色革鞄にがさがさの腕を入れる。指先がパケに触れるとそれを掴み、伝票の下に忍ばせる。店員の目を盗んで立ち上がる。少年が迫って来るのを見て立ち上がり、トイレ室に進む。

このラフバエスター・カフェの店員の八割は、薬物常用者であると同時に麻薬取締官を担っている。カラスの眼球を移植した二つの眼窩を常に見開き、無数の客席を睨む。客が手を上げた時にだけ通常飲食店の店員に変わり、注文の対応をする……。
「今日はカフェインを飲みたくないからね。ただのサイダーにするよ」
「少々お待ちください」

後ろを振り返った途端に目つきを鋭くする。大股で調理室に行き、調理担当にメニューメモを投げ捨ててから深く息を吐く。店員は常に吸引するタイプの薬物を求めている。

少年は伝票の下に見えているパケの端に小指を落とし、そのままパケを滑らせるように引っぱり出す。四角い全容が現れると同時に中にある白い粉末が見える。無意識にニヤけてしまう顔面をさりげなく叩き、小指をさらに進める。テーブルの端に持っていくとカーキ色のズボンのポケットを開け、そこにパケを落とす。薬物の重さが伝わってビクンとなる。伝票とテーブルの間に一万円の札を五枚挟む。
「お客様、お帰りになりますか?」後ろから店員の声が聞こえてくる。幻聴かと思うが、横から抜けてきた実物の店員によってそれが真実の声であると思いなおす。次の文言を待たずにドアに向かって歩きだす。

 

少年がドアの黄色をくぐったところを見てから、おれはトイレ室から出る。席に戻るまでに三回ほど店員と肩がぶつかり、そのたびに脳の世界に地震が起こる。津波の海水が耳から垂れる。

席に戻ると伝票の下のパケが消えていた。おれは店員に悟られないように辺りをキョロキョロとし、パケをさらった犯人を探が見つからない。最後に隣の席の老人と目が合う。向こうはすぐにくたびれた輪ゴムのような口を開く。おれにはそれが、五秒以上の途方もない時間のように思えた……。
「まるでコカイン中毒の山羊だ」
「へ?」

店員がおれを見下ろしていた。
「コカイン中毒の山羊の真似かい? 今の見まわしは」
「違うけど」

おれは老人の薔薇柄のシャツを再度睨んでから、伝票の下に視線を戻す。そこでおれはパケが五枚の一万円札に変化していることに気が付く。

 

おれはどこまで行っても山羊しか居ない世界を思い出す……。加えて、いつかの手術と薬物の臭いも思い出す。ゴムがレモンの色になってゆくのを感じる。今度は裾が木目調になった。ズボンのはずのスカートが、床からの色を吸い込んでいる。すぐに上に顔を向けた。耳が母親の唾液で満たされる。名簿が前の席の生徒から回される。おれは思わず母親の名前を書く。するとボタンが赤色に輝く。おれはノートの隅に他国を想い、自分の頭の中だけの図書館を作成する。さらに軍隊の声を想像する。生徒たちが連続ドラマのような駆け引きを開始する……。右隣りの彼がげっぷと共に蜜柑の色を黒板に記述していく。目の前の国語教師が歴史小説を読み上げる声が遠くで聞こえる……。おれは新聞紙を頬張ると、すぐに水泳の授業で入り込んできた海水が耳から垂れてくる。立体的なサブスクリプションと教壇が迫って来る。
「カフェインは、誰しもの不安の隣に存在している……」

課長が丸裸にされている現場を無視して都市の中央に向かって走る。桃色のサンダルに突っ込んだソックスが黄色に染まってゆく。ガソリンのような気前の良さが職場の後ろで発揮されている。新人会社員が自分の利き耳が恋人の義母の唾液に包まれていることを察知する。おれは第三受付窓口に所属しているメンバーの、最古参削岩機に一つの質問を投げる。狩野優来はいつの日から通常通りの職務に戻っているのか。
「私は、もっとちゃんと山羊ワールドを書いていく必要があるのかもしれない」

そうして昼の姿になったラフバエスター・カフェに入る……。

2021年11月28日公開

© 2021 巣居けけ

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