其れから一週間が経った。この間ずっと私は尊文から離れていた。現役の作家の評伝を書くと云う行為に困難が伴うのは承知の上であったが、このように、角を曲がった先に作者当人が待ち構えていると云う風情では、評伝が完成する/しない以前に、私の方が人間不信に陥りそうで恐ろしかった。
殊に季節は秋である。
今年は特に台風が多く日本に上陸した。今もそうである。私がこの文章を綴っている部屋の外では、雨風、勢い凄まじく、突き破らん限りに窓を叩いている。今日は近所の市民ホールで『雨月物語』に就いての講演を予定していたのだが、避難勧告が出たとの事で、朝早くに中止の報告が来た。私は、その電話の音で目を覚ました。講演用の原稿を書くのは好い気分転換になった。講演が上手く行けば、その流れに乗って、尊文研究も上手く軌道に乗ってくれるのではないかと、そのような期待で以て昨日の夜は床に着いたのであったが……、これではどうにもいけない。
私は、虚しい想いでその発表用原稿に目を通した。本来ならこう云う時にすべき事では無いのだが、どうにも気分が腐り、一寸自分を苛めてやろうと云う気を起したのであった。してみると、あれ程にスラスラと出でた言葉たちが、尽く死んでいる事に気づくのであった。一文目から既にボタンを掛け違っているけしきなのだ。言葉は言葉を呼ぶが、そこには何らの生産性も無い。即ち内容が無い。これは研究者兼批評家にとって致命的であった。こんな物を市民ホールで発表したのでは……、いや、市民ホールでの公演が不出来だからと言って見ず知らずの誰かから後ろ指をさされる事なんぞ在り得る事で無いのは重々承知しているのだが、しかし誰が悪く言わずとも、他ならぬ私自身の目が、白々しく己を刺す事になるだろう。
其れでなくても、私にとり上田秋成は大事な作家であった。大学の卒業論文は秋成で書いたし、ついこの間も、母校の大学で「小説家の俳句を読む」と題して夏季の特別講座を開き、その一コマの中で秋成を扱ったばかりである。尤も秋成の俳句は、中村真一郎が『俳句のたのしみ』の中で指摘している通り、「小説家が書いた俳句」の域を出ないもので、「俳諧とは本来こんなものだろう」と半ば開き直ったかの如き大味の諧謔が見られる以外は、特にどうと云う事の無い代物である。ものが大した事は無いのだから、私の講義の出来不出来は特に問題とはされなかったし、私としても殆ど遊び感覚で講義を行えた。講義の最終日などは、学生に俳句を作らせてみたりして、殆どお茶会のけしきであった。あれは一寸好い加減だったと、今になって反省の念が押し寄せてくる。
尊文が駄目、秋成が駄目。
即ち、研究が駄目。
……私はインチキ研究者の烙印を己に捺した。
「君は一体何時になったら秋成に就いてまとまったものを書くんだね。」
ついこの間も、恩師の田原彰先生にそう言われたばかりだった。その時私は、前日から講演用の原稿を書き始めていた事もあり、嘘を吐いていると云う意識毛頭無く、
「今年中には発表したいと思っています。」
と自信満々に答えたのであった。本を出すどころか、講演までポシャッてしまったのでは、これはもうはっきり嘘を吐いた事になるだろう。
聞く処に依れば、田原先生は近頃痛風を患われたらしく、半年振りに二人で呑み屋に行ったと云うのに、好物である日本酒は一度も頼まれず、赤ワインと白ワインを交互に口にされていた。
「日本酒と近代文学だけに生きたようなものだったんだがねェ。酒が駄目になったら、研究の方もどうもやる気にならんね。サボりがちになる。痛風には、焼酎よりはワインが良いなんて言うが――本当かどうかなんて知らないよ、わたしは化学なんぞ全く知らない――しかし美味くないもんは美味くないのだから、これだったらウーロン茶でも同じだよ。」
先生は、とろりとした目でそうおっしゃった。もう二十年来のお付合いになるが、先生が健康に就いて何事かを仰るのはこれが初めてであった。
「君も気をつけなさい。君は愈々酒の味を知らずにここまで来たが、まァ無理に知る事も無い。秋成なら秋成で、西鶴なら西鶴で、戦後文学なら戦後文学で、好きに書くのが一番だね。」
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