いつも体調が悪い。最後に元気だったのはいつだっけ。元気ってどんな感じだろう。体が重い。鼓膜を破るような泣き声が僕の鼓膜を揺らす。それでもまだ僕は起き上がることができない。目はもう覚ましている。夢は見ていただろうか。思い出せない。でも間違いなくもう僕は現実の中にいる。今日も目が覚めてしまった。
「ちょっと、また花音に先越されてるんだけど」
ぐえ、と腹部に違和感を覚えて飛び起きる。璃子が僕の鳩尾を布団たたきの柄で小突いていた。
「いつまでぐうたらしてんの」
そう言う璃子も、今起きたばかりの姿だ。寝癖がついた頭で大声で泣く太一を抱っこしてあやしている。とはいえ、布団の中で横たわっている僕とは違って育児という責務を果たしている。覚醒しきってない頭で僕は璃子と太一を眺める。居間の電気はもう点いていて、もう幼稚園の制服に着替え終わった花音が顔を出した。
「パパ、おはよう」
花音はまだ五歳だというのに、自分でパンを焼いて食べられる。椅子にのぼって冷蔵庫も開け閉めできる。牛乳もこぼさずに入れられる。こぼしても自分で拭ける。拭いた布巾も水道で自分で洗える。トイレも一人で行けるし、着替えも自分でできる。髪も自分で縛れる。昔から「花音がやるの」と自分でやりたがる子だったが、今や子供らしい我儘もほとんど言わない。一通りの事がもうできるようになってしまった。随分と大人びている。僕も璃子も、もう花音か一人で朝の支度をしていてもいちいち「すごいね」なんて言わない。当然できることをもう分かっているから。こんな花音も数年前までは年相応の子供だった。ちゃんと散らかしたり、我儘を言ったり、癇癪を起していたりしていた。今ではまるでそれが嘘のようだ。幼稚園に行くと、まだまだ癇癪を起して泣き喚いている子たちもたくさんいる。花音は年相応とはかけ離れたしっかりした子だ。
「あんたがだらしないせいで、花音が可哀相じゃない。まだ小さいのに」
言いながら、璃子はよたよたと立ち上がって太一を抱いて揺れる。足を引きずりながら居間へ出ていく。花音が入れ違いに僕の元へ駆け寄ってくる。今は大きなボタンなら一人で留められる花音。よれたブラウスの襟にあどけなさが残る。這うようにして僕はその襟をなおしてやった。
「ごめんな。花音」
「大丈夫だよ。パパはもっと寝てて良いよ」
花音は優しく良い子に育ってくれた。だからこそ、こんな良い子に甘んじている自分が情けない。決して僕のきめ細やかな指導や丁寧な教育の賜物ではない。僕が意図的に花音を自主性のある子にしようとした結果、こうなっているのであれば、さぞかし素晴らしいことだろう。でも、そうではない。そうならざるを得なくなった。やむを得ずそうなったのだ。花音は可哀相だ。子供らしい我儘を我慢して「大丈夫だよ」と大人に言わなければならないような子供にはしたくなかったのに。僕が子供の頃のことを思い出す。恐ろしい父。逆らうと殴られた。ビクビクして、僕はいつも良い子ぶった。我儘も押し殺して生きていた。要望を聞かれても、父が喜びそうな、怒らなさそうな答えを言った。自分の意見なんてとても言えなかった。いつも僕は抑圧されていた。父が母を殴るのを見て、僕がしっかりして、母を守らなければいけないと思った。父のことはずっと嫌いだった。今もまだ許していない。父のことを父と呼ぶのも寒気がする。でも「お父さん」と呼ばなければ殴られた。いないところでは「あの人」とか「あいつ」とか呼んでいたけれど、本人の前では言えない。殴られるから。父がいる時はいつも息を潜め、気を遣わなければいけない。あんな怖い思いを子供にさせる父親は最低だ。だから、僕は家族を怒鳴ったことなんて一度もない。手をあげたこともない。それなのに、僕は結果的に花音を小さな頃の僕と同じにしている。
「大丈夫だよ。もう起きないといけない時間だからね。いつもありがとう、花音」
小さな頭をくしゃくしゃと撫でる。そうすると、花音は少し得意げな、子供らしい笑顔を浮かべるのだ。僕は父にこんな笑顔を向けることはあっただろうか。なかった気がする。それだけは、父に勝っている。
※
「新谷マジで死にそうじゃん」
同僚の青木が半笑いで気にかけてきた。エナドリ片手に僕の肩に手をかける。そのエナドリはくれるのか。いや、もう口が開いているので、これは青木が飲んでいるものだろう。卑しい考えを持ってしまったことが恥ずかしくなる。
「ほんと離婚しないの? 毎日顔色悪すぎるよ」
