Plazma Modarnity (上)

春風亭どれみ

エセー

10,906文字

最近、現場猫からデスクワーク猫になり、公私ともにWindowsの下僕になっている生活に疲弊しているせいで、逆に手書きで物書きできないか、詮索中の中年ここにあり。「自分のペースで前後編で書き上げられたらなあ……」などと。

年配の読者の皆さまの中には、その昔、『あの人は今!?』なんてテレビ番組があったのを覚えている人もいるのではないだろうか。

今や、新聞やテレビ業界自体が「あの産業は今……」などと振り返られるのは、隔世の感もあるが、三面記事を賑わせたいわゆる素人スターに与する人たちの情報としての旬はすこぶる短い。コンテンツであることに特化した人でもない限り、人が提供する日常は、本来、ほとんどが 取り留めもないことの連続であり、その人自身に特別な愛憎を抱かなければそれほど長く、赤の他人に対し、執着しないものである。

なので、和高高和という名前を聞いて、ピンと来る人ももう少ないのではないだろうか。

彼は今から三年前に腎不全で八十六歳の生涯を閉じたものの、同年に亡くなった世界的な指揮者やムービースター、金に物を言わせてその地位を予約注文していた大富豪などとともに現在では拡張知能プラットフォームアプリを提供していることでおなじみになったプラズマ・モダニティー社が開発した人工人格サービス『トゥモロー・ワンス・モア』の試作モデルの移植者に抜擢されて一躍、時の人となった個人ならぬ故人。巷では「APおじいちゃん」の名で親しまれたその人であった。

その愛称ならば、覚えているというレベルの認識の我々取材陣一行は今回、彼が市役所職員、自治会長、そして市議会議員として生涯の勤め先となったX市にお邪魔することを決めた。

四半世紀ほど前の平成の大合併で誕生した近未来的な都市名を冠する同市はその名とは裏腹に豊かな自然と一面の茶畑が広がる長閑でどこか懐かしさを抱かせる田舎といった印象を受ける。それだけに、ところどころアスベストが粉を吹いてそうなほどに老朽化した市庁舎の背にどんと構える近未来的な出で立ちをした正体不明の施設が特段異様に映るが、この施設こそが世界を牛耳るとまで言われているプラズマ・モダニティー社が誇るデータセンターである。

和高高和さんは市職員時代から市議会議員時代にかけて、まだスタートアップ企業であった同社の熱心なロビー活動を受けて、市にこのデータセンターを誘致した。その貢献に敬意を表して、彼を人工人格モデルの市井人代表として抜擢したという経緯があったそうだ。

「そうは言いましても、本来父はそれまでテレビの出演経験もないような、控えめな昭和のおじさんでしたから」

取材に応じてくれた彼の一人娘である麻里さんはそう答えた。

我々の記憶とメディアの記録が確かならば、彼は試作モデルの試用期間内である半年間、人工人格、いわゆるアーティフィシャル・パーソナリティとして活動を続けたが、「まだまだ私たちはミトコンドリアのようなものを持てず、電力で動く幽霊みたいなものでして。しかし、電力のようなものは今を生きる人々の為に使ってほしい」とのコメントを残し、人工人格への移植を受けた故人の中で唯一、その活動の更新を断り、二度目の死を受け入れたはずである。

しかし、その実情はすこしばかり、違うようであった。

「父はまあ、生前から読書家でしたし、仕入れてきた言葉を市議会などで使うのも好む人だったので。半年間の人工人格として浴びた知識のシャワーの中で、表向きにはそう答えるのが適当と考えたのでしょう」

そう我々に応じてくれた麻里さんはしみじみと仏壇の方に目を向けた。そこには満面の笑みを浮かべる高和さんと妻のかふさんの写真があった。

「それ、どちらの写真も私が小さい時に猪苗代にスキー旅行へ行った時のモノみたいなんです。いったい何がそんなに可笑しかったんですかねえ。でも、あんまりいい写真だから、遺影の写真はみんなでこの時の写真にしようって、改めて話し合って、決めたんです。でも、こんなに小さかったら私のには使えないかな」

あの頃の日本を思わせるゲレンデに映る戦後のごくありふれたニューファミリーの写真、その真ん中で顔を林檎のように真っ赤にしながら、ストック片手にピースサインを向ける少女の姿が「アラ還」が近い現在の麻里さんに使われる遺影になるというのは、不適切とまではいかないまでも、確かにあまり一般的ではないのかもしれない。

