正という名の男がいる。その男は現在地球上に存在する196か国、その中のいち国家である日本の、数えきれない程存在するサラリーマンの一人である。身長体重年収などのあるゆる情報は、大体が日本人の平均と同じぐらいだ。家庭を持っており、妻が一人。子供はいない。趣味は読書。彼を知らない人間がこの情報を見たら、誰もが普通の男だと思うだろう。いや、正直なところつまらない男だと思うだろう。事実、彼はつまらない男だった。真面目な性格で、仕事ぶりと言えば目立った成績は無いがそつなくこなした。女遊びもしない、飲み会で目立つことも無い。それが悪いことかどうかは別として、彼の事を知る人間は総じて彼をつまらない男だと認識していた。
「ただいま」
「おかえりなさい、あなた」
たった今、正は仕事から帰宅した。帰宅時間は、いつでも決まって20時ぴったりだった。妻は、廊下の先にあるリビングから、いつもの決まった文言を伝えた。
「レンジで温め直して、好きな時間に夕食を召し上がってください。お風呂の準備も出来ていますが、どうしますか」
正は廊下を駆け抜け、丁寧にバッグを置いた。ゆっくりとネクタイをほどきながら、妻の方を見た。機械の様な女だ、正はそう思った。少なくとも出会ってから結婚するまでの間は、妻はそういった女では無かった。互いにそれなりの愛情を持って接していたと記憶している。だが、抗いようも無く毎日が同じ事の連続で、妻もその潮流の一部になってしまったようだった。お前は機械のようだと、口に出して言ってやろうとし、するりと脱いだスーツをハンガーに掛けた。一瞬、スーツの胸ポケットに収められたペンに、自分の顔が反射した。その時、潮流を起こしている人物が誰なのかを認識し、ため息をつくとそれを言うのをやめた。開きかけた口は別の言葉の為に使うことにした。
「そうだな、実は、仕事の為に調べなきゃいけない事がある。それを片付けてしまいたいから、夕食も入浴も、後で行うことにするよ」
そう言いながら、服を完璧に着替え終える前に動き始めた。妻はその言葉にただ頷き、視線はテレビの方に向けられた。正は軽やかな足取りで自室に向かい、静かに戸を閉め、鍵を掛けた。窓からうっすらと差し込む夜の街明かりだけが部屋を照らし、不気味な雰囲気の部屋の中で、正は準備運動を始めた。身体の至る部位を入念に解した。妻に言った調べ物をするというのはつまらない嘘だった。薄暗い部屋の中で、調べ物の為に本を広げるとか、コンピューターの画面を食い入るように見るとか、そんなことはしない。それらは全て、電気の付いた明るい部屋ですることだ。
「そろそろだな」
正は、窓の外に広がる夜空で、月に掛かった雲が自然に払われるのを確認すると、中途半端に来ていた衣服を全て脱ぎ捨てた。掛けていた眼鏡も含め、それらを全てベッドの上に置くと、正はその場にしゃがみ込み、欠伸をしながら髪を手櫛で撫で始めた。短く切られた髪が、余すこと無く撫でられると、今度は、人間がするようなものでは無い、おかしな姿勢で伸びをした。両手を前に突き出し跪くような体制になると、一気に尻を上に突き上げた。正は恍惚の表情を浮かべ、口を緩ませた。
「にゃあ」
彼はカーペットの上をあっちへこっちへと転がり、少し伸びた爪を壁紙に食い込ませ、傷を付けた。月が未だ何にも阻まれず夜を照らしており、正はそれを呆けた顔で眺めた。すると、意図的に開けていた窓の隙間から、小さな羽虫が一匹、部屋に侵入した。羽虫は部屋の壁や天井、床や中空を縦横無尽に飛び回った。正はその姿をしばらく見ていると、胸の底からメラメラと燃え盛るような感情を抱いた。羽虫は迷い込んでここまで来てしまっただけなのだが、彼の目には、我が物顔で部屋を自由に飛び回る羽虫を、敵として見ていた。自分の爪の先端を確認し、それが羽虫を無惨に斬り殺すビジョンを脳内で思い描くと、正は唸り声を上げた。羽虫はそれに気付く素振りも見せず、あちらこちらを飛んでいた。正はいよいよ、身体中を満たす野生を抑えることが出来ず、羽虫に飛びかかった。
「にゃあああ!」
正は羽虫に向かって、我を忘れて爪を振り下ろした。しかし爪の先が、先程の脳内シミュレーションのように羽虫を殺すことは無く、ただ巻き起こる風が羽虫を吹き飛ばした。それでも正はひたすらに羽虫の命を狙った。彼の全身の筋肉は強く熱を帯び、その熱は正常な判断を奪った。彼の勇敢な雄叫びは部屋を構成する四方の壁を揺らし、反響した音が鼓舞してくれているようだった。結局、爪の攻撃は一つも当たることは無かったが、羽虫は窓の隙間から夜の闇に消えていった。正は羽虫が部屋からいなくなったのを確認すると、またカーペットの上に寝転んだ。今度はうつ伏せの姿勢になり、両手両足を床と自身の肉体の間に収容する様な形を取った。
「ふにゃぁ……」
