「よくこういうとこ来られるんですか?」
マイクロビキニ姿になった「ふうか」が歪んだマシュマロみたいな乳房を揺らしながらベッドに上ってきた。パネル写真を見て敢えて瑞希とは全然違う系統の子を指名するのだが、実物を目の前にすると何故かどこかしら瑞希に似ている部分を見つけてしまい、祥太の目の前に灰色の幕がかかる。
この灰色の幕がいつも祥太の邪魔をする。それは祥太の意思に関係なく、空から降ってきたように突然視界を暗くし、正常な判断と健康的な身体の反応を覆い隠してしまう。
一度その気まぐれな、しかし確実な暗幕に眼前を閉ざされてしまうと、もう自らの意思では抜け出せなくなる。
「大丈夫ですか?」
必要以上に顔を寄せてきて、「ふうか」がイソジンの匂いのする息を吐きながら喋る。それだよ、その顔の中心にある、定規で引いたようなまっすぐな鼻が、瑞希とそっくりなんだ。
「じゃあ、始めていきますね」
四肢の先からマッサージを始め、肌の接触部分がじわじわと体幹に近づいていく。焦らすように時々乳房や陰部をかするかかすらないかくらいの感覚で触れさせる。「ふうか」がトップレスになり、祥太の性器を弄び始めてからも、祥太のそれはぴくりとも反応しなかった。
その鼻がある限り、何をしたって無駄だ。「ふうか」よ、忌々しいその鼻を、俺に見せるな。祥太はいっそのこと、「ふうか」の鼻を今ここでもぎ取ってやろうかとさえ思った。実際に渾身の力を込めた右腕をくいっと動かすまでに至った。
だが、そんなことしたら「ふうか」は泣きながら店に電話するだろう。店から怖いお兄ちゃんたちがやってきて、「よくもウチの商売道具を台無しにしてくれたな」と祥太をボコり、金を出せと凄むだろう。百万か二百万か、もっとかもしれない。足りなければ消費者金融で借りてこいと迫るだろう。
「大丈夫ですか?」
プレイを開始してから同じ質問を「ふうか」がしたのはこれで四度目だ。湿った畑に収穫しないまま放置して萎びた茄子のような祥太のペニスの息を吹き返させようと救急救命士顔負けのマッサージを繰り返す「ふうか」が次第に可哀想になってきた。
「もう……いいです」
心肺停止した患者の延命措置を中止するよう告げる身内みたいな調子で、祥太は呟いた。「ふうか」は本当にいいんですか、と問う医師みたいな顔をして、手は相変わらず祥太のモノをしごいている。
「いいんだ、もう」
祥太は両手で顔を覆って、懇願するように吐き出した。目に見えなくても、その鼻がすぐそこにあると思っただけで、無理だった。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
祥太と「ふうか」は同時に謝った。気まずい空気を拭い去るように、二人は無言で衣服を身につけた。
「君のせいじゃない。実は俺のはここ一年ほど、勃ったことがないんだ」
「えっ」
それを聞いた人の最初の反応は、いつもこうだ。大袈裟に驚いてみせるが、実は他人事なので結構どうでもいいと目が語っている。
プレイ時間より大幅に早く出てきた祥太と「ふうか」を見ても、店のスタッフは淡々と事務的な挨拶で送り出すだけだ。「ふうか」は最後まで申し訳なさそうな顔で祥太を見送った。
店を出て、「メンズエステ・常春」と書かれた小さめの看板を振り仰ぎ、見上げる。
「鼻め」
祥太はぼそりと漏らした。スタッフや「ふうか」には聞き咎められないように。
*
家に帰ったら、料理をしようと思っていたが、どうもやる気が出なかった。材料は揃えているのに。赤身の牛肉、うなぎ、アボカド、烏骨鶏卵。これにナムルを加えてビビンバ風にすれば簡単精力旺盛丼の完成だ。しかし最近はどんなに簡単に作ろうとしても、徒労感が勝って料理に着手できない。これまで精力増進に良いといわれる食材は色々試してみた。牡蠣、レバー、アーモンド、大豆製品。どれも効果がなかった。食べ物で改善するなどと無邪気に信じてはいなかったが、藁にも縋る気持ちだったので、出来ることは試そうと頑張った。