「いいじゃないですか、こんなにピッタリな写真は他にないと思います」

それは、社交辞令やおべっかなどではなく、我々取材陣の心の中から漏れ出た言葉であった。少なくとも、実際に代表として、言葉を発した私自身はそう思っている。

 

ところで、近い将来実用化が期待されている人工人格サービスとは、如何なるものなのだろうか。その詳しいメカニズム……に関してを説かれても、全員が全員、文系か体育会系の環境で育ち、少なくとも全員、微分積分までには数学に挫折を覚えた我々取材陣には馬の耳に念仏というもの。

なので今回は、かつてはシンガポールの工学カレッジで修士号を取得し、現在は日本でのタレント活動を始めたミン・シー・ユーさんに我々がその技術を享受するにあたって必要な準備や心構えを教わりに彼女の事務所へ向かった。

「人工人格サービスはまだ生まれたばかりのシステムで、まだ量産化するためにはプログラムがスリムじゃないんですね。つまりは文献や音声のデータから、その人の人格を再現するLLMでしたり、心理学や脳科学、神経科学に則った脳波やホルモン分泌量のデータから計算されたプログラムでしたり、そういったものを複合させて動かしているんです。だから、まだまだデータ容量を食うし、そのくせ、要領が悪い。電気代も維持費もかかるからお財布にも全然優しくない」

彼女が母語でない言葉で、極力専門用語を排して懸命に語ってくれている努力は感じ取れるのだが、悲しいかな、我々にはこの時点で付いていくにも、やっとといった具合だ。

「人格を再現するためには、できるだけたくさんのデータがいるということです。今はまだマーカーが水玉模様のようにたくさん散りばめられたバラクラバ型の電極脳波計しか備えられていないので、既に終わりが……余命が決まっている人にしか日常の装着が現実的ではありませんが、そこは市販される頃には、もっと手軽なものに解消されていくでしょう。それを付けている間にいっぱい会話をする。特に家族や恋人、親友といったような自分自身の心が動かされる人との会話です。それに写真やビデオ録画、日記を書いたり、ウェブ上で何かを投稿したりするのもいいでしょう。それだけでなく、映画や漫画、スポーツ観戦などいろいろなコンテンツを享受して心がどう動くかを残すことです。アップロードもダウンロードも大事なわけですね。著名人と呼ばれる人と一般の人たちの間で最も格差があるのはお金じゃなくて、今や情報量。自身に関してのドキュメントが人格を再現する為には決定的に足りないのです。劉さんはその辺はどうお考えなのか、お伺いしてみたいものです」

ミン・シー・ユーさんの熱弁に気圧されながら、我々は自身の人生を顧みた。ポップコーン片手に当時の彼女と見たあの映画、学校帰り不良仲間とぺしゃんこの通学鞄を携えて通ったボウリング場、喫茶店のインベーダーゲーム、家族とお茶の間で夕ご飯を食べながら笑ったお笑い番組、ダイヤモンドダストのような煌めくコンテンツたちを我々世代は思い出とともに浴びて育ち、そして、年老いた。

しかし、一部の物好きを除き、我々は親世代とも子世代とも違い、記録してこなかった。強いていえばで行っていたハンディカムの中に眠る8ミリビデオももう再生する術を持たない。少なくとも私は、自分自身の人格を仕事で書き散らした散文だけで判断されたくはない。

その点、高和さんは違った。彼は集団就職をする為の汽車に乗って、故郷を離れる同窓たちを尻目に地元の役場での就職を選んだ時分から、厚めの大学ノートに自らの個人的な感情を綴り続けていた。また、市議の晩年時代には、世相に則り、議事録がアーカイブ化され、映像メディアとして市のホームページ上で見たければ誰でも閲覧できる仕様になっていた。

公私にわたるそういったものたちが、高和さんのアーティフィシャル・パーソナリティの形成の助けになったであろうことは言うまでもない。

彼が律義に大学ノートに自らの心境を書き綴るようになったきっかけは入庁後、初めて配属された部署が秘書広報課であったことに起因するという。回覧板に掲載する「週報町だより」を作成する為に、備品棚からロウ原紙持ち出そうとした際に、週報のバックナンバーの数字が頭に過り、ふと思い立ったのだという。退勤すると、その日のうちに文房具屋に立ち寄り、六十ページ綴りの大学ノートを購入して帰った。一年がだいたい五十週ちょっとあるので、一週間に一度、自らを振り返れば、一年でだいたいページが埋まる。取り留めもない週では、行間を埋めるほどの感情は湧きおこらないが、時折、万年筆を動かす手が止まらなくなることがあった。事実、かふさんと結ばれる年や麻里さんが生まれる年、そして、その一人娘である麻里さんが嫁ぐ年には、丁寧に罫線が引かれた裏表紙にまでびっちりと記された角張った字で鮨詰めのようになっている。

