~ 一 ~
どんよりとした、しかし計画的な雲空の下で、私は後部ドアから自動運転車を降りた。外の視界が完全に封鎖されていたため、二時間ぶりの空気だったが、天は張りつめていた。何年か前からか、温暖化に対する根本的対処として、人工雲により曇天を生み出して日射を局地的に隠すようになり、この閉塞感が日本の各地の日常風景となっていた。辺りを見回すと、寂れた住宅地、としか言いようのない光景が広がっている。鈍く、時間が止まったかと思えば急に進みだしたような、色々な時代が混在した人工物だけが全てを覆い尽くしていた。
「ここに……?」
私は思わず口に出した。私の記憶の中の、あの少年と過ごした日々とは、全く結び付きもしない光景だった。前方の邸宅の影に、二人の男がいて、そして片方の眼鏡をかけた男がウンと頷いた後、こちらに近づいてきた。
「ホアンさんですね」
確かに、スペイン語圏の出自であるハーフとしての私の名前が呼ばれたが、それにもどう返事すればいいか分からなかった。ウン、とどうにか頷く間に、男の眼鏡の隅が光り、私は同定されたようだった。
「もう一度車を乗り換えてもらいます。こちらへ」
「これで二度目だ。事情をそろそろ話してもらわないと」
「こちらへ」
男は圧を強めて私に来るように腕を振った。前よりもみすぼらしい有人の軽自動車が走ってくる。
軽自動車の中、男たちに囲まれながら、私はさらに少年との思い出を、ぼんやりと、しかし徐々に鮮明に振り返り始めていた。
「彼は元気なのですか。それだけでも知りたいのだが」
私の質問に、先ほどの二人の男ではなく、運転席の男が、ミラー越しに何かの合図をとった後、答えた。
「元気です。しかしそれ以上のことはここでは話せない」
「元気ならいいが、ならば何故……」
そこまで言ったところで、横のサングラスの男が足を広げ、私の足の側面にじりじりと圧をかけてきた。私はその不気味さに男を一瞥したが、サングラスの隅から見える前方を向いたその眼が赤く光っているのを見て、再び別の存在を感じ黙り込んだ。彼らの職務が何であれ、どう見ても、正規の採用やら試験やら、あるいは出自の分かる範囲のコネやらで採用された人間ではない。だが、それは私も同じだった。
~ 二 ~
私の、人間の脳としてのおぼろげでかつて「瞼を閉じれば」見えるかのように描写されてきた記憶と、デジタルで感傷の余地があまりない記憶が前頭葉で衝突している。比較的容易に行える記憶拡張を行った人間でも、このハイブリッドで衝突と融合を繰り返す新しい感覚には付き合い切れていない者も多い。ただ、どういうわけかバイリンガルの人間は使いこなしやすい、などという与太話もある。自分はどうだろうか? 記憶という用語の意味はこの十年の間にかなり意味が変質した。それはともかく、記憶の中、それも、眼底のさらに奥に仕組まれたメモリの中の記憶を私は思い出していた。あの頃は曇天はまだ自然現象だった。東京の空は広告にこそ邪魔されることはあったが、まだ広いといえば広かった。特に大手町を突き抜けたあの場所の空は。
私はハーフという出自を生かしあるいは生かされ、いつからか、商業的な右翼や保守団体から金を貰い、様々な出自に成りすまして講演を行うという生活を行っていた。Uberの配達員などをしていては到底見れないであろう札束が、税務処理も適当に自分の懐に収まった時、頭の中で何かがはじける音がした。私は自分の出自がデタラメになっていくのと反比例するように、トランスヒューマニズムにのめり込んでいった。記憶拡張手術を受け頭部にメモリを埋め込み、眼球を電子化した。その後会った保守派のある議員はそのことを知り、「目の色」を変えられることでさらに私の価値が上がったことを婉曲的に喜んだ。私はとび色の瞳から青色の瞳に変え、頭の中で記録したYoutubeのクソのような動画をタネに、数百人の保守派を前に、神道がいかに素晴らしい宗教であるかを、情緒的に語った。敷島の大和心を人問わば紅毛藍眼褒め殺しかな。そしてある日、私に、人生を変え得る仕事の話が、ある議員から入ってきた。
広い部屋で、中央に不自然に古びた学習机が置かれ、私はその少年のそばに座って一緒に本を読んでいた。その重厚な学習机は、少年の代々の先祖が使っていたものだという。監視されている視線を感じながら、私はスペイン語の教本を繰り返して読んだ。教本の中では、ドン・キホーテが風車に向かっていく、セルバンテスの物語の有名な場面が一つのユーモアとして描かれていた。
「’¡Malditos gigantes!’ Don Quijote embistió contra los molinos de viento sin escuchar siquiera a Sancho que intentaba detenerlo.」
私に合わせて、少年は以前よりもより流暢に教本を読んだ。次の項では、風車に弾かれてひっくり返り、頭をふらふらさせている漫画的なドン・キホーテの姿で話が終わっている。
「面白いですね」
私に丁寧な言葉で話しかける少年に頷きながら、私は教本をめくっていた。
「本当はもっともっと話が長いんですよ」
「どうなるんですか?」
「この後も色々な冒険を続けて、自分を騙したりからかったりする人に巡り合いながら、最後は正気に戻って、従者のサンチョ達に感謝しながら、眠るように……」
「……」
私はふと思い至り、死とか、亡くなるという言葉を使うのを憚った。しかし少年はただ頷くだけで、次のページをめくろうとした。私は時計を見て、それを留めた。
「もう良い時間でしょう。今日はこの辺で」
「ホアン先生、ありがとうございました」
私を先生と呼ぶ、その小さな頭を眺めて、私はなおさら、不思議な感慨を抱いた。なぜ、私が選ばれたのだろうか。だが今や大体の何故はAIが示してしまう。扉がふと開き、数名のモーニング姿の男たちが私を待ち構えていた。彼らの手元には、日ごとに更新される守秘義務の契約電子ペーパー、菊の紋入りのちょっとした贈答品などが彼らの手に握られている。
私は帰りの電車の中で、中空を眺めた。あの少年は、学校に通っていない。何か制度的なものなのか、通えなくなったのか、それはわからない。だが、彼の出自と来歴は、今や日本の腫物となっている。ふと見上げると、ホログラムのニュースが座席の上部に浮かんでいる。
『……皇太子殿下 南米列国御訪問につき西語を御学習』
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