彼は大きな欠伸をすると、そのまま眠った。戦いを終えた戦士の肉体は、静かな休息を欲した様だった。暫くの静寂の後、ぱちりと目を開けると、月はまた雲によってその姿を半ば隠されおり、彼ははっとした。二本の足でゆっくり立ち上がると、ベッドの上の眼鏡を付け、クローゼットから部屋着に着替えると、自室から出た。
「あなた」
妻がまだリビングでテレビを見ていた。正は妻と目が合い、何となくこちらを不信に思っている目をしている様に見えた。しかし、自分は何もしていない。何も悪いことは無いというのに、不信に思われることも無いと思い、ソファに腰を下ろした。
「凄い汗ですね、お疲れ様でした。」
「……ああ」
「そういえば、この家の近所に猫がいるみたいなんです。このつまらない日々が変わるというのなら飼いたいです、ここがペット禁止のマンションでなければよかったんですけどねぇ」
「猫だって?猫ならもうこの家に……」
正は全てを言い終わる前に、自分が何を言おうとしたのかを忘れてしまった。この家には一匹の巨大な猫がいて、それを飼っているような気がした。先程は自室で、なぜだか床で眠りこけていた様だから、それは夢で見たものだと自分に言い聞かせた。
「……いや、なんでもない。それより、私は夕食を済ませ、入浴をし、寝支度をして明日に備えるとするよ。明日もいつもどおり、仕事があるからね」
外では雨が振り始めた。月は完全に雲に覆われて、見えなくなってしまっていた。
大猫 投稿者 | 2019-07-26 23:43
面白かった。メガネをかけて真面目くさった男が、わざわざ櫛で髪を撫でつけて猫になり切る情景を想像したら笑ってしまった。セリフが昔風というかわざとらしいところがまた良いし、妻もどうも気が付いているくせに「猫を飼いたい」などと言い出すところも楽しい。ストーリーらしいストーリーはないのだけれど、話術と風景描写で読ませる。それにしても本作を読んで、猫ほど憑依しやすくまたされやすい生き物はいない、と新たに確信したことであった。
多宇加世 投稿者 | 2019-07-27 06:40
「凄い汗ですね、お疲れ様でした。」「そういえば、この家の近所に猫がいるみたいなんです。このつまらない日々が変わるというのなら飼いたいです、ここがペット禁止のマンションでなければよかったんですけどねぇ」妻はつまらない日々というが、もう自分が夫という猫を飼っているのを知っているのではないかと思わせ、このセリフの加減がとてもいいなと思いました。タイトルもとても良いと思った。
Blur Matsuo 編集者 | 2019-07-27 13:15
現代的なテレビドラマに出てそうな一般的な夫婦像と、月明かりによって変身する“猫男”が部屋で羽虫と戯れるというストーリー的には平坦なところも描写の妙で読ませるところは凄いと思います。妻が気づいている、もしくは妻も? という気を起させるところにも上手さを感じました。
中野真 投稿者 | 2019-07-27 14:00
描写が上手いので読んでいて同じように猫になり発散させていただきました。気持ちよかったです、ありがとうございます。
諏訪靖彦 投稿者 | 2019-07-27 14:40
不条理のまま終わらせるのかと思ったら妻のセリフで落としましたね。うまいと思いましたが、欲を言えば「猫だって?猫ならもうこの家に……」以下バッサリ切った方がスッキリ収まると思いました。
佐々木崇 投稿者 | 2019-07-28 04:52
20時ぴったりに帰ってくる。
この旦那さんはきっとめちゃくちゃ奥さんを愛していると思うし、奥さんもまた同じなのだろうと思う。
こうゆう家庭なら、19時ぴったりに帰ってくる社会になって欲しい。
波野發作 投稿者 | 2019-07-28 07:43
ワーキャットのいる情景。それだけではあるが丁寧に織り上げられている作品。ただ、変身して戻るというだけではあるので、少々抑揚に欠ける気はする。
牧野楠葉 投稿者 | 2019-07-28 18:45
「このつまらない日々」と嫁が言っているのが面白かった。直接旦那に言っちゃうんですね。
沖灘貴 投稿者 | 2019-07-28 20:09
猫と女の親和性は高いですが、男と来るとは。
主人公は妻を機械のようだと評していますが、20時ぴったりに帰ってくる様子を見ると、主人公も自分のことを同じように見ているのではないかと勘ぐります。
対照的に猫=自由な存在というのが上手く描かれていて、良いなと思いました。
Juan.B 編集者 | 2019-07-29 13:31
時間通りに規則正しく生きるつまらない日々の夫婦と、猫男への変身が同時に存在する世界が良くできている。平坦だが、最後に変化の予感がありそうで、しかし無いんだろうか。
Fujiki 投稿者 | 2019-07-29 20:18
変身譚として面白いと思う。文章は淡々としている。男の平凡性を引き立てる狙いを持った文章なのだろうが、もう少し色気のある文章の方が雰囲気が出るんじゃないかと思った。