フェア:ディレクターズカット

小林TKG

小説

13,200文字

実際は地蔵菩薩が救ってくれるらしいです。

歓楽街の前に立った佐藤は服の胸ポケットを確認した。そこには一枚のクレジットカードが入っていた。服越し、布越しにそれ、その四角いプラスチックの感触を確かめる。頑張ろう。と思った。なんとしても。頑張らなくては。佐藤は意を決して歓楽街に入っていった。

 

毎日毎日、不要なメールがたくさん来る。登録しているGmailに溢れかえる。朝昼晩とすごい数のメールが届く。佐藤はそれを見る度に陰鬱な気持ちになる。陰鬱な気持ちになると同時に、少し愉快な気持ちにもなる。陰鬱な気持ちになる理由はそれを消さないといけないと思うからだ。削除しなきゃ、面倒だな。と感じるから。ただ、愉快になる理由もそれと同じである。削除できる。という感情が湧くから。不要なメールを削除する時、少しだけ気持ちが上向く気がする。大仰な表現になるが、王のような気持ちになる。絶対の王。自分にとって不要なメールというのは不逞の輩である。それをまとめて選択する時、裁きを下している気持ちになる。まとめてチェックを入れたそれらを前に削除を押す時は裁きを執行しているような気持ちになる。王が仰々しく手を上げる。すると一斉にギロチンの刃が落下する。佐藤の頭の中にある厳かな広場の至る所にあまたの首が転がる。削除トレイに入っている削除済みメールを完全に削除する時は、門外に晒してあった遺体を除ける感覚だ。佐藤にとって不要なメールを削除するというのは、まとめて、なるべく沢山を一気に削除するというのはそういう感覚だ。それが毎日三回、四回、五回ある。不要なメールがたくさん集まる度に処刑が行われる。だから佐藤は、不要なメールを受信拒否にしていないし、各サイトでメール配信停止の手続きも行っていない。迷惑メール設定もしてない。処刑が出来るからだ。処刑が出来ることが嬉しい。気持ちがわずかでも上向くから。でも、うわあとも思う。面倒だなあとも感じる。処刑されるとも知らずによくもまあこんなにメールが来るもんだなあ。そうも思う。

その日、そんなメール群の中に一つ見慣れない宛名、題名のものを見つけた。

 

《スイス・フェア》

《来たぞ! 来たぞ! 今がチャンス!!》

 

以前にぐるなびやら楽天トラベルを利用したことがあるので、それに関係するものかなと思った。あるいは登録しているカード会社からのメールだろうか。ディズニーリゾート等のクーポンなのか、あるいはただの宣伝なのかわからないがそういうのが来る事があった。中身を確認すると、

 

《安楽死に興味はありませんか?》

《もし興味があるならこちらをチェック!!》

 

と、そのような事が書かれてあった。他にも色々ごちゃごちゃと書かれていたが、所謂その歴史とか設立の経緯とか設備のすごさとか、そういうのである。その中に定期的に幾度となく青い文字でアドレスが表示されている。何故自分にこのようなメールが来たのか。どこから経由してきたのかわからない。悪質な迷惑メールというか、何かウイルスの類かもしれない。佐藤はそう思った。でも、

安楽死。

興味は。

興味はある。しかしアドレスをクリックするのに抵抗があった。自分の家のパソコンではちょっと怖いな。そう思った。スマホでも嫌だな。佐藤はそのメールをとりあえず削除せずスターを付けて残しておく事にした。それから他の不要なメールはまとめて処刑した。その日も広場にはあまた。あまたの首が転がった。あまた。包丁で切ったナスのヘタやアスパラガスの根、玉ねぎの上と下部分の様に。

佐藤がそのメールの事を思い出しのたのは、それからまた少し経ってから、少し経ってネットカフェにいた時だった。ああ、そう言えば。なんかちょっと前にメールが来たな。ネットカフェなら大丈夫なんじゃないかと思った。佐藤はGoogleにログインしてGmailを開いた。検索バーに安楽死と入力する。スターのついたメールが一件だけ画面に表示された。

 

《スイス・フェア》

《来たぞ! 来たぞ! 今がチャンス!!》

 

メールを開いてアドレスをクリックした。するとアドレスを押したとほぼ同時にキーボードの横に置いていたスマホが振動した。電話。知らない番号からの電話。スマホはネットカフェの固い台の上でずずずと音を上げた。電話に出ると、もしもしぃと猫なで声が耳を襲った。なんとかかんとかと言いますが、と挨拶をされた。今お時間少々よろしいでしょうかぁ~。佐藤は反射的に、すいません今、ちょっと電話出来ないタイミングなので十分後に折り返しますと伝え電話を切っていた。PC画面はGmailのまま。アドレスをクリックしたはずなのにスイスフェアのメール画面のまま。切り替わることなく表示されていた。

