彼女が言葉を発する時はいつも慎重だった。なにか苦虫を噛み潰したような表情をしたあと、聞き取るのに苦労するくらいの小さな声量で話をした。それでもあの言葉を発した時は、誰もが驚いて彼女の方に視線を向けざるを得ない状況だった。そのくらいにはっきりと、誰の耳にも届くような声量でその一言は彼女の口から発せられた。
殺してやる!
朝、まだ日が昇るより早い時間に目が覚める。あの言葉が夢の中まで染みこんできたかのように頭の中で反響していた。枕元で充電していたスマホを手に取ると液晶画面は午前四時四八分を知らせていた。隣で寝息を立てる彼女を起こさないように気をつけながら、五時にセットしていたアラームを切ってベッドから起き上がる。寝室を音も立てずに移動するには、ちょっとした工夫が必要だ。親指に力を入れて床材を掴むようにして立ち、体重をできるだけ掛けないようにしながらゆっくりと、それでいて最大距離を少ない動作で進んでドアノブをそっと掴む。寝室を出てからリビングルームを忍び足で横切り、バスルームの脱衣所にある洗面台の明かりを付け、少しだけ蛇口をひねって静かに顔を洗う。洗濯機横に置かれた三段ラックからタオルを取って顔を拭いてから鏡面に映る男の顔をじっと見る。
「殺してやる……」
自分に向けて発せられた言葉の響きを確かめるように、そう呟いてもあの言葉の切迫した緊張感とすべてを破壊するような暴力性を伴った響きがそのくたびれた顔の男の口から発せられることはない。リビングルームに戻って、反対側のダイニングルームに移動してキッチンで電気給湯器に水を入れてスイッチを入れる。湯が沸くまでリビングに戻ってテレビをつけると、遠い異国の地で街が爆撃されて瓦礫と化している映像が流れてスタジオでスーツを着た女性が真剣な顔で何かを話していた。キッチンに戻ってコーヒーカップと陶器のドリッパー、紙フィルターを食器棚から取り出して袋詰めのブレンドコーヒーを彼女が蚤の市で買ってきたという銀スプーンで二杯半掬って紙フィルターを敷いたドリッパーに入れる。蚤の市に行く約束を守れなかったお詫びに連れて行った町中華では、あんなに楽しそうにしていた彼女があれくらいでは許す気など微塵もなかったということだったのだろうか。まあ、しかし約束を守れなかったことなどこれまでいくらでもあった。すこし冷ましたお湯をフィルターの縁から内側に向かって右回しに注いでいく。細やかな蔦の装飾が彫り込まれた銀スプーンをシンクに放り、コーヒーが落ちるのを待つ。
カーテンを開けると、白いレースカーテンを通して射し込む柔らかい光が一日の始まりを告げていた。カップに口を付けてコーヒーを啜るとほろ苦い香りが鼻腔をついた。彼女があの言葉を発した直前のことを思い出す。町中華の帰りに電車に乗っていた。席は空いていなくて、優先席の近くに並んで立った僕たちの前にベビーカーの赤ん坊をあやす若い夫婦がいて、少し酔って饒舌だった僕の話に適当な相槌を打つ彼女は彼らから視線を外すことはなかった。そう言えば、彼女はあの夜アルコールを飲んでいなかった。
「子どもなんて考えられないね。俺みたいなクズ野郎は俺一人で十分だよ」
電車のホームに降りた時、三人家族を視線で追っていた彼女の背中にそう言った直後に彼女はあの言葉を発した。
……殺してやる……
窓の外から雀のさえずりが聞こえる。雀の卵って見たことないなと思った。彼らはどこで子を育てているのだろうか。植込みの中とか? コーヒーを飲み干すと、頭が冴えてきた。彼女のことは好きだが、やはり自分が父親になるなんて想像できない。ソファから立ち上がり、カップをシンクに置く。食器棚からジャスミン茶のティーバックを取り出して、もう一度お湯を沸かす。
「おはよう」
お湯が沸くころに彼女は寝間着で洗面所に入っていった。ジャスミンの香りが立つキッチンで彼女にかける言葉を探しても見つからない。
「どうしたの? そんな所でぼーっとして」
「……いや、ちょっと話さなきゃいけないなと思って」
「何を?」
「未来のこと。二人の」
「私たちに未来なんてないよ。別れましょう」
彼女は僕の目にその瞳を真っすぐに向けて言った。これまで見たこともないすっきりとした表情だった。
「……でも、あの子たちに比べたらあるかもね、未来」
彼女はテレビに視線をやって言った。片足が亡くなって横たわる男性の前で自身も頭から血を流している小さな男の子が泣きじゃくっていた。
「別れるって、何で?」
僕はテレビのリモコンを取って画面を消した。彼女は何も言わず、ジャスミン茶を啜って目を閉じた。雀のさえずりが聞こえ、沿道を走るバイクや車のエンジン音やタイヤがアスファルトの上を滑る音がそのさえずりをかき消した。
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