そんなことは百も承知だ。トイレの鏡や、窓ガラスに映った自分の姿を見る度、気持ち悪いと思う。少し前まではこんなに酷くなかった。もっと血色も良くて生き生きとしていた。少し前っていつだっけ。何年前の話をしているのだろう。最後に元気だったのっていつだっけ。
「死ぬよ」
どこか嘲っているように聞こえた。被害妄想かもしれないけど。昔は同僚も上司も部下も僕のことを心配していた。今は呆れられている。自分でも分かっている。冷ややかな、ゴミを見るような視線。あいつが失敗するのは仕方ない。当然だ。当然と思わずに判断する奴の方が間違っている。忙しくても大事なことは頼めない。大失敗するから。そういう空気。そういう思いがひしひしと伝わってくる。それは被害妄想ではない。事実だ。現に、僕には簡単な仕事や、欠員が出てどうしても回らない時のちょっとした手助けくらいしか回ってこない。やむを得ず大事な仕事を頼む時はこれでもかというほど念押しされる。それでも大なり小なり何かしらのミスするので、むしろ僕に仕事を頼むと効率が悪くなる。失敗だらけのお荷物を心配できるほど暇な会社ではない。注意散漫でミスばかりして、降格した人間のことなんて、そんなものだろう。いっそ辞めてくれれば、という声が聞こえてきたこともあった。言った本人は聞こえないようにしたつもりだろうが、十分に聞こえている。しかし、僕はそう言われて当然の人間なのだ。降格するほどのミスとなると、もちろん、会社や周囲にも影響は及んでいるし、上司も監督責任を問われ懲戒処分を受けた。最初からこうではなかった。最初は僕だって元気に働いていたし、こうなってからも、皆僕をどうにかしようと、一緒に対策を考えてくれた。家庭の話も聞いてくれた。優秀で優しい上司もいた。でも僕はその人のメンツを完全に潰した。僕のデカいミスの連続の尻ぬぐいでその人は地方に左遷された。ローンで家を買って、子供も三人いたのに。僕は恩返しどころか、その人の人生の汚点になっただけだった。あの人は助けようとしたことを後悔しているだろう。あの人の手助けは何にもならず、僕は不出来なままだし、あの人は給料を減らされ、家族と引き離され、単身赴任をしている。そのせいでもう他人に優しくしようとするのをやめてしまうかもしれない。僕のせいで。
「俺だって引け目があるから」
僕は俯きながら言った。璃子が悪いんじゃない。僕だって悪いのだ。全部璃子のせいにして終わりにできるなら、もっと楽だったろう。
「え、何? お前浮気とかしてんの」
「もっと悪いこと。ごめん」
それだけ答えると、青木はもう深堀してこなかった。答えたくないのだと察してくれたのだろう。デスクの上の水筒に手を伸ばす。小遣いは月三千円だから飲み物すら満足に買えない。昼食は晩御飯の残りをタッパーに詰めて持ってきているので、食いっぱぐれることはない。ただ、あまり残らなかった日はほとんどない時もあるので、そういう時はコンビニでおにぎりを買う。目を開けるのも厳しくて、光が目に沁みるような疲労の時はエナドリを買う。誰かと食事に行くなんて夢のまた夢だ。昔は皆も飲みに誘ってくれたし、励ますために奢ってくれたりもしたが、今は誘われない。璃子が怒るのだ。どこからその金が出ているのだ、と怒鳴る。奢ってもらった、と言うと火に油で暴れる。なので、毎回断り続けたら、誰からも誘われなくなった。中には「栄養を取るべきだから、とりあえずファミレスには行こう」と提案してくれる人もいた。家族には残業と偽装すれば良いし、口裏も合わせる、と。でも、結局それでは僕がいたたまれない。家にいる花音と太一も心配だ。だから、僕からそれはやめて欲しいと断った。璃子に小遣いをあげてほしいと交渉したこともあったが、あんたの稼ぎが少ないとまた怒鳴られるだけだった。なのでもう僕は降参している。お手上げ。戦わない。抵抗しない。救いの手も僕は断った。自ら孤立した。僕が我慢すれば良い。我慢していればそのうち痛みも苦しみも消えてなくなる。耐えていれば嵐は過ぎてくれる。青木だって心配だか興味本位だか知らないが、そのうち話しかけてこなくなるだろう。被害を最小限に抑えるには誰とも関わらない方が良い。
※
家のドアを開けると肉を炒める良い匂いがした。食卓にはもう料理がいくつか並べられている。今日は珍しく作ってくれたらしい。気が向くと璃子も食事を用意してくれることがある。毎回、僕のためではないと言うが、それでも僕は助かっている。
「璃子ありがとう。作ってくれたんだね。嬉しいよ」
「いつも作ってないのが悪いって言いたいわけ」