一方で、彼女の夫の不貞が原因でその当の娘である麻里さんが離婚をし、彼らの家の元に帰って来た年のことや、克明に記されていれば、今回の取材もだいぶ楽になったであろうプラズマ・モダニティー社の関係者との接触の記録、当時、新しく誕生したX市の市議会議員選挙に立候補した際の諸々に関しては驚くほど淡白な記述で済まされている。尤も、選挙云々などというものを記すのはオフィシャルな選挙公報のような類で十分だと彼は考えたのかもしれない。

「けど、あんまりじゃありませんか。傷ついて私が返ってきた週の記述がこれだけですよ」

苦笑いを浮かべた麻里さんが指さす先には、少し線の細くなった字で当時の高和さんの心境が綴られていた。

「娘が帰って来た。妻は、今日のご飯は里芋の煮っころがしが良いのではないかと俺に言う。俺は里芋が献立に選ばれると、汁物まで里芋になるので些か苦手なのだが、それでいいと返した」

麻里さんが言うには、和高家では亭主が出張などで留守の際や、高和さんが口にしない弁当のような類には決まって里芋の煮っころがしが出て来るものだったのだという。

「別れた夫は里芋、大好きだったんですけどね。世の中、上手く行かないものですよねえ」

 

ところで我々取材陣は現在、極秘に進められているプロジェクトに関する質問には一切受け付けないことを条件に奇跡的にプラズマ・モダニティー社の共同創業者の一人にして、現CEOの劉敷衍さんの取材のアポイントメントに成功していた。無論、いきなり接触に成功したわけではない。同社の日本法人との取材を重ねていくにあたって、ポロっと零れた一言が「ひらけゴマ」のパスワードであったようで、それからは驚くほどにすんなりとCEOのもとまで辿り着くに至った次第である。

「おざく……‼ その言葉、いやそこから展開されるマルチモーダルな情報体を日本のインタビュアーの方の口から聞けるとは思いませんでした。それは私の方向性を決めたものと言っても過言ではありません」

身を乗り出して答えた劉CEOは、齢五十半ばにして、未だに好奇心旺盛な少年のような無邪気さを保ち続けていた。体格もスレンダーで、よく言えば若々しく、日々の労働と不摂生によってすっかりくたびれた我々のようなサラリーマン記者たちから言わせてもらえば、青臭いとっちゃん坊やのようだとも言える。ただでさえ、欧米社会ではアジア系は幼く見られがちというのだから、CEOもCEOなりに、人には言えない苦労があるに違いないと喉まで出かかった厭味を飲み込むばかりだ。

そもそも当の「おざく」とは何なのか。今は便利な時代でわざわざ人に聞かずとも、労せず調べたり、調べてもらえたりできる時代なので、ここでの詳細やそのものの歴史などは割愛させていただくが、それは里芋やにんじんなどの野菜を砂糖醤油で似た汁物料理で、生前甘いものが苦手であった高和さんは、自身の故郷の郷土料理である「おざく」がどうにも口に合わなかったのだという。

「そのおざくのウェブ上での最古の記述が一九九四年の四月。ちょうどこの号から、合併で消滅する二〇〇五年の三月末までの約十年間、週報町だよりはバックナンバーをインターネット上でも公開していたのですが、その号の中で若いヤンママたちに当時の町のおばあちゃんたちがおざくの炊き出しをして、料理を教えている記述があるでしょう。そう、桜の開花記事の次です。この部分なんです。それが大学で情報システムを学んでいた当時弱冠二十歳の中国系アメリカ人、そしてしがないギークでナードな蒼白い青年の目に留まったわけです。日本でインターネット元年と呼ばれたのが一九九五年ですから、これは相当早い。皆さんが今でも使っているような国際標準規格の電子文書ファイルも開発こそされていましたが、まだ無償配布が為される前で普及していませんでした。かえってそれが良かった」

一九九四年の四月は和高高和さんが幾度かの異動と昇進を経た後に、課長という立場で再び秘書広報課に舞い戻って来た時期と合致する。ハッカーとしての腕もある劉青年にしてみれば、この週報の責任者を割り出すこともまた造作もないことであったという。

