おはようから始まり、そして張り付けられた笑顔で僕の目の前に朝食が置かれる。トースト、ベーコン、スクランブルエッグ、ちぎられただけの濡れたレタス。毎朝代り映えのないメニューだ。間抜けな顔をした猫のマグカップには紅茶。口を付けると甘ったるく口の中にまとわりつく。
僕はこの朝食が嫌いだ。
健康志向を拗らせた母はこれらになんの味付けをしない。かろうじて塩気のあるベーコンだけが救いだ。そのくせ、紅茶だけはなぜか甘いものをだす。
「ステビアは砂糖よりいいのよ」
そんなことを言いながらスティックシュガー一本と同じ量をぶち込む……全く理解ができない。殺意と疑念ばかりが湧く。
そもそも僕は母親が嫌いだ。
思春期特有のアレではない。普通に嫌いだ。
それでも、僕は笑顔を返す。この女と争うことはむしろ面倒なことになりかねない。
「ねぇ、母さん。今日は早く学校に行かなきゃいけないからもう行か」
「あら、そうなの?だったらサンドイッチにしてあげるからちょっと待ってて。行きながら食べなさい」
朝食たちは雑に重ねられあっという間にラップに包まれはい、と押し付けられる。
やはり、味付けはされない。レタスの水気をトーストが吸っていく様を手の中で見届ける。
そっとカバンの中にそいつを仕舞い、玄関へ向かった。
「ありがとう。いってきます」
「待って、アレを忘れないで」
母はこうして毎朝ハグを要求してくる。僕は息子であるはずなんだが?なぜ、恋人であるかのようなふるまいをしなければならないのだろうか。溜息とさっき飲んだ甘ったるい紅茶を吐きたくなるのを抑え、その要求にこたえた。もちろん笑顔で。
じゃあ、と言うと母は嬉しそうにしながら僕の背中にたっぷりの愛情をこめたいってらっしゃいを投げつけた。
僕の顔からは既にあの笑みはない。見えなきゃいいんだ。どうせあいつは照れているとしか思っていない。
こどもに依存する母親というものは少なからずいる。僕の母もその類だ。平凡で無口なサラリーマンである父は家では独立国家を築き、スマホを眺め続け時折ニヤついている。母の愚痴から察するに、僕が生まれる前あたりからこうなっているらしい。
「虹は私の宝物」
そう、虹と書いてアークと読む、こんなふざけた名前になったのも父が無関心だからだ。本当に迷惑。
駅へ向かう途中にコンビニがある。僕はそこで持たされたサンドウィッチをゴミ箱へ押し込めた。
ああ、清々した。そう思った矢先に「アーク」と聞き覚えのある声がして振り返る。母だった。心拍数が上がる。見られた……いや、それよりもなぜここに?
「アーク……今捨てたの……嘘よね?あなたそんなことしないわよね?」
面倒なことになった。そもそも、後をつけていただなんて思いもしなかった。これは誤算だ。
言い訳も恐らくこの状況では通用しないだろう。舌打ちをしたくなるのを我慢して僕は母と向き合う。
「母さん、ごめんなさい。悪気があってやったことじゃないんだよ。本当は食べたかった。でも、今日はどうしても食べる気が起きなくて……このまま学校まで持って行っても傷んじゃうからさ」
母に近付きその両腕を掴んで「わかってよ」と懇願した。
一瞬迷いを浮かべたが、母は「そうよね」と言ってまたあの張り付けたような笑顔になる。
「お母さんが悪かったわ。ごめんね、アーク。お腹を壊したら大変だもんね」
「でも、やっぱり良くないことだよね。せっかく作ってくれたのに僕こそごめんなさい」
目をうるませて「いいの」と言ったのを見てとりあえずなんとかなったことを確信した。
面倒だな、本当に。なにもかも。
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