寒い。冬だから当たり前。なるべく長くコタツにいたい。もう十二月三十一日。二〇二四年最後の日。そして、人生逆噴射文学賞の締め切り。原稿はまだできていない。どうしていつも締め切りギリギリにしか行動できないのか。障害があるんじゃないか、とかよく昔は罵られたけど、今は時代が時代なのでそんなことを言う人はいないし、ぶっちゃけ皆締め切りギリギリに生きていると理解した。ギリギリじゃないと僕ダメなんだよ。お願い寒い目で見つめないで。仕事をしていても期日ギリギリに駆け込む人が多すぎて参る。ギリギリすぎてトラブって間に合わなくなったら逆ギレしてくるし。アレに比べたらマシだ私は。間に合わなくてもそれが自分のせいだと理解している。
私は毎朝バナナを半分ずつ食べる。小学生の頃から親にそうされていたので、実家を出てもそうしている。寒いのでバナナと、うっすい百均のまな板と果物ナイフをコタツまで持ってきて切る。最近買い換えたところなのでよく切れる。皮を剝き、むしゃむしゃ食べる。先っぽの芯みたいなやつは残す。まずいので。時刻はもう昼前。寝すぎた。今から実家に行かないといけないのに間に合うのかマジでこれ。まな板に果物ナイフとバナナの皮を乗せて流しに持って行く。寒い。バナナの皮がまな板から落ちそうだな、と思っていたら、床に放置していた郵便物を踏んでバランスを崩した。果物ナイフが宙を舞い、くるりと回る。スローモーションに見えた。整理整頓が無事故のために大切なのだ、5Sはキチンとしよう、と職場でも注意喚起していた。いやせめて転ぶならバナナの皮使え。なんで手に持ってるねん。芸術点が低い。そういえば私は母親のまたぐらから世に放たれた時からそそっかしかった。何かをひっくり返したり、こぼしたり、なくしたりは日常茶飯事。予定日より早く生まれてきたし。あわてんぼうのサンタクロース予定日前にやってきた。包丁がくるり、くるり、と回る。細身の鋭い歯が私に向かってきている。私はそれをボケーっと眺めている。背後の窓から差し込む陽光が減る。雲が流れてきた。薄暗い部屋で包丁の刃が穏やかな陽光に反射している。そういえば電気を点けていなかった。電気をつけないと目が悪くなるよ、とよく親に言われた。視力0.04以下だからこれ以上下がっても別に変わらない気もする。コンタクト付けてるし。包丁の刃の表面に肌色が映る。私の顔だ。包丁の細身の刃には上手く風景が映らない。歪んでいる。
ビジネス陰キャってどうなんだろう、とふと思った。陰キャじゃないのに陰キャのフリをしてそれを売りにするアレだ。広い社会で脚光を浴びるよりも、狭い陰キャ界隈で注目を浴びる方が手っ取り早いし、それがきっかけで社会に広く知られたりすることもあるから。あ、全然、ビジネス陰キャと言われる人が悪いとは思ってなくて、むしろ逆で。じゃあ、ちゃんとした陰キャってなんだろう。クラスの中心から離れた壁際のグループで息を潜めてよろしくやってるような奴らだ。内輪ノリで生きている日陰者みたいな。友達は狭く深くがモットー。モットー、と言いつつも本当は己のコミュニケーション能力の低さゆえに結果的に狭くなっている。クラスや職場の中心にいない、いわゆる「じゃない」方のメンツは陰キャだ。
包丁は目の前で回り続けている。じわじわと近いてくる。くるくる回る包丁が何かの象徴みたいだ。時計とか。車輪とか。使う時に横から見たトイレットペパーとか。あ、そうそう。陰キャの話。なんで私は陰キャの話をしてるんだ? まぁいいや。職場で飲みに行く時もある。今日は「じゃない」方のメンツだなとか。集団の中心的な「じゃないじゃない」の方は比較的誰でも受け入れてくれるが、「じゃない」方、つまり陰キャはなぜか「じゃないじゃない」方に対して敵対心を持っていて、そちらのメンツを誘わないようにする傾向がある。陰キャって陰湿だ。陰キャであらずんば人にあらず。こそこそと、むき出しじゃない敵意を持っている。そして、私の好きなアーティストたちは結構な確率で「ビジネス陰キャ」と言われている。掲示板とかSNSとか、ネット上のファンの集まりの中で定期的に言われ続けているのでこれはもう定説なのだろう。しかしまぁ、私から見ればファンが陰キャすぎるだけで、そのアーティストも十分陰キャだと思う。有名アニメとタイアップした時のインタビュー動画のコメントでは「陰キャじゃん」とバリバリに書かれている。「あ、その」とか「なんか」とか多くて明らかに人前で話すのが苦手なタイプなのは誰が見ても分かる。ライブのMC動画初見の人にも「陰キャみたい」とかコメント欄で言われているし、フェスに来た非ファンからも「陰キャっぽい」とか言われていた。陰キャみたいじゃなくて、陰キャなのよ。教室で発表する時にしどろもどろで、クスクス笑われる陰気な奴のアレそのもの。ああ、だから陰キャは非陰キャに対して敵対心を持つのか。笑われるのを攻撃だと受け取るから。笑ってあげてるんだよ、あれは。しーんとした方が辛いだろうに。陰キャの定義を狭めて「人にあらず」側の人間を増やして首が締まるのは陰キャサイドだというのに、生きづらい生き方をしていてかわいいな。苦しんでいる人は大体みんなかわいい。私の感覚が異常なのか。ドラマの拷問シーンで「かわいい」と思うのは普通の感覚ではないらしい。私はどちらかというと自分が陰キャ寄りの人間だと思っていたが、変態であって陰キャではないのかもしれない。いずれにせよ、世の中にはもっと陰をこじらせた陰キャがいるのだなと思う。見えない敵と戦っている。