ネットカフェを出て約束通り電話を折り返すと、ワンコール目で相手が出た。さっきは女性の猫なで声だったが、今度は男の猫なで声だった。佐藤が自らの名前を伝えると、ご連絡ありがとうございますと言われ、そのまま詳しい説明を受けた。その内容は一言で言えば、

「安楽死しませんか」

という事であった。興味あります。します。佐藤はそう返答した。ありがとうございます。良かったです。電話口からそういう声が聞こえてきた。それはなんだか、その感じはなんだか、タワマンの抽選に当選しました。玉川霊園の抽選に当選しました。佐藤も電話口の相手もそういう感じだった。

それから、池袋にあるという件の会社に出向く事になった。スイスフェアはスイスではなく、池袋でやっているのだろうか。佐藤は池袋が苦手だ。池袋にはいつも人が沢山いる。信じられない程いる。池袋新宿渋谷。時々、世界の全人口がここに居る、集まっているのではないかと感じる。しかし件の会社、Zytgloggeは南池袋一丁目の交差点を越えた所にある。南池袋一丁目の交差点で信号待ちをしている時、佐藤は、ここまで来たら人口密度も少しは減るんだな。そう思った。良かった。池袋駅東口から南池袋一丁目交差点までは距離的には五分程度で済む。しかし人が沢山いるために、倍の時間がかかる。でも南池袋一丁目迄行けば、人も減る。大半の人間が東通りと書かれた通りに吸い込まれて行く。東通りって掃除機みたいだな。佐藤はそう感じた。南池袋一丁目も東通りも好きになった。

Zytgloggeの建屋はその先にあった。立派なビルだった。通りに面した側の大部分はガラス張りで、しかもそれが若干湾曲していた。一見して佐藤はオシャレだなと思った。あと苦手だなと思った。苦手だ。こういうの苦手だな。自動ドアから入って設置されていた電話を操作するとすぐにどうもよくお越しくださいましたと担当者だろうか、人が来た。佐藤と同年代位の紺のスーツを着た女性だ。リクルートスーツではない。採寸してオーダーしたものだと思う。その胸元にZytgloggeという社名の書かれた名札が付いている。そこには斎藤とあった。その人に案内されて二人でエレベーターに乗って上階に上がる。パーテーションなんかで区切られているみたいのではない、肘置きが付いた椅子が並んでいる部屋に案内された。何か飲まれますか。アイスコーヒーとかお茶がありますけども。アイスコーヒーでお願いします。

アイスコーヒーが来るまでの間、佐藤は窓から外を眺めて過ごした。ビル群の間に尖った搭の先端が見えた。代々木にあるドコモタワーだろうか。そうだろう。新宿御苑に行った時よく眺めていた。イギリス式庭園のシンボルツリー、ユリノキの脇からとか。そう言えば暫く新宿御苑にも行ってないなあ。一時は年パスも持ってたんだけどなあ。ある時に行ったらゲート前に列が、渡航者なんかが沢山いてそれで行かなくなったんだよなあ。人が沢山いて。

やがて斎藤女史が戻って来た。彼女はアイスコーヒーとノートパソコンを持っていた。カップのアイスコーヒーを一つ佐藤に差し出す。ミルクとか砂糖は。あ、大丈夫ですいらないです。その後、佐藤の向かいの椅子に座ると、この度はどうもありがとうございます。と言って頭を下げた。佐藤も、はい。とそれに習った。それから何気ない感じで、改めて安楽死に関しての説明を受けた。スイスには安楽死という選択があるんです。すごいですよね。安楽死。佐藤が、どうして自分の所にそういう連絡が来たのか尋ねると、

「以前、安楽死の権利の取得をスローガンにした政党に投票されましたよね」

と言われた。ああ、確かに以前、ありましたね。日本でも安楽死できるようにしようって言ってる政党に投票しました。結果は覚えてませんけど、でも、多分ダメだったんでしょうね。その後、安楽死とか聞きませんし。

