教室の井戸

深澤うろこ

小説

5,908文字

本当のことはすべて井戸のなかにあって、井戸は世界のあちらこちらに。

 教室の隅には井戸がある。石造りの、丸く古びた井戸だ。上には杉でできた、ささくれの目立つ蓋が乗せられている。井戸の奥を覗き込んでも暗闇で何も見えない。光で照らしてみるとその光さえ吸い込まれそうに暗いが、小石を投げ入れると、数秒の後にぽちゅんと音がするので深くに水を湛えていることだけは分かる。その存在は私にとってやや不便な存在だった。というのはそれが私のロッカーの前にあるということで、ロッカーの扉が井戸にあたり、半分も開けず、教科書などの出し入れに酷く骨が折れた。
 立っとけ、と吉弘はいつもの口調で私に命令し、私は井戸の横に直立不動に立たされた。
吉弘は一番私に近い席に座っており、私のことをじっと監視している。
「脱げ」
 吉弘が、更に命令口調でそう言った。室脇先生の授業は始まっていた。教科書120頁から、と先生は言い、黒板にチョークで何かを書きつける音がカッカッカと聞こえてくる。生徒たちは私に背を向け、教科書やノートを開き始める。びゃびゃびゃと紙の擦れる音が混ざり、響く。
「脱げ」
 もう一度吉弘が言い、立ち上がって私の学ランの肩口を両の手で掴んだ。学ランはまるで紙でできていたかのように力なく破けた。
 先日、最初に捨てられた物は教科書と資料集だった。半分も開かない扉から吉弘は私のすべての物を取り出し、指で千切り、井戸の蓋を転がし、投げ入れていった。それらの内、軽い物は音もなく落ちていき、重い物は数秒の後にどぷんとくぐもった反響音を残し、落ちていった。吉弘の指先は力強さが嘘のように、女子のような細さと、長さを持っていた。幼い頃からピアノを習っているという噂があった。本当のところは知る由もないが、その指は今にも白鍵と黒鍵の上を美しく、規則正しく踊りそうに見えた。
 破けた学ランを更に引き裂き、それもまた吉弘は井戸に投げ入れる。びらびらと風を切りながら、学ランだった布は落ちていく。先生は黒板に「ポツダム宣言」と大きく書く。その文字は右肩上がりで美しいとは言えず、先生自身も気に入らないようで、何度か書き直した。
 制服を買いに行ったのは商店街にあるミズハシ洋服だった。母から貰った三万円を握りしめ、赤錆びた自転車を走らせた。ミズハシ制服の店主は濡れた鼠のような男で、背が当時12歳だった私と同じくらい低かった。背と同じように小さく鋭い目で、新聞から目を上げ、私を見て立ち上がった。制服を、と私は言った。どこの中学とは言わなかったが店主が持ってきたのは私の学校の物で間違いなかった。Lを着てみるか、と店主は風体と違いどこか楽しげに言い、試着室はこっち、と促した。染みのついたカーテンで仕切られた小さな空間に入ると、そこはタクシーの中のような匂いがした。
 タクシーに乗った記憶が甦った。それはまだ私が小学生だった頃、母と私と、恰幅の良い男と三人、銀座で母の服を買っていた時だった。母は浮かれていた。銀座で買い物できるなんて、と口に出して女学生のようにはしゃいでいた。街を歩く人々は、スーツを着たサラリーマンも、派手に着飾った若い女性も、落ち着いた老婆も、皆胸を張って堂々と歩くように見え、少し背を丸め、恥ずかしそうにする母はまるで溶け込んでおらず、私は幼心にみっともなく感じた。目を背ける。百貨店が伸びた先に中庭のように空があり、黒い雲が張っていると思った瞬間、私の目の中に水滴が飛び込んできた。
