何の変哲もない縦長の封筒が全部で千枚はあるだろうか。試しに一番上に載った手紙を一枚、箱から取り出してみる。しっかりと糊で封がしてあり、ここで開けてしまったら元には戻せない。しかし、表にも裏にも何も書かれていないので彼の母が毎日、枚数を数えていない限りは何枚か抜いた所で疑われる事もないだろう。毎日書き上げては上に重ねているのだろうから底に近い方が日付は古いはずで、彼の母の食事の時の様子からすると右利きであり、手紙は左から右へと順番に置かれているはずだ。一番下の左と一番上の右の二枚と、無作為に真ん中の三枚封筒を取り出す事に決めた。全ての手紙に目を通す必要はないだろう。圧倒的な量は封筒の外から目で見て分かっているし、変化のない日々に書かれている手紙の文面に然したる違いが顕れているとは思えない。況してや彼の母は主婦であり、芸術家ではない。手紙の中にその日の天気が記されているとしても、それはただの記録であって心理にまで踏み込んだものではないだろう。幼い頃の両親の寝室でのパニックを思い出し、順番を二回確認し、慎重に左の列から取り出す。傾れない様に右手で残った手紙の束を支えつつ、左の一列を二回に分けて取り出す。箱の底では蟻の死骸が干涸びて潰れていた。隣の列もまたその隣の底も同様で、死骸は全部で二十三匹だった。蟻の体液だろうか、一番底のクリーム色の封筒には点々と沁みが出来ていた。蟻は手紙の意味を知っていて甘い言葉に群がり、日々増す重みに耐えていたのかもしれない。慎重に扱いすぎたのだろうか、時計を見ると先程の電話から十五分が経過している。慌てて青い木製の箱に残りの手紙を戻し奥に押し込み、手前に米びつを置き扉を閉めた。
五枚の手紙を手にその場から立ち上がり、ダイニングテーブルに置いてある鞄の奥に仕舞う。それでも不用心に感じ、手帳に手紙を挿んで再び鞄の底に入れた。テレビをつけて椅子に腰を落ち着ける。雨は相変わらず降り続けている。窓を開け放ち煙草を吸ったら恍惚とした気分になれるだろうが、家の中では失礼だと思い、煙草を一本だけ取り出しライターをポケットに入れ部屋から出る。スリッパを履かない私の足元からはぱたぱたという音はしない。玄関で靴を履いて外へ出る。湿気の多い中での煙草の味は晴れている日とは違い、曖昧で口の中に煙が停滞するが、そんなのには構わず口にくわえて火を付ける。車が見えたら煙草は遠くに投げ捨ててしまえばいい。そして「やっぱり心配で外に出てきちゃった」と一言付け足せばいいのだ。体は一秒毎に雨を吸い、重たく弛んでゆく。一刻も早く手紙を読みたくてくさくさするが、アパートに戻るまでは我慢しなくてはいけない。ここで手紙を読んでいる姿を家族全員に見つかったらそれこそ喜劇だし、意思とは関係なく中断せざるを得ない状況は必ず訪れる。手紙の説明を始めれば簡単に悲劇の一場面だ。恵みの雨が降り注ぐ中、私は深々と煙草の煙を吸い込んだ。
ふとこのまま彼の運転する車が事故を起こし、誰も戻ってこない場面が頭の中を巡る。最後に彼が抱いたのは私で、最後に彼と話をしたのはきっと彼の母だ。彼が帰ってこなかったらば彼のベッドで一晩横になり、淀みなく最後の行為を再現しよう。果たして、八日前の行為だが全てを克明に再現するのは不可能だろう。どんな洋服を脱いだのかや、聞いていた音楽のタイトルは思い出せるが、骨の質感、遍く行き渡る快楽が弾き出す呼吸はどうだろう。体の記憶は虚しい。体には何の証拠もなく、行為は日記の中に残るのみだ。記憶が体に宿らぬ原因は快楽にあるのだろうか。とにかく再現を試みた後、警察に連絡をする。「待っていたら寝てしまって……」などと言って。そして私は彼がいつでも持ち歩いていたウォークマンを遺品として譲り受け、彼の母が書き溜めた手紙は私が処分し秘密を守り抜こう。しかし、私は山岡の名字を斉藤や石川とでも変えて僅かに時間が経過したら、きっと家族の小説を書き始めるだろう。
こちらの方向に走ってくる車が見えたので、慌てて煙草を車道に向かって投げ捨てた。五メートル付近まで近づいてようやく彼の運転する車だと分かる。助手席にはやはり彼の母が座っていた。
「何で外にいるの?」
車から降りた彼の第一声は、当然の疑問を発したものだった。
「やっぱり心配で外に出てきちゃった……」
「大丈夫って電話で言ったのに」
「ごめんね」
「とりあえず中に入ろう。風邪ひくよ」
「うん」
彼はそう言い、私の背中を押す。
「真理子さんごめんなさいね、心配させちゃって」
「いいえ、私が勝手に心配になっただけですから」
彼の母の後ろには彼の父が自分と彼の母の上に傘をさしたまま、大雨の中だというのにぼんやりと微笑み佇んでいる。
家の中に入ると彼の母は人数分のタオルを抱えて玄関まで戻ってくる。留守番をしていたはずの私が彼らに交じって、更にはタオルを最も湿らしていた。
「温かいお茶でも飲みましょうね」
「真理子さんもこの雨じゃ外に出ても濡れるだけよ。今日は泊まって行ったらいいわよ。お布団あるし」
「でも……」
彼の方に目をやる。答えは彼が出すべきだろう。
「そうしたら? 明日、学校一緒に行けばいいし」
「それじゃあ雨がこのまま止まなかったら泊まらせていただきます」
「止まないわよ。とりあえず座りましょう。今、紅茶入れるわ」
彼の父は相変わらず微笑んでいる。
"夕凪の部屋(8)"へのコメント 0件