ところで、そのおざくが量子コンピュータ時代の寵児と呼ばれているこの劉CEOとどう繋がるのであろうか。我々取材陣が聞きあぐねていると、彼の方から「話すと熱っぽすぎて、少し引かれてしまうかもしれませんが……」などと前置きされながら、独りでに経緯を語り出してくれた。

「もしかしたらもあるので、一応尋ねますが、このキャラクターをご存じですか?」

劉CEOは自身のスマートフォンを取り出して、一枚の画像を見せてくれた。今年還暦の私には縁遠い世界に見えるが、オタクの人たちが好きそうな絵柄だなという印象を受けた。

しかし、取材陣の中でも比較的年少の三十代の女性記者にはその絵柄に多少のひっかかりを覚えたようだった。

「令和の時代には逆に一周回って新しいかもくらいの絵柄に見えますね。九十年代感というか、3D化しにくそうな鼻筋とか目の形とか。私がアプリでやっているご長寿パズルゲームのキャラの子の初期のイラストと似た感じかな」

彼女がそう呟くと、劉CEOは「話が分かる人が現れた」とばかりに顔がぱあっと明るくなった。

「いいところに目を付けました。実はこの子を手掛けたイラストレーターの方は、その一年後にあなたが今行っているゲームのキャラデザインも手掛けているんです。今でこそ、誰でも知っているような大手ゲームメーカーの看板コンテンツとなっていますが、当時は家庭用ゲーム機の世界とは離れたもっと衆目に付かない場所で生まれたゲームのスピンオフ作品でした。求められるコストとスキルが一般社会にはハードルが高すぎたパソコンを用いて遊ぶゲームというだけで、当時はアングラでいられたわけです。中にはオーパーツのように過剰スペックを持ったゲームも生み出されました。そして、とりわけ私がこの子が登場するゲームに惹かれた点はビジュアルです。どうです、この田舎の町の景色は。16ビット、実質十二、三色の制約の中で、レタッチソフトもない時代にここまでのものを作る執念に圧倒されませんか」

ドット絵で描かれた田舎の景色には取材陣一行も見覚えがあった。とはいっても、誰かの故郷であるとかそういった話ではない。つい先日、取材に向かった旧町役場でもあるX市の総合支所周辺の景色と瓜二つ、それどころか、市に新しい宅地開発の波が来ないせいもあって、殆どそのものの光景であった為だ。

「このキャラクターの女の子、由伊奈ちゃんの出身地がまさにX市であったのです。尤も、当時はまだ合併が為される前ですがね。そして、好物はおざくです。ざっくりとしたゲームの説明をすると、学園が舞台の恋愛アドベンチャーゲームで主人公は新しくお嬢様学園に赴任してきた教師です。そして、ヒロインになる生徒たちには皆、人には言えない秘密があるというストーリーなのですが、彼女はまさに出身が田舎の農家の娘さんであることが秘密なヒロインなのです。周りとの環境に引け目を感じるのかもしれませんが、田舎でのびのびと育った屈託のない子、何の陰もありませんよね。だからか、作中での扱いは攻略難易度が低く、早いうちに出番が済んでしまうコミックリリーフ担当のサブヒロインといったところで、美少女ゲーム雑誌内のファンアートやそこから派生した同人系コミックでの扱いもあまり良いものではありませんでした。この業界、まずはグラフィックから進化してきましたが、後の名作たちのようなシナリオのきめ細やかさは未発達でしたからね、ゲームの容量も少ないですから。私自身、異国からそういった出版社あてにイラストや漫画を送ってみた経験もありましたが……」

劉CEOは思った以上にいわゆるオタクの青春時代を海の向こうで送っていたようで、改めて彼はいつの時代も周りの先を走りすぎているせいで周囲の理解が得られ続けない星のもとに生まれた人なのだなと、我々はまざまざと感じざるを得なかった。

「元々、多産多死の業界です。いつの間にやら権利を継承する企業すら失ってしまったこのゲームの、ましてこのヒロインの解像度を上げるには自分自身で何とかしなくならなければなりませんでした。検索エンジンも碌にないインターネットの世界でやっとこさ見つけたのが、先の記事であったというわけです」

そうして、今よりもオープンソースという名のアングラでアナーキーな哲学のもと手に入れた日本のアニメやゲームで学んだ日本語を多弁に喋るサンノゼのもやしっ子は念願叶って一九九九年七月に来日し、渋谷や浅草の見物もほどほどに新幹線と在来線を乗り継ぎ、ついに由伊奈ちゃんがひた隠しにし続けた故郷に降り立つこととなる。