「それで、今回連絡をさせていただいたんです」

「選挙のそういうのって、わかるもんなんですか」

「今はマイナンバーカードがありますから」

そうなんだ。そうか。しかしジェフリー・ディーヴァーのソウルコレクターを読んだ後だったからか。さして驚く事も無かった。そういうものなのか。っていう感じ。

「そういう訳で、本当に佐藤さんに安楽死の希望があれば、我々がお手伝いをしたいなと思いまして。それで、どうですか」

「スイスに行くんですか」

「そうですね。まず安楽死の希望を伺いまして、それで本当にしたいとなれば、こちらで検査をしまして、それで結果を確認して、そしたらGO DEATHね」

「料金とかはどうなんですか」

「そこですよね。でも今フェアなんですよ。スイスフェア。ですから実質。こうなってます」

そう言うと斎藤女史は操作していたパソコンの画面を佐藤の側に向けた。ノンクレアのPC画面には0円とポップな字体、游ゴシック体に似たフォントで表示されていた。

「無料で」

「やります」

でも、

「どうしてそんな事になったんですか」

佐藤にはそれが疑問だった。どうしてスイスまで連れて行って安楽死させてくれるんだろう。それもタダで。

「流れが作れたらいいんです。安楽死の。スイスに行けば安楽死できるっていう。皆さんがそう思ってくれたらいいんです」

もしかしたら渡航制限とか、問題が起こるかもしれない。でも、それでもスイスに行く人は絶えない。安楽死したいから。暴動が起こったりしたらいいですけど。デモとか。そしたら少しは考えてもらえるかなって。

重役室のようなその部屋でのカンファレーションを終えると、それでは今から大丈夫ですか。と斎藤女史が言った。大丈夫です。佐藤が言うと、そうですか。じゃあさっそく。と部屋を出て、エレベーターに乗って階が変わり、こちらで着替えてくださいと、お洒落な、ゴルフ場のロッカールームみたいな所に案内された。ダークウッド調のロッカーには検査着が入っており、佐藤はそこで心許ない淡い青色の検査着に着替えた。ロッカールームを出ると、はい、いいですね。じゃあ。と再び斎藤女史に導かれた。両開きのドアを一枚抜ける。抜けた先は健康診断会場の様になっていた。以前に池袋で健康診断をした時に似ていた。それではこちらで佐藤さんの体の検査を致します。斎藤女史がそう言って、まずあそこに見える熱帯魚の水槽の所でお待ちくださいと言われた。熱帯魚の水槽。池袋で健康診断をした時と同じだった。熱帯魚の水槽は健康診断会場で流行っているのだろうか。熱帯魚の水槽の前に座る。その場には何かしらの曲が流れていた。何だろう。クラシックだとは思うんだけど。わからない。でも、ただその場に居るだけで。佐藤は面白くなった。とても愉快な気持ちになった。

それから佐藤は呼ばれる度に身体チェック、血液検査とか、血圧とか、身長体重を同時に測定されたり、バリウム飲んで台に乗ってグルグルされたりした。それが終わったら発泡剤も飲んだ。健康診断だった。それと健康診断ではやらないかもしれない額とか顳顬、耳の付け根、後頭部に幾つもカラフルなコードを繋いでそれで脳味噌も調べられた。これは何をやってるんですか。と聞くと、脳波に異常が無いかのチェックですよ。と、ふわっとした正規の看護師の様な格好をしている女性に言われた。それにしても。佐藤は思った。安楽死したいって言ったら健康診断されて体の隅々まで調べられている。そういうものなんだろうか。いや、そういう事もある。のか。そうか。そういう事もある。死にたいと希望して、それで健康診断をする事もある。そういう事もある。か。

 

それではこちらで終了です。お疲れさまでした。ありがとうございました。

 

幾つもの検査を終えて、熱帯魚の水槽前に戻り、そこでルリスズメとかネオンテトラを眺めていると、看護師が、血液検査をした看護師が、彼女は針の刺し方がうまかった。が来て、そう言った。お洋服を着替えてもらって外出ましたら、斎藤が待ってますので。あと止血パッチももう剝がしてもらって大丈夫ですよ。剥がすのが惜しくなるくらい彼女は針の刺し方がうまかった。針の刺し方も抜き方も。胸元のネームプレートには鈴木と書いてあった。それを覚える位。覚えておこうと思う位。着替えた後、検査着はロッカールームに入れる所がありますので、そこに入れていただけますか。はい。分かりました。彼女が血を抜いてここで死なせてくれたらいいのに。わざわざスイスに行かなくても。

着換えて出ると言われた通り斎藤女史が待っていた。斎藤女史は、お疲れさまでした。何かさっきの部屋に荷物とか置いてたりしませんでしたか。と言った。いや、何も。忘れ物とかも無いですか。はい。大丈夫です。それではとりあえず本日は以上で終了になります。後日またご連絡させていただく事になると思いますけども、御都合よろしい時間帯とかはありますか。いや、電話かメールか、してくださったら折り返します。ありがとうございます。あ、こちらからメールお送りしてお電話で折り返していただく場合、この番号にご連絡いただけますか。斎藤女史はスーツのポケットから名刺入れを出し名刺を佐藤に手渡した。斎藤女史の名前の下に二種類の電話番号が記載されている。どちらでも構いませんので。それでは何か質問などあれば。無ければ終わりですね。佐藤は少し考えてから、

