Adan #38

Adan(第38話)

e.s.

小説

4,070文字

はじめてのアルバイト〈6〉

上を向いてもそこに見えていたのは単なる箱の内側だったんだ。そう、猫になった君だけさ。今現在、箱の中にいる僕が生きているのか死んでいるのかそれを確かめられるのは箱の外にいる猫になった君だけ。シュレーディンガーなんかじゃなくてね。僕が生きているのか死んでいるのかそれは僕自身で把握できないんだ。猫の本心を把握できないのとおんなじで。つまりこういうことさ。猫になった君がついうっかり箱を開けてその箱の中で僕がニャーニャーと鳴きながら元気に動いていたら「荻堂亜男は死んでいる」と判断してそのまま放置してくれて構わないってこと。うん、そういうこと!

 

ええと、なんの話だっけ? そうそう、一時間ただ働きでもノープロブレム。僕にはそんなの痛くも痒くもなかった。終日ただ働きでいいとさえ思ったね。なぜなら勤務中いくども聖良ちゃんと視線を交わすことができたからさ。

 

僕は聖良ちゃんと視線を交わすたび正人くんにからかわれた。「この色男!」と言われて肘で小突かれたりした。

 

「予告した通りローライダーに乗って来たよ。終業後にホッピングショーを開催しようと思ってるんだけど」と僕は既存のレシピにとらわれないトッピングをハンバーガーに施す作業をしながら再三からかってくる正人くんにそう言ったんだ。

 

僕はこのときまでホッピングはおろか操作装置であるハイドロスイッチに触れてもいない。にもかかわらず僕がホッピングショーの開催を発表したのは巷で連呼されている「自信を持つのに根拠など要らない」という成句を憶えていたから(ちなみに僕のホッピングショーのニュースは瞬く間にスタッフ全員、店長にまで伝わっていた)。――というか「自信」についてひとこと。自信に持ち易い取っ手など付いていないということ以前に、そもそも物事を行うのにいちいち自分を信じる必要ある? ねえ、ある?

 

備瀬一家が店に来たのは八時過ぎだったんじゃないかな。キッチンにいる僕に向かって夏太朗兄さんが僕の名前を呼びながら手懐けられたアシカのようにカウンター越しに手を振ってきたから僕はカウンターに出たんだ。

 

「こんな遠いところまでアルバイトしに来ているなんて偉いね。居眠り運転するには長すぎる距離だよ」と言ったのはそのアシカさ。彼は一人でカウンターの前に立っていた。姉と利亜夢はすでにフロアの席に座っていた。

 

「たしかに夜の睡眠に支障をきたしてしまう距離だね」と僕は言った。「もう一生起きたくないというのなら話は別だけれど」

 

このときの僕には夏太朗兄さんとゆっくり喋っている時間がなかった。ちょうど団体客の注文があって忙しかったのさ。夏太朗兄さんの注文を担当していたカウンタースタッフはグレート・ルート・ベアみたいな高校生の娘だった。夏太朗兄さんは姉の財布ではなく自分の財布を持っていたから、僕はそのグレート・ルート・ベア(この娘をグレート・ルート・ベアに例えるのはグレート・ルート・ベアに失礼かもしれないけど)に精算を家族割引でするようお願いしてキッチンに戻った。

 

僕が備瀬家の席へ行ったのは団体客の胃袋に詰め込んでやる大量のカーリーフライをやっつけたあとのこと。そのとき店内にはザ・ファット・ボーイズの“All You Can Eat”が流れていたっけ。

 

「この店に就職しろよ、亜男。人類総肥満化計画の遂行にはお前の力が必要だ」と言ったのは姉。亜利紗。

 

姉に言われるまでもなくこの仕事は自分に合っていると僕は思っていた。なので僕は姉に向かって頷いて肯定を示した。解雇されたことは話さなかった。理由は、仕事中だったからさ。で、利亜夢に目をやると彼は戦隊ヒーローにしか向けないであろう眼差しをずっと僕に送っていた。僕は彼のその眼差しに心を動かされた。僕の心はこのとき「少年の期待に応えなければならない!」というヒーロー特有の感情に支配された。だからね、だから僕は衛生のためのヘアネットとその上にちょこんと被っていた制帽のハンチングを取ったんだ。すると利亜夢は拍手しながら僕の頭をまた称賛した。

 

利亜夢の声と拍手の音を追いかけるように店内にどよめきが起こった。僕の頭を見て客がざわつき出したことは当然分かっていた。以前の僕ならレインボー・アフロになって人前に出るなんてとんでもないと思っていたはず。がしかし、通勤問題同様その感情も恋の魔力によってもうとっくに神に召されていたから恥ずかしくもなんともなかった。なーんともね。カウンターにいる聖良ちゃんに目をやるとまた視線がぶつかった。

 

「亜男くん、変な髪型やめたんだね」と言ったのは夏太朗兄さん。

 

引っかかるところはあったけれど僕の頭は夏太朗兄さんにも好評だった。で、姉に視線を向けると彼女は相変わらずスマートフォン片手にカメラマンに徹していた。レインボー・アフロでファストフード店の制服を身にまとっている僕をずっとカメラにおさめていた。