 突然の雨に、ある男は顔をしかめて茶革の鞄を頭に乗せ、走り去り、長髪パーマの女性はバッグから折り畳まれた水色の傘を広げ、優雅に歩いていく。天気の急変に驚く人々はそれぞれが操り人形のように演技をして見えた。土砂降りの雨に路上は濃く色を変え、水たまりは雲を突き抜けたわずかな太陽光を跳ね返し、鏡のようになる。私は男がタクシーを止めるまでの間、その水たまりを覗き込んでいた。そこには空があり、私がいた。空に向かって落ちていかないことがやはり不思議だった。男がタクシーを捕まえ、母を先に乗せ、次に私、そして最後に自分が乗り込んだ。
 タクシーの車窓から見る街は、まるで幻のように、靄がかかっていて、その中をゆっくりとタクシーは進んだ。タクシーに乗るのは初めて、と私は言う。恰幅の良い男はこれからは何度でも乗れるよといい、私の前を通り過ぎ、母の手を握った。母は静かに笑んでいる。男の顔を、私は思い出せない。
 Lはちょっと大きすぎるかな。服屋の店主は笑った。鏡に映った私は2本足のカカシのように袖を垂らしていた。Mサイズの物を着てみると、それでも少し大きかったが、これから背も伸びる、と店主は私の頭をなぜだか軽く触り、親しげに頷いた。
 教室には40人の生徒がおり、皆一様に黒板の方を向いている。先生は黒板に「玉音放送」と書く。黄色いチョークで書く。私は皆の後頭部をぼうっと眺めた。水野の頭が見えた。
「シャツも」
 吉弘が言い、私のシャツは事も無げに引き裂かれる。ボタンが弾け飛んで、そのいくつかは生徒の足下に転がった。しかし生徒たちは見ることもなく、上履きの黒ずんだ裏側だけをこちらに見せて座っている。シャツを引き裂き、吉弘は井戸に投げ入れる。音はせず、無音の空気が耳を圧した。私は既に肌着一枚で、皮膚を粟立たせ、乳首も硬くなっていた。
 私は母の下着を盗んだことがある。とある梅雨の帰り道、もうすぐアパートに着こうかというところで細い路地から手が伸び、私の鞄を掴んだかと思うとぐいと引かれた。私の体は無抵抗に引きずられ数メートル奥で止まった。雨上がりの路地は湿った空気で澱んでいて、壁をなめくじが這うのが見えていた。私は誰かに背中を向ける形で立たされていた。その誰かが言った。お前の母親の下着を盗ってこい。声で男と分かった。背中には何か尖った形状の物があてられている気がした。私は自然と震えていた。パンツですか、と訊いた。何でもいい、と怒ったような口調で男は言った。私はその間、壁のなめくじをじっと見ていた。あるいは、なめくじが人間の姿を借りて喋っているのかもしれないと思った。
 私は家に帰ると無言で寝室に入った。母は仕事で居ないのは分かっていたが心臓の鼓動が大きく聞こえた。母のタンスを開けると、自分の物と同じ洗剤の香りがした。湿気のため、タンスの中には新聞紙が敷かれていた。その上に並んだ折り畳まれた物の中から、パンツを一枚取り出した。やはり自分の物と同じ匂いがした。途端に気分が悪くなった。何故か母に対して怒りが湧いた。
 先ほどの路地へ行くと男は後ろを向いて待っていた。その手にはビニール袋が握られていた。中には先ほどの尖った何かが入っているようだった。男はその袋に下着を詰めろといい、その通りにした。男の顔は覗こうと思えば覗けた。しかし私はさっきのなめくじを探していた。しかし不思議なことに、あれほど止まっているかのようだったなめくじは、既にどこかに消えていた。
「下も」
 吉弘は無表情にそう言う。その声に、教室の連中が耳をそばだてているのを感じた。先生は振り向きもせず、「人間宣言」と黒板に書く。
 私は真っ直ぐに吉弘を見る。吉弘は、早く、とぶっきらぼうな口調で続け、拳を握る。その拳で私は幾度となく殴られていて、見るだけで従うしかないと悟らされる、丸い拳。
