二十年も家に寄り付かなかった桃子が急に戻ってきた。村の名物のコブ桃が伐られると聞いたからだ。樹齢推定四百年の桃の大木で、寿命が尽きて倒壊寸前と判定されたのだった。
「あたしと一心同体の木なんだから。あたしの名前も桃の木から付けたんでしょ」
「一心同体だったらもっとまめに帰ってきたらどうなんだね。伐られるって聞いて慌てて戻ったって遅いよ」
「せめて伐られる前に一目見ようと思ったんじゃない」
「身内の法事にも出ないくせにコブ桃を心配するとはねえ」
「嫌味言わないでよ。お金はちゃんと出してるし」
「そういうとこが都会の人間なんだね。何でも金さえ出せばいいって……どこ行くの?」
「コブ桃見てくる」
「ちらし寿司もうできるから、すぐ帰ってくるんだよ」
母の声を背中で聞き流して、桃子は家の裏手へ走って行った。
小布施村の入り口には八幡神社があり、かつては広大な鎮守の森が広がっていた。桃の木はその森の外れにあった。田畑開発や街道整備で森は潰されて十分の一ほどになったが、花を惜しんだ人々は桃の木ひともとだけは伐らずに残しておいた。昭和、平成と時代が進み、あたりに住宅が立ち並んでも、桃の木はそのまま残っていた。ところどころに大きな瘤があり、それゆえコブ桃と呼ばれたのだとも、「小布施村」の桃だからコブ桃なのだとも言われている。
桃子が村を去った二十年前の三月の終わり、コブ桃はたわわに花を咲かせていた。視界を覆い尽くす花の大群に眩暈がしそうになったものだ。「桃色」とはこの木の花の色のことだった。花びらは陽光に透ける明るい薄紅色で、月夜には紫がかった沈んだ紅となる。早春、蕾を付け始める頃、瘤から樹液が沁み出してくる。舐めるとかすかに甘く爽やかな香りがした。幼子の頃から少女に成長するまで、毎年、樹液を舐めた。カブトムシもやってきて舐めた。蝶々や蛾もやってきた。鳥もやってきた。豊潤な樹液は尽きることがなかった。
今三月下旬、まさにその季節なのに、コブ桃は周囲に立ち入り禁止のロープが張られ、めぼしい枝は切り落とされて、瘤だらけの不格好な幹だけが丸裸で立っていた。
家に戻ったら父が仕事から帰って来ていた。近所に住む兄一家も来た。みんなで食卓を囲んでちらし寿司を食べた。子供の頃は好きだったけれど、今は味が濃すぎると思う。それでも美味しそうな顔をして食べる。母は何かと文句を言いながらも家族が揃ったと嬉しそうな様子だ。父も不器用ながらあれこれ現況を尋ねてくる。けれども、嫁には行かんのか、子供は生みたくないのか、とはもはや尋ねない。桃子も機嫌よく会話する。数日だけなら親子らしくしていられる。
夜、布団に入って思う。ここは確かに私の家だし、ここは生まれ育った村で、愛着がないわけではないし大切な場所だとは思う。けれども帰りたいとは思わない。どういうわけだか自分だけ、何かと家の人々と折り合いが悪かった。家人だけではない、隣近所の人々とも、学校の友達や先生とも、どこか違和感をもって接していた。「変わり者」と言われた。「桃子ちゃんは人と違うから」と言われた。それが何だったのか今でもはっきり分からない。家を出た今分かることは、この村は自分の終の棲家ではないということ。ただコブ桃だけは、幼いころの情景を甘く切なく思い起こさせるのだった。
翌日。朝、昼とコブ桃を見に行った、夕飯を済ませたら月が出ていたのでまた出かけることにした。何度見れば気が済むのかと家族は呆れ顔だが、歩いて五分ほどだから止める者もいない。
春の霞に十三夜の月が空をほの明るくしている。立ち入り禁止ロープをくぐって桃の木の根元に腰掛けた。胸のあたりに大きな瘤があって、もたれかかるのにちょうどよい。石のように固い瘤に頭を置くと、カサカサに乾いた樹皮が剥がれ落ちる。昔は樹肌はしっとり潤っていて、甘い樹液が伝い流れてきた。それを舐めては心の空洞を埋めた。春ならば風に舞う花びらを眺め、夏は若葉の葉擦れの気配に耳をすませ、秋は落葉を拾い、冬は風にきしむ枝の音を聞いていた。
桃子はいつしか寝入っていた。
いつの間にか霞は晴れて、十三夜の月が中天であたりを皓々と照らしている。枯れ果てたはずのコブ桃が満開の花を咲かせており、縦横に伸びた枝々から無数の花びらがはらはら降り落ちていた。その光景を桃子は無心に見つめていた。
すると、木の下にボロをまとった女がやってきた。痩せこけた胸に乳飲み子を抱えている。
「乳が出ない、乳が出ない……」
女はシクシク泣いている。かすかに赤ん坊のひ弱な泣き声も聞こえてくる。女は桃子を見つけると、すごい勢いで寄って来た。
「どうかこの子に乳を与えてください、後生です、後生です……」
