あなたはいい写真というのがそもそもよくわからなかった。被写体がタイミング悪く目をつむった写真とかじゃなければなんだっていいのじゃないか。木の幹から陰毛までの真っ白い素足が横に飛び出してるとかでなければいいじゃないか。あなたには妻と小さな娘がいる。あなたはそもそもいい写真というのがよくわからなかった。あなたはそんな男だ。
娘は小学校に上がったばかりだ。このあいだの月曜日、入学式のあとで桜の木の下で黄色い帽子に、黄色いカバーをかけたチョコレート・ブラウンのランドセル姿の娘の写真を、あなたと妻はそれぞれiPhoneとミラーレス一眼で撮った。ほかの桜の木もあったのだが、その枝ぶりがあまりに立派なものだったから、順番待ちが前にも後ろにできていて、いざ順番が来ても、娘が恥ずかしがったし、数枚しか撮れなかった。でも後ろに並んでいた、あなたと同じような組み合わせの家族に三人揃っての写真も撮ってもらえた。ところが家に帰ってからパソコンを眺めていた妻がしょんぼり、
「このミラーレス、あなた使う? 私、写真やめる」と言いだした。
あなたは言った、
「どうして? 君が気に入って買ったんじゃない」
だってほら見てよ、と妻がカメラを差し出してきて、筐体の上部を指さした。あなたは一見わからなかったので妻が補足した。
「ここ。〈P〉じゃなくなってる。ダイヤルが。〈M〉になってる」
〈P〉はプログラム、〈M〉はマニュアルだろうか。
「あの人、さっき撮ってくれた人、〈M〉で撮った。私はそんなの使えない。使いこなせない。さっきパソコンの大きい画面で見たら私が撮るよりいい写真だった。で、いまカメラ見たら見たことない設定になってた。調べたらこの数字、露出とか絞りとかなんだって。私のカメラなのに。なんかどうやって戻せばいいのかわからないし。とにかくもうこのカメラいい」
あなたの妻は軽く癇癪を起していた。
「おかあ、登校班やっぱりミチャーンと一緒だった」
何も知らぬ娘が母の背中から抱き着いた。
試しにダイヤルを〈P〉に回すとカメラの液晶の数字の表示が消えた。でも、それを妻に言ったって駄目なんだろうなとあなたは知っていたので、
「じゃあ、まあ貰うというか、とりあえずお借りする」
妻はそれにも何か言いたげだったが、口を閉じた。
いい写真というものがわからなかったあなたは、いい写真を撮る、という以前に、そもそも写真を撮影するということ自体に興味を示さなかった。でも、写真を眺めるのは嫌いではなかった。といっても写真展や写真集まではカバーしていない。ただ日常生活で何気なく目に飛び込んできた写真を見るというだけ。新聞の写真なんかを見ることが最も多かったかもしれない。あとは通販の商品の写真。もしかしたら新聞の写真なんかよりも多く見ているかもしれないが、これは写真というより画像に近い、とあなたは思う。こういうのは写真とは言わないんじゃないか? でも、インターネット通販にしろ、カタログ通販にしろ、こういう商品を撮影している誰かもこの世には存在するのだ、と思った。そして、それでお金をもらっているのだろう。ああ、そうだ。とあなたは気づく。ネットオークションの写真の羅列だってよく見る。あれなんかは出品者が自分で撮っているのだ。ひょんなことからカメラを手に入れたあなたはそんなことを考えた。
娘はあなたたち夫婦の心配もよそに、楽しそうに登校しているようだった。そんな次の週のことだった。あなたが職場から帰ってくると、妻が目を三角にして待っていた。
「どうしたの?」
「ねえ、おとう、ミチャーンがね」
「まあ待て咲、どうしたのそんな顔して」
「だから、おとう、ミチャーンがこれをね」
「そう、これ見て」
どうやら娘と妻は同じことについて話しているらしい。娘は怒りの感情は持っていないようだったが。二人に見せられたのはあなたたち家族の住む地域の情報誌だった。そこに見覚えのある顔が三人。一人は男性で、iPhoneを構えている。もう一人は女性でカメラのファインダーを覗いている、そしてその先には桜の木の下で恥ずかしそうにしている女の子が。
「なんだ僕たちじゃないか」
