2025年12月06日12時16分
今のわたしに一時間という限られた条件で何が書けるのか。これはその実証の記録である。わたしはこれを出勤前の通勤に使う電車の発着する駅前のロータリーに面するチェーンの喫茶店で書いている。ここまで書いて、もう店を出なければ仕事に遅刻してしまうので次回はまた別の機会にこの続きを書こうと思う。
2025年12月06日12時22分
2025年12月07日23時44分
前回からこのテキストをどう書くか、思考していたことは確かだが、こうやって書き始めるとそれは思ったようにいくことはない。このテキストは「第10回私立古賀裕人文学祭(通称=古賀コン)」に向けて書かれたものである。わたしは第3回の時に一度応募したので、今回で二回目である。毎回テーマが与えられ、応募者はそのテーマに沿って小説、エッセイ、批評、日記……等々、とにかく何でも一時間という制約の中で書き記す。今回のテーマは「ぼくにもできそう」である。ここで、わたしはこのテキストの目的を「神の存在証明」であると示しておく。カントに言わせれば、それはアンチノミーであり、理論的に不可能なことだ。だが、わたしはなぜこんなテキストを深夜に書いているのか、それは説明不可能であり、わたし自身よく分かっていない。それは神のみぞ知るということと同義である。つまり、このテキストが書かれている理由を神は知っているということだ。それならば、わたしは問いたい、神にその意味を。確かに古賀コンでは大賞受賞者に一万円という金銭が贈られることは一つの理由と言っていいだろう。現金である。一時間で一万円、それは割のいい案件であるかもしれない。しかし、わたしが前回応募した古賀コンでは75作という応募数だったが、前回は268作という三倍以上の応募作が集まっていて、すでにここで一万円を得るというのは確率的にかなり難易度が上がっている状態であり、一万円のために書くという合理性は、普通に考えて極めて低いと言っていいだろう。そして、別の側面からこのことについて考えてみよう。それは、この文化祭の主催者である古賀裕人という人物である。彼は毎回送られてくる作品すべてを読み、講評している。それで彼が一万円を得るとしても割に合わない。割に合わないどころか、彼はなんと一万円を払うのである。信じられるだろうか。狂っているとしか思えない。なぜなのか? 答えは一つである。そう、神である。神の存在だけがわたしが「書く」ということと、彼が「読む」という行為を繋いでいる。もうそろそろ一時間が経とうとしている。わたしが一時間で書いたものを読んでいるあなたは恐らく五分かそこらでこのテキストを読んでしまうだろう。ここに神の存在など感じないのだとしたら、あなたは無神論者である。それが分かるだけでも意味がある。しかし、200を超える人間が一時間かけて作文し、一人の人間がそのテキストを読む。この現象をあなたはどう説明するだろうか。人はそれを奇跡と呼ぶのではなかったか。そこに神の存在を太古の昔から我々は信じてきたのである。「初めに言葉があった」。聖書にはそう書かれていなかったか。
2025年12月08日0時34分
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