 

店長にバックヤードに呼び出されたのは備瀬家が帰ったあとのことさ。生真面目な店長はその日も怠りなく顎に新しい剃刀負けをしっかりつくっていた。

 

「荻堂くん、今後店内ではハンチングを取らないで欲しいんだ。君の頭髪の量に嫉妬してこんなことを言ってるわけじゃあないんだよ。そういった髪型の店員を働かせているのを感心しないお客さまがいるかもしれないんだ。客の立場になると不寛容に輪をかけるからね、人間は」

 

僕は店長のいう道理も理解できた。したがって僕は剃刀に勝利したことがないであろう彼の顎を見つめながら首肯した。店長の話はこれだけではなかった。

 

「それから君がお姉さんだと言っていた女性に挨拶に行ったら君とは『家族でもなんでもない。一方的に話しかけられたんだ』と言って首を横に振られたんだ。君は赤の他人の精算を家族割引にしてくれとホールスタッフに頼んだのかい?」

 

僕はこの濡れ衣を乾かすのに多大な労力を費やした。姉がそういった悪ふざけをする人間であることを証明するため、僕はこれまでに姉から受けた虐待の数々を列挙して店長に訴えかけた――コンピュータウイルスを感染させ僕のパソコンを再起不能にしたこと、外国人を揶揄したメッセージがプリントされたTシャツを英語の苦手な僕に着させ国際交流パーティーに参戦させたこと、ぐらついている乳歯を抜いてくれと頼んだら永久歯を抜かれたこと、一生かかっても使い切れないであろう大量のコンドームを十三歳の誕生日に贈られたこと、待ち合わせ場所の地図が描かれてあったラブレターをもらったからそこへ行ってみると養豚場でブタしかいなかったこと、ブタなどの家畜に装着する耳標イヤータグを模したピアスを寝ている間につけられたこと(ファーストピアスがそれ!)、好きなアイドルの顔写真を入れていたロケットペンダントを開けるとサングラスをかけたブタの顔写真にすり替えられていたこと、お気に入りのアダルトビデオのパッケージの中身がブタの交尾ビデオにすり替えられていたこと、そしてベーコン合同教会に強制的に入信させられたことも僕は店長に話したんだ。店長の反応はどうだったのかと言うと、彼は僕の訴えを聞き終えたあと何も言わずにもうすっかり疲れたという素振りを見せながら店長室に帰って行ったよ。

 

そんなこんなで人類総肥満化計画という呼び名で知られるその日の任務も僕はつつがなく終えた。僕はスタッフルームでタイムカードを押して更衣室に駆け込み大急ぎでエアロビクスウェアに着替えた。そしてアフロコームというフォーク型の櫛をレインボー・アフロに深い恨みがあるかのごとくいくども突き刺してから(アフロはそうやってこしらえるんだ)僕は手鏡の中の自分と頷き合った。人類総肥満化計画という呼び名で、あるいは人類総痩身化計画撲滅計画という呼び名で知られる仕事はウォーミングアップに過ぎない。本当の仕事はここからなんだ。更衣室を出るとき正人くんが「頑張って!」とエールを送ってくれたよ。

 

僕は店の裏口のドアからスタッフ専用駐車場へ食い逃げ犯のごとく――いやラジカセ窃盗犯のごとく走ってローライダーに乗り込んだ。僕がこうも慌ただしいのは聖良ちゃんが来る前にホッピングを少しでも練習しようと考えていたからなんだ。

 

とはいえ物事はそう都合よくいかない、うん。都合にも都合があるってやつさ。というのもエンジンをかけ、いざ運転席のハンドルの右下にあるハイドロスイッチを僕は上下させてみたのだけれどローライダーがノーリアクションだったのさ。僕はハイドロスイッチを押したり引いたり叩いたり睨みつけたりもしてみた。ところがそれでもローライダーはノーリアクションだったんだ。

 

僕は運転席を出てトランクを開けてみた。トランクの中にハイドロスイッチを起動させるための〈ハイドロスイッチスイッチ的なもの〉があるのではないかと考えたんだ。すると「繋いでくれ!」と言わんばかりの二本の電線を僕は見つけた。その二本の電線の先は一本はジャック、もう一本はプラグになっていた。僕はハッとした。轟さんから受けた説明を思い出したんだ。轟さんはアースグリップとかいう電線を接続しなければハイドロスイッチは働かないとかなんとか言っていた。僕はこの電線がまさにアースグリップで、これこそハイドロスイッチスイッチなのではないかと推測したんだ(事実その電線はアースグリップだった。そいつを勝手に繋げたことを轟さんから例の声帯を駆使されて後日優しくお叱りを受けたのは言うまでもない)。

 

僕は仲直りの握手をさせるようにアースグリップを繋げて運転席コックピットに戻った。とそこへ聖良ちゃんと正人くんとグレート・ルート・ベアと店長が僕のホッピングショーを見物しようとやって来たんだ。

 

つづく

2020年3月30日公開 (初出 https://note.mu/adan

作品集『Adan』第38話 (全56話)

© 2020 e.s.

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