 がちゃかちゃと私はベルトを引っ張り、それを吉弘が井戸に捨てる。ズボンを脱がされた拍子に、私は床に転がる。どこからか、ちっ、と舌打ちが聞こえた。吉弘は一層荒々しくズボンを掴むと井戸に投げ入れる。私は、下着姿でリノリウムの床に転がっていた。冷たい感触がある。立ち入り禁止の屋上へと続く、4階の踊り場に寝転がり眠っていた頃のことを思う。吉弘と二人、寝転がっていた頃のことを。屋上の扉の曇りガラスから差し込む、僅かな光が、均一に産毛を生やした、吉弘の白い肌に当たり、金色に光らせる光景を。
 90度回転した教室が視界に入る。皆、奇妙に落ち着いている。落ち着いているように見える。群れをなして、自分はその群れの真ん中で安心しきっているように見える。水野のふくらはぎが見える。スカートの下、ややぷっくりとしたふくらはぎが見える。視線を上げる。水野がこちらを見ていた。
 ある日の保健体育の授業で、女子ばかり体育館に集められ、男子と別に授業を受ける日があり、どうも女子は月経や妊娠について講義を受けるらしいという情報が広まった。吉弘は私に命じた。ちょっと体育館行ってこい。
 私は体育館の重い扉を開ける。扉はいつも以上のぎこちなさでやかましく開いた。そこには女子が皆体育座りをさせられ、先頭には保健の川端先生と、奇妙な壺のような形のイラストが貼られたホワイトボードがある。女子たちから一斉に悲鳴と非難の声があがる。きゃんきゃんと子犬のような声が木造の体育館に反響する。川端先生はそれを制しながら、私に歩み寄ってくる。あんたは何をしてるの、と先生は努めて冷静な口調でそう訊く。僕も受けたいです、この授業。それは吉弘に命令された言葉だった。男子は教室、と先生は続ける。あれ、なんですか、先生。教室に戻れ。あれ、子宮ですか。僕もあそこから生まれてきたんです、聞く権利あるんじゃないですか。それとも避妊ですか。男子は避妊のことを授業で教えてくれるんですか。先生は子供いますか。
 張り手が飛んできた。先生は、頬を紅潮させ、もう一度告げる。教室に戻れ。私を非難する声が高まる。変態、死ね、最悪、気色悪い、死ね。その中に、水野の顔があった。やや吊目でショートカットの彼女は柔らかそうな頬を持ち、私を見つめていた。そこにどのような感情があるのか、推し量れない不思議な目だった。私は今までになくいたたまれない気持ちになったのを覚えている。
 あの時と同じ目が私を見ている。私はその時、自分の感情が体のどこにあるのか、知った気がした。先生は「GHQ」と書き、消す。床に倒れたままの私の髪を掴み、吉弘が引き上げた。そうして井戸の縁へ私の頭を持ってくる。井戸の中が見えた。そこには教室の照明があるにも関わらず、網膜に貼り付くような闇がある。すぐにでも手が届きそうで、どこまでも終わりがなさそうな穴。こおおおと音だけが反響し、脳の中へと侵入してくる。
「お前なんて要らない」
 吉弘の声が聞こえる。その声は森の静寂に紛れるくらいの自然な声だ。それでいて、根源的な邪悪を感じさせる声だ。
「僕なんて要らない」
 私は応じる。その反応に、吉弘は少し驚いたようにも見えた。
「君は要るのか?」
 私は言った。吉弘の顔が紅潮するのが分かった。
「君の願望を叶えてきたのは僕なんだよ」
 私と吉弘が、学校外で初めて出会ったのは、スナックやバーの立ち並ぶ、どぶの臭いのする路地だった。私の母の勤めるスナックの前に、彼は座っていた。月明かりが容赦なくこの路地の薄汚れた細部を照らしていた。先に声を掛けたのは、私の方だった。どうしてこんな所に。吉弘は顔を上げた。うちの母も働いている、吉弘はそう答えた。私は頷き、黙って座る他無かった。私たちは、母たちの仕事が終わるまでここに居るわけではない。ただ、まだ長く続く予感のする夜の端っこで、出来る限り近くに居たい夜があったのだ。そうやって吉弘と何度か会う内に、川へ行かないか、と誘ったのは吉弘だった。