「ごめん。でも、嬉しかったから」
何を言ってもこうして怒られるのを分かっていても、やはり僕は言ってしまう。嬉しいことは嬉しいと伝えるべきだ。感謝の言葉を伝える姿勢は必要だ。何も言わなくてもどうせ怒られるのだから、せっかくなら良い言葉を発していきたい。花音や太一だって見ている。お手本になれるような大人でいなければ、と思うのだが、実際問題なれていない気がする。夫婦喧嘩は子供の情操教育に良くないと言うし、なるべく争いたくはない。いや、争ってはいない。争うのが良くないのは分かっているから。ただ僕が一方的に怒鳴られているだけ。僕は我慢すれば良い。耐えて嵐が過ぎるのを待つ。それを見て花音は首をすくめている。いつもごめん花音。自分が怒鳴られているわけでもないのに璃子が大声をあげるたびにビクビクしている。僕がいない時は花音を怒鳴ることもあるのだろうか。少なくとも僕がいる時は璃子が子供たちを怒鳴ることなんてない。僕のことしか怒鳴らない。花音が片付けをちゃんとしていなくても、太一が物をひっくり返しても、怒られるのは僕だ。たぶん、僕を怒鳴ることで、子供たちには優しくできているんじゃないかなと思う。多分だけど。
いくらか濃すぎる味付けの肉と野菜の炒め物とごはん、みそ汁、先に焼いたせいで冷めている冷凍食品の餃子、まだ粗熱が残っているお浸しをありがたくいただき、風呂掃除をする。花音と太一の食事は璃子が面倒を見てくれるので、僕はなるべく早く食べ終わって、風呂掃除をして、風呂をわかさないといけない。その後は食器洗いをして、璃子が風呂に入っている間、花音と太一を見て、風呂にいれて、自分も風呂に入る。まだ終わりじゃない。その後は洗濯が待っている。洗濯を回している間に、花音と太一を寝かせつけて、トイレ掃除をして、洗濯物を干す。そうして僕はようやく眠ることが許される。
風呂掃除へ行く時に台所をちらりと見たが、今日の残飯はないようだった。明日は昼食を買わなければいけない。安いスーパーやドラッグストアが会社の近くにあれば良いのだが、あいにくコンビニしかない。
風呂をわかしてリビングに戻ると、璃子はドラマを見ていた。花音はタブレットでYouTubeを見ている。太一は璃子にだっこされながらうとうととしている。今日も全員ちゃんとそろっていて本当に良かった。僕は恵まれている。食器を洗う。璃子が食事を用意した時は、作りながら片付けないので台所が汚い。でも、それは仕方ないのだ。璃子は足が悪い。なので、移動がおぼつかない。子供を連れて風呂に入るのも危ない。璃子はそのことにもすぐ苛々する。自分が上手く動けない、すぐによろめくのを僕に怒る。しかし、これは真っ当な怒りだ。だって、僕のせいなのだから。
まだ太一がお腹にいた時、璃子は事故に遭った。交差点で減速せずに突っ込んできた車に追突されたのだ。璃子は僕が運転する車に乗っていた。僕はその車に気付かなかった。僕も花音も軽傷だったが、璃子だけは違った。その時の怪我が原因で璃子の左足は上手く動かなくなった。泣きながら謝る僕に、花音とお腹の子供が無事なら私は左足くらい全然平気だよ、と気丈にふるまっていた。しかし、実際に不便を感じ始めると、徐々に璃子の笑顔は減っていった。璃子が最後に笑っていたのはいつだろう。左足を引きずりながら歩くことはできるが、力が入り辛い。走ることもできない。もし子供が急に走り出しても、璃子は追うことができない。抱っこ紐で太一を固定していても、転んでしまったら自分だけでなく太一にも大怪我をさせてしまうかもしれない。だから、璃子はほぼ外に出ない。毎日のように行っていた公園にも行けなくなった。花音は退屈しているようだったので、僕が休みの日は一緒に公園に行くようにしたが、璃子は「私はいい」と留守番するようになった。一度、花音が無邪気に「なんでママは公園行かないの」と聞いた時、璃子は黙って泣き出した。最初はぽたぽたと涙が流れるだけだったが、徐々に激しく、嗚咽をもらし、子供みたいに泣き出した。花音は硬直していた。そっと璃子の肩を抱こうとしたら、その手を振り払われた。僕と花音を置いて、璃子はよたよたと足を引きずりながらリビングを出て行った。寝室に入っていくなり、家が揺れるくらいの勢いでドアを閉めた。花音は泣きそうな顔で、でも泣き出さずに、璃子が出て行った先をじっと見つめていた。あの時のことは未だに昨日のことのように思い出す。
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