「市民課に行き、事情を話したら窓口のおばちゃんに驚かれましたよ。まるで恐怖の大魔王が来たみたいな反応でした」

CEOは照れくさそうに頬を掻きながら、当時の成り行きを事細かに話してくれた。

ソースコードでしか配布されていないブラウザをわざわざコンパイルして、税金で買ったパソコンにインストールし、「町だより」をウェブ上に掲載した犯人は片山という名の青年でとても無口な変わり者であったが、ブラウン管のモニター上に映るテレビ局などは歯牙にもかけない故郷の取り留めもない日常を綴った文字列を見た高和さんは「そう悪い物ではあるまい」と、直感し、判こを押したこと、しかし、その当人は劉青年が来日するちょうど三ヶ月ほど前に突然、仕事を辞めてしまったこと、そういったことを五時のチャイムが鳴った後、高和さんは町を案内しながら、劉青年に話してくれたという。

「若い私は失礼なことに少しそのことを残念に思いました。遠い日本の地の地方公務員の身でそんなことをしている人の方がただ頷いてGOサインを出したおじさんよりも面白い話が聞けそうじゃないかと。しかし、三日ほど和高さんのお宅にお邪魔させてもらって、娘の麻里さんの為に従兄弟の三木さんちからおさがりのスキーウェアをもらった時の話、居酒屋の顔見知りである駅員さんが無くした改札パンチを町の呑み仲間総出で雪の降る夜中探し回った話、そういった取り留めもない話をうんうんと聞いているうちに、私が由伊奈ちゃんに求めていた解像度というものがみるみると鮮やかになっていることに気が付いたのです。そして、私はその時、同時に確信したのです。サブヒロインどころかモブキャラクターなどというものは容量不足の産物に過ぎないのだ……と。それが私の仕事の原点となり、以来、高和さんとの付き合いは亡くなるまで続くことになりました」

現代人なら誰でも名前を知っている某企業は、検索エンジンをスタートに世界中の情報を整理し、アクセスできるようになる世界を夢見て作られたという。私自身も新聞社に身を置いている時分、日本法人に取材に出向き、関係者からそのような話をされたことを思い出した。

しかし、それは表向きに仕立てた名目に過ぎないはずだと、劉CEOは見込んでいるという。

「検索と編集は隣人ではありますが、違います。生成と創造にも同じことが言えるはずです。高和さんたちのように、協力者が本分であると考える人ならば、サラリーを対価に親切に誠実に誇り高く生涯を過ごすでしょう。しかし、ベンチャー起業家やアーティストの世界に身を投じる人は己が野心と使命にもっと忠実なはずなのです。私と同類なわけですからね。彼らもまた世界を再構築するに違いないと。しかし、だが、私には一日の長がある。彼らより、少しだけ機微に触れ、理解しているつもりでいる。だから、私は和高高和さんの心ぐみを汲み取りました。そのフラジャイルな機微もまた、新しい社会を維持するために不可欠な存在だと確信していたからなのです」

美少女ゲームのヒロインの話から、最後は随分と壮大な話になってしまったが、和高高和さんがアーティフィシャル・パーソナリティとして選ばれ、半年間の生を過ごしたその内幕なのであろう。

劉CEOはまったく同じ話を二〇二六年十月、病院の定期健診の結果、高和さんに骨ミネラル代謝の異常数値が見つかった際、電極脳波計を抱えながら、熱弁したものだと振り返った。

 

「お父さん、何だか昔テレビで見た天才のお猿さんみたいね」

頭に電極脳波計を装着しながら、居間で湯呑を啜る高和さんの姿を見ては、かふさんは決まってそう言い、くすくすと笑ったのだと、麻里さんは我々取材陣に答えてくれた。人間としての生前の姿で高和さんが送った最後の日常の日々である。高和さんはそれから、一年足らずで、腎臓機能の低下により、肉体との別れを告げることとなる。

「病院の人も、逆に父には最後くらいは普通に家族と過ごさせてあげようと判断してくれたのだと思います。母は肝が据わっている人ですから、そうと決まれば、本当にいつも通りの接し方で父と過ごしました。父にも私にも母自身にもそれが一番、居心地が良いと考えたのでしょう。違っていたのは、父の頭に付いている機械、それだけです」

