あなたと私の冒険の終わりに

諏訪靖彦

小説

2,857文字

『ショートショートストーリーズ』収録作品を改稿してオルタニア別冊『恋する白色矮星』に寄稿させてもらった作品です。
恋愛ものを書いているとなんかこう恥ずかしくなって背筋がゾワゾワしてくるので、もう暫く書かないと思います。

 

淡い波が砂浜を撫でる入り江の端、なだらかな岩畳の上で、首にスカーフを巻いた少年と少女が真剣な表情で向かい合っている。少女の掛け声と共に、二人は肘を引いてから同時に手を伸ばした。

「やった、俺の勝ち!」

少女は少年の大きく開いた手の平を見つめたあと、少年に視線を向けた。

「あと出しじゃない?」

「そんなことないって」

少女は小さなため息を付いてから少年に背を向けた。そして、「約束だからな」という声を背に受けて岩畳の先に一歩踏み出した。眼下には穏やかな海が広がっている

「ほら早く」

少女は暫し海面を見つめたあと、ゆっくりと少年に振り返った。目じりを下げ、口角を上げ、ふっくらとしたピンク色の唇の奥に真っ白な歯をのぞかせながら、少女は少年の腕を掴んだ。なぜ腕を掴まれたのか理解できない少年が「えっ」と小さな声を上げると同時に、少女は少年の腕を掴んだまま勢いよく岩畳から飛び降りた。鏡面のカンバスに二つの連なった朱色が吸い込まれ、白色の細かな粒が飛散したあと、密度の濃い圧倒的な群青色が覆いかぶさる。そして、収束に向かう鏡面に抗うように二つの顔が海面に浮かび上がった。

 

松の木の間に張られたロープに紺色のスカウトジャケットが二つ、ハーフパンツとスカート、白い靴下と黒い靴下が並んで干してある。それらは時折海風に吹かれ、松の木の下に置かれた携帯レコードプレーヤーから流れる音楽に合わせて踊っているように見えた。

「なんで俺まで飛び込まなきゃいけないんだよ。ルール違反だ」

「でも、気持ちよかったでしょ?」

白いブリーフを穿いた少年は、自分を見つめ笑いかける瞳に吸い込まれまいと視線を外し、少女の胸元に目を向ける。しかし、直ぐに視線の向き先を間違えたことに気付き、顔を上げ、首を曲げ、ピントの合わない水平線に目を向けた。

「どこ見てんのよ。見つめ合って腰に手を添えなきゃだめなの。そうじゃなきゃ、一緒に踊っているように見えないでしょ?」

ゆったりとしたショーツと、本来の意味を成さないほど小さなブラジャーを付けた少女が少年の横顔に向けて言った。

「だって恥ずかしいじゃん。誰も見てないんだから適当でもいいだろ?」

少女は少年の返答に小さなため息を付く。

「あなたって本当に子供ね。誰かに見られているとか誰も見ていないとかの問題じゃないの。ダンスっていうのは誰も見ていなくても、誰かに見られていることを意識して踊るものなのよ」

少年は少女に視線を戻して少女の腰に手を添える。想像していたよりもずっと柔らかい少女の肌に驚き手を放すが、もっと触れていたいという衝動にかられ、また少女の腰に手をまわした。

「そう、それでいい。このまま音楽に合わせて体を左右に動かすの」

「うん、分かった」

砂浜を撫でる二人の足先と、レコードプレーヤーから流れる音楽が波の音と共鳴する。

「次はどうすればいい?」

「あなたはどうしたいの?」

少年はまた少女から視線を外す。次にしたいことは分かっている。分かってはいるがそれを口にしていいものか、口にしたらどうなるのかを想像して、少年は少女と目を合わせることが出来なかった。

