「それから、彼女はどうなったんですか?」
「ミナは死んだよ」
茅野ヒナコは「そうですか」と俯いて僕のノートを閉じた。その目に浮かぶ涙を、僕は不思議な気持ちで見つめていた。
アリシアの危険性が世間に問われてからも、人間はもはや自らの能力の一部と化したその機器から離れることはできなかった。ミナがいなくなった世界で、僕はいつまでも彼女の問いへの答えを探し続けていた。
平凡なサラリーマンとなった僕は、何度か小説の新人賞に作品を応募してはいたが、一次選考も通ったことがない。
物語を綴る理由を自分の中に持つことができないことが原因ではないだろうか。僕は彼女のために書くことを決め、そして唯一の読者は、もうこの世界に存在しないのだから。
いや、単純に僕の文章が基準に達していないからだろう。熱意もなく漫然と綴られた素人の文章に何の価値があるというのか。
茅野と会うようになったのは先月の会社の飲み会からだった。
彼女はそこの居酒屋でアルバイトしている大学生で、家から近く自分で作るよりも安く夕飯を済ませられることに気づいた僕がそこへ独りで飲みにいくようになってから少しずつ話をするようになった。
彼女はヘルマン・ヘッセが好きだという今時珍しい文学少女で、同じくヘッセが好きな僕はいつの間にか彼女と話すためにその店に通うようになっていた。
「ヘッセの郷愁で、恋は人を幸せにするためにあるのではなく、人が悩んだり耐え忍ぶことにどれだけ強くありうるか示すためにある、みたいなことを言うところがあるよね」
「美人画家エルミニアとボートを漕ぐ場面ですね」
「けれど僕は、彼女のように強くあることはできなかった。それなのに主人公のように旅をして何かを見出すこともできなかった。ずっとその場所に、その時間に囚われ続け、何も見つけられずにいる。あの日から、僕は立ち止まったままだ」
茅野は手を伸ばしていいのか迷うように彷徨わせ、結局自分の膝の上に戻した。僕はどうして彼女にこのノートを読ませたのだろう。何を期待していたのだろう。ただ自分の弱さを誰かにぶつけたかっただけだろう。なんて迷惑な大人なんだろう。
「彼女は、このノートを読むことはできなかったんですか?」
「そうだね。ミナが読んだ僕の小説は、読んだのかどうかわからないけど、あのクリスマスの日に僕が彼女に渡した童話だけだ」
「それから、彼女は意識を取り戻すことはなかったんですか」
「いや……」
あれから、ミナは空っぽの現実と悪夢を何度も行き来した。アリシアを失った彼女の脳は、片岡の思惑とは違い、忘れたかった子供時代の記憶に強く囚われることになった。
その記憶はミナ自身によって改変され、彼女を苦しめ続けた。意識を取り戻すたび、混乱した記憶の中で彼女は何度も藤崎ミナに殺された。
取り乱すミナはやがて精神病棟に移され、僕は薬でぼんやりとした彼女の隣でノートに文字を綴り続けた。
やがて僕は就職し、リョースケは富山大学の院に進学することになった。
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