そう、それは先週のあなたたちなのであった。ほかの写真よりひときわ大きくページを占めており、写真にかぶるように楽しそうなフォントで〈パパ、ママ、恥ずかしいからはやく撮ってヨー!〉とあたかも娘がそう言うかのように書いてある。
「なんで僕らが載ってるんだ? 誰が……」
「これ、桜をお題にしたフォトコンテストなんだって! で、私たちのこの写真が大賞なんだって! こんなのアリ?」
「本当だ。『今月のお題・桜のある風景』か」
「本当だ、じゃないよ、ここ見てよ!」
「どこ、ああ、『大賞五千円・佳作千円』……」
「私たちでお金もらってんのよ、この『吉くんのじいじ』!」
「ん? 『吉くんのじいじ』って誰?」
「写真の下、投稿者のところ見なよ! これ撮った人!」
「ああ、あの時、後ろに並んでた人の誰かなのかな?」
「はあ、当たり前じゃん。でなきゃ写真撮れないでしょ」
「そっか」
話を聞いていくと、どうやらこの情報誌のこの写真に最初に気づいたのは娘の友達のミチャーンの家族だったのだという。そして、妻は「これは肖像権の侵害」だとこの情報誌の編集部に電話をかけた。だが担当者は、
「撮影者の写真著作権もありますので、『吉くんのじいじ』さんの連絡先はお教えすることができません」
と言ったのだという。
「おかしくない? こっちだって許可したわけでもないのに顔写真撮られてんだよ? しかも咲の顔こんなに大きく載せて!」
「うーん……」
「なによ?」
「君はこの『吉くんのじいじ』が僕らの写真でお金をもらったのを怒ってるの? それとも勝手に撮られて、しかもこんなふうにいい写真を撮られて、載せられたことを怒ってる?」
「はあ、どっちもじゃん! あなた腹立たないの?」
「いや、腹立つっていうか、記念に……」
「き、記念に?」
「記念にいいんじゃないかと」
あなたはそんな男だ。
波野發作 投稿者 | 2019-05-23 16:28
二人称小説というものは実在するが、多くは失敗に終わっている。しかし本作は成功している。何が違うのか。たぶんそれは愛だと思う。自動的にぼくらは「あなた」にされ、自然に流れるように家族の出来事を追体験する。だが、いやじゃない。ぼくはいい人となってエンドマークを迎える。いい記念になった。
大猫 投稿者 | 2019-05-25 23:02
波野さんの指摘通り二人称を使うことで読者が「あなた」と一体化できている。カメラの腕やら勝手に写真を使われたことで怒る妻に「どうしてそんなことで?」と「あなた」と一緒になって感じることができる。「ミチャーン」とか「吉くんのじいじ」とかネーミングも素敵。良い作品だと思う。ただしテーマの「善悪と金」の追求がやや弱いと思った。
駿瀬天馬 投稿者 | 2019-05-26 15:27
興味深く読みました。二人称小説はどうしても他の人称小説と違って、「その作品が二人称で書かかれる必要性」みたいなものを考えながら読んでしまうので、そういう意味ではハイリスク(余計なハードルができるという意味で)だと思うのですが、そういうリスクをするっとクリアしていて、上手だなぁと純粋に思いました。すっきりとした文体でまとめられているおかげなのか、読み手としてもストレスを感じずに読むことができました。あなた、あなたが見ていた妻子、あなたが見ていた妻子とあなたを撮った写真、というメタ構造になっているのが良かったです。ただそういう目をひくような部分があるからこそ、逆にテーマの影が薄くなってしまったのかなと思いました。
退会したユーザー ゲスト | 2019-05-26 15:35
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Fujiki 投稿者 | 2019-05-27 05:49
わざわざ行列を作って、同じ桜の木の下で、おそらくは同じようなアングルで、同じような笑顔を浮かべて撮る家族写真。その儀礼的な行為が内包する凡庸さの中に「あなた」の一家は浸りきっている。マニュアル操作で撮られた写真や受賞写真に対する妻の感情的な反応は、違う世界の見方を見せつけられて彼女が安住する凡庸な世界が揺らぐことへの恐怖、自分の世界観が相対化されることへの不安と言い換えてもいいかもしれない。セリフの論理破綻ぶりを通して妻が生き生きと特徴づけられていた点にはすごく魅力を感じた。