逃げる間もなく、干からびた手が桃子の腕を掴んだ。凄まじい力だった。月光の下に見たその顔は、髪は抜け落ち、額はかさぶたに覆われ、眼窩は落ちくぼみ頬はこけ、歯がほとんど抜け落ちていた。助けて、と叫んだつもりが口が開かない。女の顔が迫ってきて、後生です、後生ですと繰り返す。金縛りに遭って体が動かない、冷や汗だけが流れ出る。
と、急に身体が自由になった。恐る恐る目を開けてみると、降り注ぐ月の光の下、黒髪豊かな美しい人が立っていた。白い小袖を着たその人は、黙ったまま腕を伸ばして子供を抱き取った。襟元をくつろげ、真っ白な乳房を出して赤ん坊に乳首を含ませると、子供はウグウグ声を立てて乳を飲んだ。痩せた女はそれを見るとニコっと笑ってばったり倒れ伏した。根元に転がった女の身体がそのまま白骨と化した。
腕の中の幼子がいつの間にか二人になっていた、いや、三人、四人、いつしか抱えきれないほど幼子が胸に縋りついていた。黒髪の人の乳房も二つ、三つと数えきれないほど増えてゆく。子供たちはただただ乳を飲む。黒髪の人はただただ微笑んでいる。与えても与えても乳は枯れない。
やがて満足した子供たちは一斉に笑い出した。そして歌を歌い始めた。
母さま恋しと泣く児子や
父さまいずこと泣く児子や
無明の闇夜に一人きり
死出の旅する幼子や
慈悲の涙は桃の木の
甘露の雨と降り注ぐ
黒髪の人が静かにそばへ寄ってきて、じっと桃子の顔を見つめていた。それから嫋やかな体をかがめて桃子の身体を抱いた。よく知っている甘い香りがする。うっとり身を任せていると耳元に優しい声が聞こえてきた。
「生まれてくればやがて死ぬのは生きるものの定め。それでも頑是ない幼子を死なせるのは辛いことです。子捨ての桃と呼ばれた頃から、できうる限り子らを安らかに送ってきたのですが、そろそろ我が身も命尽きようとしています。美しかった頃の私のこと、ずっと覚えておいてくだされば、冥土に行っても浮かばれましょう」
月が青白く光って桃の花が薄紫色に揺れている。そこへ一陣の風が吹いて、桃の枝がざわざわ鳴った。花びらが一斉に散り、あたりが花吹雪に包まれる。子供たちは音もなく崩れ去り、白い塵となって花に混じって飛んだ。傍らには黒髪を振り乱した骸骨が立ち尽くしていた。
一ヶ月あまりして実家から「小布施村新聞」が届いた。コブ桃は伐られた。数百年のうちに何メートルも根を張っていた根元が重機で掘り返された。
新聞によれば、根の一番深いあたりから人骨が見つかったという。成人女性が一体と赤ん坊と思われる無数の骨。赤ん坊の骨はもろくて柔らかいので、土中では溶けて残らないものだが、成人女性の長い黒髪に守られて原型をとどめていたという。女性の身体は完全な白骨となっていたが、なぜか髪だけは完全に残っていて、長い髪がぐるぐる巻きに子供たちを包んでいた。二人の人が髪の毛の端と端を持って伸ばした現場写真が添えられている。大人の身長よりも長い黒髪だった。
それとともに「小布施村」の由来も記載されていた。小布施村はかつて「子捨て村」と呼ばれていた。八幡神社の鎮守の森の桃の木あたりは、周辺の村々で間引きされた嬰児の捨て場であった。ある程度育った子供でも、弔う余裕のない親はここに置きに来たという。江戸時代に入って、「子捨て村」では人聞きが悪いと「小布施村」に改称したのだそうだ。
埋まっていた女性や子供の遺骨については学術調査の結果を待たなければならないが、桃の木が植えられたのは、戦国時代あたりと推定されているから相当に古い時代の人の可能性が高い。ここにきてあたりの村々に伝わる言い伝えを調査しているが、今のところ桃の木の由来は分からないという。
桃子は小布施村の寺に寄進をし、「コブ桃供養」を依頼した。寺は律儀にも本当に供養を行ってくれて、法要の様子を写真入りで知らせてくれた。両親を始め村の人々も参列して、近年にない盛大な法要となったようだ。
最後に「金だけ出していないで戻ってこい」と、母からの言伝が添えられていた。
眞山大知 投稿者 | 2025-05-26 18:23
都会から田舎への帰省という筋書きだけでも恐怖で背筋がゾクゾクしました(田舎だと法事に出席しないと陰口を叩かれてなにをされるかわからない……)。コブ桃供養に金だけ払って出なかった桃子の気持ちもわかるいっぽう、そこは出てやれよと心の中でつっこんでしまったり。とにかく田舎はめんどくさい💧
高橋文樹 編集長 | 2025-05-29 22:32
地蔵菩薩的な母性を感じました。怪談でありながら、人情味の溢れる完成度の高い作品でありました。