私の体が傾いてくる。包丁と引き寄せられるように、転倒しようとしている。体勢を変えようとしても、思うように動かない。脳の指示が体に行きつくまでに時間がかかりそうだ。こういう時って火事場の馬鹿力的なやつが出るんじゃないのか。ああ、時間がない。話を進めよう。他人を「ビジネス陰キャ」と揶揄する人達の中にとって、対象には陰キャ仲間だとは思えない何かがあるのだろう。いやいや、こんなの真面目に考えるだけ無駄かもしれない。ロバの風刺画みたいな。何やっても「ロバが可哀相だ」って怒られるやつ。老婆と老人がロバに乗っても、ロバから降りても、片方だけロバに乗っても、全部批判されるあの絵ね。じゃあ何だろう。私って、曾根崎十三って、陰キャじゃなくてビジネス陰キャなんだろうか。「いやいやお前は心配しなくても十分ちゃんとした陰キャだよ(笑)」と言われるかもしれない。いつだか、精神に問題を抱えていないか心配してくれたファンレターをもらったことがある。ありがとう。あなたが思うより健康です。でも、思った。「曾根崎十三」はそういう風に見える人間なのだ。そういう風。つまり「曾根崎十三」は会社の懇親会なんて行かないし、NMATなんて受けないし、健康診断の再検査を真面目に受けに行ったりしないし、家庭なんて築けないし、自己啓発本なんて読まない。「曾根崎十三」はTIKTOKなんて見ないし、栄養バランスを整えた食事なんてとらないし、健康的な早寝早起きなんてしない。友達を作るのが苦手で、メンヘラで、ちょっと頭がおかしくて、不健康で、不健全で、可哀相じゃないといけない。私が描く「曾根崎十三」ってそうだし、たぶん作品を読んで受けた印象てもまぁおおよそそんな感じだろうなとぼんやり思っている。だから陰キャたちは陰キャっぽいアーティストのMCが以前よりハキハキ喋るようになっても、健康管理のために人間ドッグに行っても、恋愛リアリティーショーとタイアップしても「ビジネス陰キャ」と揶揄する。仲間だと思ったのに裏切られた、という思いがその中にはある。皆もっと落ちてこいよ。「ビジネス陰キャ」を揶揄する人間の見え方って、そういうことなのかな。お前の今の姿は私が思い描いている姿じゃない。そういう押し付け。オタクが言う「解釈違い」ってやつだ。それはお前の解釈だろう。全部その人そのものなのに。人間はそんなに一面的ではないのに。なぜ生身が解釈に合わせなければいけないのか。いや、解釈を与えるのも作品のパフォーマンスのうちだと言われればそんな気もする。ダメだ。私はなんでも「それもそうだな」と受け入れてしまう。詐欺にはまだ遭ったことはない。遭うような機会を持てるのかも分からないが。
踏んづけた郵送物は推しアーティストのファンクラブからのレターパックだった。届いたことに満足してまだ開けていなかった。何か頼んでたっけ。何か当たったのか。ファンクラブに入っていると、不定期に推しの直筆サイン入りの私物が当たるので、もしかしたらそれかもしれない。だとしたらさっさと開けるべきだった。刃が私の喉元に迫る。勢いが足りなければそんなに深く刺さらないかもしれない。運良く鎖骨に当たれば大したことはないかもしれない。もう二〇二四年が終わる。今日は人生逆噴射文学賞の締め切りだ。韓国で飛行機の中で火あぶりになって死んだ人も燃える直前まで「運が良ければ」とか考えたんだろうな。飛行機に乗る前はまさか数時間後に死ぬなんて誰も思っていない。誰も思っていないからいろんなことを先延ばしにできるのだ。明日死ぬとしても、同じことをするのか、と自問しながら生きるべきだった。後悔既に遅し。命はあっけない。底が浅いからこんなことしか言い残せない。小学生の頃、水たまりで滑って転んで頭をぶつけて死ぬ程度に死は身近だと担任が言っていた。あの担任はどうなったんだろう。卒業後、奇行が目立つようになって、休職したと風の噂があった。あの人は「ビジネス」じゃなくて「本物」だったんだろうか。陰キャじゃなくて何かしらの。
原稿はまだできていない。まだ死にたくない。切っ先が喉元に触れ
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