 やはり月の出た晩だった。川は月の光を写していた。吉弘と川べりに座り、時々、何か魚が跳ねるのを見届けた。川の流れは絶えず一定で、流動しているにも関わらず静止しているようにも思えた。お前のうちは片親なんだよな。ぽつりと吉弘が言った。私は頷いた。うちには父が居るんだ、と彼は続けた。何もしない父親が。私は黙った。すると彼は笑った。お前は黙ってばっかりだな、と。けれどそれがいい、とでもいう風に。私は答えようとして黙った。なるようにしかならないから、という言葉をそっと呑み込んだ。
 それから私たちは行動を共にするようになった。吉弘は学校内において、絶対的な力を持っていた。それは彼の端正な容姿や、単純な喧嘩の強さもあったが、悪魔的と言っていい、謎めいた魅力によるものだっただろう。それでも大勢を侍らすことを彼は嫌った。ただ、私だけが側に居た。
 吉弘の母親が亡くなった。夫からの暴力が日常的に奮われていたことが明らかになった。私たち二人の関係がねじれたのはそれからだった。悪魔が、本性を見せた。それでも私は思う。
 私と吉弘は表裏一体でしかないのだと。背中を縫い合わせた一対の人形のように。
「何なんだお前は」
吉弘の声。水野が席を立ったのを視界の端に捉えた。連合軍の占領下となる。
「僕は君と一緒だ」
日本国憲法。ガタガタと椅子と机が動く音。私は井戸に飛び込んだ。
 私の母は豆腐屋で働いている。しんと冷える水の中に雪のように白く四角い塊が沈んでいる。汗を拭う。青いホースが引っ切りなしに水を運ぶ。ホースはとぐろを巻き、ゴムの長靴の側でどくどくと音を立てる。
 夜はスナックで男に買われる。値段を聞いたことはない。くたくたになって帰ってくる母を、私は眠った振りで迎える。私の寝顔を後ろから覗く母の顔を意識する。その顔は微笑んでいる。
 夜は長く長く引き延ばされる。私が増幅し、後頭部から先が伸び、街中を浮遊し、何も見つからぬまま戻ってきた頃、何の保証も無い朝がやって来る。根拠の無い朝がやって来る。無邪気にカラスが鳴く。
 今もまた伸びていく、無重力に近い時間の中で、上から覗く吉弘と水野を見る。水野は笑っている。吉弘は茫然と見つめている。どぶんと水に包まれる。泡が目前で沸き立つ。視界が薄く濁って、何か言おうとした口から水が浸入する。耳にはもうもうと奇妙な音が反響する。体が重くなる。水は肺に達し、手足の感覚は途切れ途切れになり、信号はやがて完全に途切れる。温かい水が目から流れ、その瞬間私の意識は教室を俯瞰で眺めている。
 水野が腕を回し二人は抱き合う。チャイムが鳴る。先生が板書をやめる。教科書は閉じられる。水野の膨らみがある。私の膨張がある。吉弘がこちらを見る。
 私は膨らんでいく。水野を取り込む。吉弘を取り込む。40人の生徒を取り込み、教室を取り込む。学校を取り込み、あの路地を取り込み、川を、家々を、この街を取り込んでいく。
 この速度では、いずれ太陽も月も取り込むだろう。
 そう思った瞬間、私は突然に収縮を始める。収縮の果てにぽっかりとした空洞に宿る。そこは誰かの子宮であるかもしれない。不意にそう思い、瞬間意識は途切れた。
 その教室に井戸はあった。今もなおそこにあるのかどうか、私には知る術も無い。

2019年12月11日公開

© 2019 深澤うろこ

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