「分からないや」

少年は少女の肩口の先にぼんやりと見える砂を見つめたまま答えた。その顔は緊張でこわばっている。少女は少年の肩に添えた手を引き寄せ、少年の耳元でそっと囁いた。

「私はキスがしたいな」

少女は少年の肩から右手を離し、その手を少年の首の後ろにもっていく。少年の肘に添えられた左手は、少年を包み込むように自身の右肘を掴んだ。赤み掛かった太陽光が海面に反射し、モザイク状の光の渦に照らされた二人の顔が重なった。波が引いた後に残る黒いシミが次の波に飲み込まれる前に、少女は少年から顔を離した。

「どうして?」

「さあ、どうしてかしら。意味を探しちゃいけないことかもしれないよ」

それは少女の一時の気の迷いや出来心であったかもしれない、しかし、少年が望んでいたことでもあった。少年は少女の腰に添えた手を離し、俯き、足先を撫でる波を見つめながらポツリと呟いた。

「気持ち悪いことすんなよ」

 

 ※

 

仏間の中央に敷かれた四隅に脳細胞の発火と位相を表すような規則的な朱色の刺繍が施された布団の中から、息継ぎをするように覗いた年老いた男の顔の、油分が失われて土気色になった口元がかすかに動いた。老人の周りには袈裟の上に絡子を羽織った僧侶、裟のみを着た僧侶、老人の親戚縁者が取り囲み座り、皆、土壁に映し出された思考モニタの映像に目を向けている。老人の頭にはヘッドギアが被せられ電極が埋め込まれた部分から延びる無数の細い管が透明のスパイラルチューブで一つに纏められ、土壁に向かって放射状の青白い光を放つ情報端末に接続されている。細かい凹凸がある土壁に映し出された映像には、砂浜に向かって唾を吐き、走り出す少年が映っていた。

「こ、このときの、」

僧侶は老人の言葉を汲み取り、情報端末に手をかざした。情報端末の上にボウっと赤色光の球体ホログラムが浮かび上がる。僧侶がそれを指先で操作すると、土壁に投影された映像が止まり、少年と少女が向かい合う場面まで巻き戻された。

「ゆっくりでいいですよ。このとき、あなたはどうしたかったんですか?」

僧侶は老人の口元に耳を寄せ、優しく語り掛けた。老人に話しかけている僧侶の隣で、袈裟のみを着た僧侶は合わせた手をゆっくりと上下させながら、普回向の経を唱えている。思考モニタの片隅に表示された老人のバイタルは規則性を失い、死期が直ぐそばに迫っていることを示している。親戚縁者たちは老人の次の言葉を聞き逃さぬよう土壁から老人の口元に視線を移動した。

「前の晩に、ばあちゃんが二人で遊ぼうって誘ってくれたんだ。二人で計画して、隊長や班長に見つからないように抜け出して、砂浜ではしゃいで、びしょびしょに濡れた服を乾かしながら、ばあちゃんと踊れて幸せだったよ。でも、その気持ちを素直に伝えることが出来なかった。俺は幼かったんだ。ばあちゃんとキスが出来て舞い上がるほど嬉しかったのに、それを素直に言うのが恥ずかしかった。だからあんなことを、心にもないことを言ってしまったんだ」

「本当はなんと伝えたかったんですか? 輪廻から解脱した先で奥さんが待っていますよ。三界六道に繋がる帯を断ち切るには現世を悔いてはなりません。後悔自体、なかったことにしなければならないのです」

老人は一つ一つの言葉をかみしめ、絞り出すように言った。

「好きだって言いたかった。大好きだって言いたかったんだ。今も昔も、これからもずっと」

 

 ※

 

足元を撫でる波を見つめる少年の手はきつく握られている。少年が呟いた言葉に対して少女からの返事がない。少年は恐る恐る顔を上げた。少女は驚きの顔を見せていたが、その表情は少年と視線が合うと直ぐに笑顔に変わった。

「私も、私だってあなたのことが好き」

「ほんと?」

「うん。だから、もう一度私の腰に手を添えて」

 

(了)

2019年12月7日公開

© 2019 諏訪靖彦

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