麻里さんは笑いながら、当時の写真を我々に見せてくれた。かふさんと麻里さんは屈託のない笑顔を浮かべ、高和さんは自分自身が笑われていることへの不満を撮影者に向かって訴えているようである。この写真の撮影者は和高家に経過と状況を聞きに来た劉CEO自身である。我々が思っている以上に、和高家とプラズマ・モダニティー社は以前から、近いところにあったと見受けられる。こういったことは今日に至るまで、マスメディアはおろかどこの配信者によってさえも報じられてこなかった。我々日本のマスコミの能力の低下を受け止めざるを得ず、忸怩たる思いである。

「人生百年時代とは聞きますが、まだまだそんなに長く生きる人も稀ですし、父は最期、苦しまず、眠るように亡くなったこともあってでしょうか、お通夜もお葬式も親戚一同和やかな雰囲気でした。ただ、劉さんだけはこれから勝負に挑むかのような、少しお葬式に臨むには、些か珍しい面持ちをしていましたね」

麻里さんがそう述懐した時のことを、我々は劉CEOにも尋ねた。一杯だけ水を口に含むと、細身の体躯にぎらついた瞳ばかりが印象的な彼の口からは意外な言葉が漏れ出るように零れだした。

「実はというと、あんなに緊張した瞬間は後にも先にもありません。トゥモロー・ワンス・モアのプロトタイプの中で一番はじめにベールを脱いだのが、高和さんのモデルでした。勿論、私たちは自分自身の手掛けたものには常に絶対の自信を持っております。しかし、高和さんは歌を歌ったり、踊ったりする芸能人のような存在ではないですし、専門的な質問に即座に答えられる学者でもなく、市井の人です。市長などですらないのですから、権力者というにはあまりにも慎ましい存在だというのを私たちは見てきていますからね。だから、私たちに合否を突き付けるのは最も身近で高和さんを見てきた人たち、すなわち家族です。脳波、文献、ホルモンバランス、ありとあらゆるものを参照に編み出された人工人格はまさにその当事者がAPの姿を手にしたなら何を考えるか。その答えが必ずそこにあると私は断言できるのですが、それを認めるかどうかは私にはかかっていないのです。それが一番、私を緊張させるものでした」

高和さんの命日からちょうど四十九日が経った二〇二七年の八月十三日、本来ならば、迎え火の炎がささやかに炊かれているであろう和高家には目の下にクマを作ったプログラマーやエンジニアたちがオンラインでの参加も含めると数にして三十名ほどが集っていた。画面越しでないものは一様に大手IT企業が発表したばかりのスマートグラスをかけていた。

「結局はビッグ・テックの力を借りてしまいました。それも液晶の力です。私たちの名前に相応しいプラズマの可能性に満ちたホログラフィックな世界で発表できることが本来のベストでしょうが、その世界は未だ私たちは開発途上ですからね。しかし、あの日は確かに大きな一歩でした」

劉CEOは当時をそう謙遜したが、老眼のかふさんのモデルは累進レンズが使用された老眼鏡としても活用できる改良モデルとなっており、それはプラズマ・モダニティー社自身が開発パートナーとなり、共同で発表された代物でもあった。

「あれまあ、お父さんが映っている」

かふさんが誰もいない床の間に向かって手を振る姿を麻里さんは少し心配な気持ちで眺めていたという。

「私はというと眼鏡をかけるまで、そもそも半信半疑なところが正直ありましたし、母は軽度ですが、認知症を患っていたので、そういった行動をとられるとこっちとしてはびっくりしちゃうので」

麻里さんがあえて、かふさんとは離れた別の部屋でスマートグラスをかけると腎臓の病を患う少し前の頃の高和さんの姿が映ったという。

「おう麻里。ちゃんとこうして喋るのは久しぶりだな。父さん、最後は管に繋がれていたからな」

「お父さん、本当にお父さんなの。お父さんにしては少しお喋りになったね……」

「頭の中でつっかえていたものが取れたように気持ちがすっきりとしていて、すらすら言葉が出る、そんな感じなだけさ」

APとなった高和さんの居場所は液晶レンズに映る和高家だけではなかった。彼の棲み処はプラズマ・モダニティー社が開発・管理しているクラウドサービス上にある為、同時に複数のモニターやスマートグラスの前に現れることができた。

「今、麻里に答えていると同時に母さんの話も聞いている。俺の葬式のこととかな。麻里もかあさんに代わって喪主を務めてくれたみたいだな、世話をかけた。しかし、こんなことが市役所職員時代からできていたらなあ。窓口で引っ張りだこになっていただろうな」

2025年5月24日公開

© 2025 春風亭どれみ

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