だが頑張れば頑張るほど、空しさだけがこみ上げる。祥太の股間は沈黙を保ち、復活の気配はなかった。
効果がないとなると、俄然やる気を失う。料理をしよう、と意気込んで帰宅したものの、結局レトルトの適当なおかずをチンして食べるというパターンが今日で三日続いている。
味の素の冷凍ギョーザとサトウのごはんを温めてローテーブルにつき、テレビをつけて食べ始める。「ふうか」の乳房が触れる感覚をまだ覚えている腕を伸ばしてリモコンを操作すると、九時のニュースが映し出された。トランプ大統領と習近平国家主席の写真が並べられ、あたかも一大事であるかのように追加関税の報道を流しているが、もとより祥太にとっては一大事でも何でもない。目の前のローテーブルに並べられた味の素のギョーザもサトウのごはんも、国産原材料を国内の工場で加工したものだ。アメリカが中国からの輸入にたとえ千パーセントの関税をかけようが、何ら影響はない。
それよりも追加関税のニュースを聞く度に考えるのは、瑞希はどうしているか、ということだった。彼女がアメリカに渡ってからもう二年近くになる。未だアメリカにいるのか、あの胡散臭いアメリカ人と今も付き合っているのか、それは分からない。祥太は飯を食いながら、やはり無反応を貫く自分の性器の存在を意識した。意識しながらも、そいつが生命活動さえ拒否しているかのように深く沈黙しているのが、下手な片想いのように思えて、余計に萎えた。
あんな仕打ちを受けたのに、まだ何かにつけて瑞希を思い出す自分にも嫌気が差す。
飯を食い終わるとテレビを消し、シャワーを浴びた。湯船に浸かった方がいいとか、ぬるめの半身浴がいいとか、ネットで色々調べて実践したときもあったが、今では面倒臭さの方が前に出る。ここ一、二ヶ月は湯船に湯を張ったことがない。1DKながら風呂トイレは別で都内の単身者用にしてはかなり余裕のあるつくりの賃貸マンションには瑞希も何度か訪れ、ここで身体を合わせたこともあった。
ここに住んでいるのが、いけないのかも知れない。引っ越そうか、と考えたことも何度かあるが、どうしても実行に移すまでには至らない。人間の、というか男の活力の源は性欲だ、という話をどこかで聞いたことがあるが、それは中っている可能性が高い。料理が面倒なのも、風呂に湯を張るのが億劫なのも、引っ越し先を探すのが苦痛なのも、すべて祥太の失われた男性機能のせいだとすれば説明がつく。昔の中国の宦官は何を動機に仕事をしていたのだろうか、と不思議に思う。
シャワーに打たれながら、股間の萎びた茄子を見下ろす。やる気が出なければ、自らをそうせざるを得ない状況に追い込むしかないか。例えば隣人トラブルを起こしてマンションを追い出されるように仕向けるとか。
悪くない。祥太は決意を確かめるようにシャワーの水栓をきつく閉めた。
*
実際のところ、このマンションの家賃は祥太の収入に比して高すぎた。もうほとんど家賃のために働いているようなものである。それでもなかなか引っ越せずにいたのは、職場まで徒歩一分という至便さのためであった。
マンションのエントランスを出て右に進み、三軒目に「丸長」というスーパーがある。ここが新卒の時からずっと、祥太の職場である。
「おはようございます」
従業員通路を向こうから小走りでやって来た店長に挨拶する。店長は「おはよう」と返しながら足早にすれ違う。相変わらず忙しそうだ。バックルームに入ると主任がいた。
「おはようございます」
主任はわざとらしく祥太を無視し、蔑むような一瞥を投げて、部屋を出て行った。主任はいつもこんな感じだ。もう慣れた。バックルームにはパートのおばさんと、もう一人珍しい顔があった。