「あなた」が妻から譲り受けた一眼レフを最後まで使わない点にはいささか肩透かしを食らった。主人公がカメラを手にしたことをきっかけに物語が何らかの形で動き出す、あるいは主人公が何らかの形で成長を遂げるかと思っていたら、物語は一眼レフの話題を離れて雑誌の受賞写真の話題へと移っていく。せっかく一眼レフをもらうという意味ありげな前フリがあるのだから、できれば主人公には一眼レフを使ってほしかった。
Blur Matsuo 編集者 | 2019-05-27 14:28
とても面白く読みました。妻の倫理観に対する「あなた」と鋭い指摘が日常にある“善悪”を浮き彫りにしており、上手いと思いました。妻の不貞腐れる感じも愛らしく、その家族を捉えた写真が大賞を獲ることで、この家族の温かみみたいなものを描き出すのに桜が象徴的に使われていることもこの掌編の完成度の高さを物語っていると思います。
牧野楠葉 投稿者 | 2019-05-27 22:24
面白かった。絞りとか、写真の細かなものを使いこなせない、同じような写真ばっかり撮っている自分に気づいた妻のセリフがよい。
伊藤卍ノ輔 投稿者 | 2019-05-27 23:05
主人公と家族のやり取りがリアルで、その前提で進んでいく物語が心地よかったです。
ただ、写真を載せられたことによってひと悶着はたしかにあるのですが、それによる効果が家族のそれぞれの立場を明確にしただけにとどまっていて、心境の変化や状況の変化もないので一辺倒になってしまっているところが惜しかったような印象を受けました。
一希 零 投稿者 | 2019-05-28 00:04
何度か二人称の小説を、僕も書いた経験があります。その経験から、個人的には二人称の最も重要な点は「書き手がその文章を読まれることを想定している」ということだと思っています。すなわち、読者の存在=あなた、を前提に書かれた文章であり、あなたが存在しなければ破綻する文章です。これが僕なりの二人称に対するひとつの解ですが、この小説はまた違う意図で二人称が使われているようにも思い、その意味でもとても面白く読みました。写真のモチーフと物語と人称の関係に必然性が多分あるのだと思いますが、僕にはそこまで分析できませんでした。
「あなたはそんな男だ」が、初めに出てきたときは、その語りにやや違和感を覚えたのですが、最後にもう一度出てきて、なんだか上手くゴールを決められた感がありました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2019-05-28 01:23
今回の合評会で一番好きな作品です。「善悪と金」というお題を自然で善良で角がなく、なんともぬくもりあるの体温でまとめた良作。(私が言うのもおこがましいですが)筆力は補うに十分な力を持って私の心にすっと入ってきました。昔はこんな未来を思い描いていたんだけどなあ。
Juan.B 編集者 | 2019-05-28 01:41
何気ないといおうか、騒がしいようで静かな家族の日常が伝わってくる話である。理不尽だがやっぱりいつも通りのみんなという雰囲気が良く出ている。「吉くんのじいじ」も「あなた」も、良くも悪くもない(あまり責められも褒められもしない)のがリアルだ。
写真の事なら、詳しい同人が二人いるはずだが、今回参加されてないのが残念である……。
沖灘貴 投稿者 | 2019-05-28 15:14
主人公は「これを読んでいる私」というのが挑戦的でいいと思います。妻がマニュアルで撮れないことで癇癪を起こすシーンから、今後娘が反抗期を迎えた時の妻の対応を想起しました。きっと投げ出すのだろうな、、
終わり方ですが、逆になにかの始まりを示唆しているように思えてなりませんでした。この小説は起承転結の起に当たる部分だと思いますが、ここで終われたことが読者にとっても私にとっても良いことなのではないかと思いました。