教室の空白

深澤うろこ

小説

2,085文字

ブンゲイファイトクラブに応募するときに候補になったやつです。

 廊下を歩いているときから2-B教室内の妙な静けさが、私にとってよくない兆候だということは分かっていた。だから立て付けの悪い扉を開けて、ひとり席に座っている子がいることの方に驚いた。私は入口のところで立ち止まり、「オゼキくん」と彼の名前を呼んだ。オゼキくんは既にこちらを向いていて、しかし、なにもないという顔をしていた。なにもないです。それはしばしば生徒から聞く言葉だった。私が背を向けて黒板に書いているとき、くすくす笑う声がどろんと部屋中に広がって、私は「なにかありますか?」と訊ねる。なにもないです。西口の顔が浮かぶ。まぶたに薄く傷がある。どことなくすえた目をしたあの金髪の無表情な少年。
 オゼキくんが口を開いた。「先生の授業ボイコットしようって言い出して、みんな出ていきました」「西口くんですか?」「それは分からないです」「オゼキくんはしないんですか、それ」オゼキくんは首をかしげて「したいと思わないです」と答えた。隣の教室から笑い声がする。鳥の鳴き声のように校庭からも声がする。私は体育の授業を欠席し、ひとり教室にいた日のことを思い出す。世界と私との間に温かな緩衝材が敷かれたような心地よさ。
 私は教壇に教科書を置き、オゼキくんを見た。背の低い、変声期も半ばの二年生、肌が羨ましいくらいきめ細かく、ぱっちりとした二重。その割にはハンサムではなく、薄い唇が世の中への不平を訴えているように見える。オゼキくんは、視線を両手で開いた教科書に移している。平然と授業に入ろうとしているこの少年の方が、ボイコットした彼らより怖い気がした。君はいじめられてるの?と聞こうとして止めた。職業倫理からではなく、ただめんどくさかった。
「めんどくさい」それは口に出ていた。オゼキくんが顔をあげる。私を観察する目。金魚鉢を見つめるような目。
「オゼキくんきらいな場所ある?」私は聞いた。普段のような敬語でないことが自分でも意外だった。「遊園地です」それで行き先が決まった。

 篠原先生は真面目だと言うとき、同じ理由で真面目じゃないとも言えて、それは誰にたいしての真面目さかで決まってくるのだと思う。篠原先生はとても自分にたいして真面目なのだと思う、僕たちにたいしてではなくて。学校という場の物差しは常に僕らなので、僕らの成績、僕らの素行がはかられている代わりに先生の評価は僕らによって決められる。それが正しいかどうかなんて関係ない。友達みたいに馴れ馴れしい先生やカッとなって生徒をぶん投げる先生、体育の授業でペアがつくれなかった女子生徒と熱心にストレッチする先生、誰にたいしても敬語で礼儀正しい先生。様々な先生が客観的正しさではなく僕らの愛着によってはかられていく。生徒にとって篠原先生はつまらないのだと思う。僕はつまらないことがいけないとは思わないけれど。バスに乗って駅へ行き、電車に乗った。学生服の僕と篠原先生は周りからどんな風に見えているのだろう。授業参観の帰り道?入学説明会?窓に映った僕は前髪が汚ならしく伸びていた。篠原先生はさっきからK-1の話をしている。僕はほとんど知らない。アンディ・フグって選手がいて、好きで、死んだのだということは分かった。電車を降りた。ホームから少し遠くに観覧車が見えた。

 なんで遊園地が嫌いなのかを聞いてもオゼキくんは答えなかった。でも中学生くらいの子にはありがちな思想だと思った。私も派手で賑やかしい場所はあまり好きではない。けれど今は自分の好みなどどうでもいいと思った。退職したらなにをしよう、なんてことを考えながら歩いていると少し気分は軽い気がした。同時に、なんでオゼキくんを連れてきたんだろうと後悔した。ひとりの方がよかった。オゼキくんはビルにうつる自分の姿をちらちらと見ながら猫背だった。遊園地に到着した。

 ジェットコースターに乗りながら先生が「学校楽しい?」と聞いた。なんで今、と思いながら「まぁ」と答えると先生はなにも言わなかった。僕も「先生は?」と聞いた。先生は笑って、やっぱり答えなかった。ジェットコースターは思ったより迫力があって、思ったより短かった。内臓が無理矢理動かされてかすかに痛い。
 それからコーヒーカップに乗り、シューティングゲームをやり、クレープを食べた。先生の携帯が何度か鳴っていた。学校からだろうと思った。観覧車に乗ろうと先生が言った。
 観覧車のなかは音がこもっている。グゥングゥンとゴンドラみたいな音が個室をふるわせていた。地上から数メートル浮いたところで、先生が咳払いをした。少し緊張しているのか、と思うとなぜだか下半身が熱っぽくなった。先生は全然タイプではない。それでもこうやって圧縮されたような空間にいることでぐぐぐと二人の距離が近づいてしまう気がした。早く降りたいと思った。観覧車はバカみたいにゆっくりと動いていた。僕は誰もいなくなった教室のことを考えた。生徒も先生も消えた教室で時間だけが進んでいく。誰も見ていないところで存在している、たくさんの場所に、僕の思いは散っていく。先生が窓の外を見て、「死にてぇ」と言った。

2019年12月3日公開

© 2019 深澤うろこ

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