「おう、どうした桜井、久しぶりだな」
桜井は祥太と同期入社で、本社のバイヤーをやっている。祥太たちの間では出世頭の呼び声が高く、じっさい賞与の査定も同期の中で一番高い。入社以来ずっとこの店舗から異動する気配がなく、ひたすら商品の出し入れとレジ打ちという、パートのおばさんと同じ仕事を毎日やっている祥太とはえらい違いだ。
「うん、ちょっとな」
口を濁すような態度は桜井らしくない。祥太は訝しがりながらも、パートの目があるので敢えて突っ込んだりはしなかった。何か含むところがあるなら、あとでこっそり訊けばいい。
「今日は支店回り?」
「いや」桜井の固い態度は変わらない。「昼過ぎまでここの売り場見て、店長とも話さないといけないんだ」
「そうか、じゃ昼飯食ってる暇もない?」
意外にも桜井は屈託のない顔で答えた。
「昼飯? いいよ、食おう」
そんなわけで祥太の休憩時間に合わせて昼飯を一緒にしようと約束した。祥太は日配の品出しをして、エプロンを着けて売り場に出た。開店時間間もないスーパー丸長は客の入りも少なく比較的余裕のある時間帯である。祥太は桜井が店長と一緒に売り場をひとつひとつ回っているのを横目で見ながら、鮮魚コーナーに入った。
*
流れ作業の単純労働を表すネットミームに、「刺身のパックにタンポポを乗せる仕事」というのがある。
もしそんな仕事があったなら、時給がどのくらいか知らないが、楽だろうな、と思う。仮に最低賃金だとしても、割のいい仕事だ。意地の悪い主任と顔を合わせたり、暇でしょうがない爺さん婆さんのクレームに対応したり、そんな面倒と無縁だったらどんなに気が楽なことか。ただ日がな一日せっせとベルトコンベアを流れてくる刺身の上にタンポポを一つずつ置けばいいだけだ。
でも祥太はそんな仕事が存在しないのを知っているし、そもそも刺身に乗っているのはタンポポではなく食用の菊の一種で、「つま菊」という物だ。スーパーでは本物のつま菊ではなくプラスチックの模造品を使うことも多い。丸長の鮮魚売り場で使っているのも、プラスチック製だ。トレイにつま大根を乗せて刺身を引く。秤に置いたトレイに規定量の刺身を盛ってからプラスチックのつま菊を乗せ、ラッパーでラップをかける。ラベルプリンターから出力されたラベルを貼って鮮魚売り場に品出しする。よほど大規模なスーパーでも、つま菊を乗せるだけの仕事なんて存在しない。
そう、人手不足の昨今(といっても本当に人が足りてないわけじゃない。安くこき使える労働力が足りていない、というだけの話だ)ひとつの作業を延々と繰り返すだけの人間というのは必要とされていない。時には上司の不機嫌の矛先となり、時にはモンカスクレームの矛先となり、マルチタスクをこなし、そこそこのコミュニケーション能力まで求められる。
「今日のお買い得品はこいつら出すぞ」
主任がぶっきらぼうに言い、トロ箱を冷蔵庫から出した。祥太とパート二人で商品を仕分け、POSからラベラーにデータを出力する。かつお、釜揚げしらす、明太子、その隣にあった物を見て祥太は顔をしかめた。
「これ、お願いします」
祥太はそいつをパートのおばさんに押しつけるようにして渡した。
箱の中には大きなミル貝がクリーム色の身を横たえている。太めのニンジンほどもあるその量感たっぷりの貝は、洋物のAVで見る外人のフニャチンを連想させる。
「ほいほい」
パートのおばさんが手際よくミル貝をパック詰めしていく。それを見ながら祥太は脳髄が芯から凍ってゆくような、感情の消え細っていく肌触りを覚えた。瑞希がミル貝を咥えたり、ミル貝を突っ込まれたりする情景が、黄色い背景に重ねて浮かび上がる。
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