「この近くに東通りって通りがあるじゃないですか」

「はい。東通り。ありますね」

斎藤女史はきょとんとしている。きょとんハテナの表情。

「あの先って何があるんですか」

「雑司ヶ谷霊園がありますよ」

「雑司ヶ谷霊園ですか」

「立派な霊園ですよ。夏目漱石とか小泉八雲とかの御墓があるんですって。あと、竹下夢二とか」

「へえ」

Zytgloggeの社屋を出ると南池袋一丁目まで戻った。東通りのある所まで。東通りは、ピークの時間が過ぎたのかもう朝見た程は人を吸引していなかった。佐藤はそれを見て、これなら大丈夫かなとその通りに入った。あとは脇目もふらずに歩いた。やがて通りを抜けたところにミニストップがあった。こんな所にミニストップがあるんだなあ。佐藤はそう思った。ミニストップは珍しい。救急車とすれ違うと不幸が訪れて、霊柩車とすれ違うと幸運が訪れる。そういう都市伝説が無かっただろうか。それと同じくらい幸運、何かの吉兆に思える。その先に踏切があって、その向こうに。ああ。あれが雑司ヶ谷霊園だろうか。御墓が。墓石が並んでいるのが見える。佐藤は、マップを見ながら竹久夢二の墓所を探した。スマホでマップを開くとその場所が出てくる。永井荷風、東条英機、小泉八雲、ラファエル・ケーベル、夏目漱石、竹久夢二。これか。雑司ヶ谷霊園は広かった。新宿御苑くらい広いなあ。佐藤はそんな事を考えながら竹久夢二の墓を目指した。特に竹久夢二に憧れがあるわけではない。竹久夢二を知っているわけでもない。しかし、佐藤は竹久夢二の墓が見たかった。水曜日のカンパネラの曲にあるから。竹久夢二。雑司ヶ谷霊園には草木が豊富に生えており、墓と墓の間の道は一部を除いてほとんどむき出しの土のままだった。そんな中に何かの花が咲いていてその周りには蝶が飛び交っていた。あまたの墓、墓石が並んでいる。それらが木々の合間から差し込む日の光を浴びている。同じ形の墓は無い。どれもこれも違う。背の高さが違う。土台の形が違う。竣工記念碑みたいなのもある。それらが何を言うわけでもなくただ並んでいる。ずっと向こうまで、見渡す限り並んでいる。静かで荘厳で美しい。佐藤は何度も深呼吸をした。両手を広げて。ラジオ体操第一の最後みたいに。深呼吸をしながら歩いた。竹久夢二の墓を見つけると、その前で水カンの竹久夢二を聴いた。シューベルトも聴いてみようかな。そんな事を考えながら物言わぬ墓石を眺めていると、突然イヤフォンの音、水カンの竹下夢二が途切れ、次いですぐに無機質な着信音に変わった。出てみると、

「Zytgloggeの斎藤ですが」

電話口から声が聞こえてきた。

「すいません。佐藤さんですか。今、大丈夫ですか」

その声は少し上擦っていた。

Zytgloggeの会社に戻った佐藤は、先ほどと同じように立派な重役室みたいな部屋に通された。そこで肘掛椅子に座るとすぐに斎藤女史がやって来た。今度はドコモタワーを眺める暇もなかった。

「すいません。あの、こちらも今しがたわかったというか、確認が漏れていたみたいで恐縮なんですけども」

斎藤女史はそう言いながら佐藤の席の向かい側に座った。先ほどまでのような余裕が感じられない。何かあったんだろうか。佐藤は不安になった。

「あの、失礼を承知で申し上げますけども」

「はい」

「佐藤さんはDTなんですね」

「DT?」

DTって何だ。何の略語だ。

「あ、すいません。今年の末からそういう名称になるんですよ。それで病歴に追加されることになるんですけども、ああ、すいません。童貞なんですね」

斎藤女史は気まずそうに言うと、目を伏せた。

「はい。そうですね。え」

それの何が、それに何か問題があるんですか。

「あのーですね。現在、欧州では喫煙者に次いで、DTとか処女、SYっていうのが、その」

人間として恥ずべきものという風潮になっておりまして。ジュネーブのWHO、世界保健機関でも来年からこれらを社会生活運営困難症という新型の症状としての追加を考えておりまして。

「どうしてそれが」

社会生活運営困難症という事になるんですか。

「端的に、凄く端的にですけども、他人に興味が無いとされているんです。未来の事を考えていないというか。自分が死んだ後の世界に興味が無いというか。それにほら、童貞、DTとか、SYというのは……」

長年に渡ってそれが、それを抱えている人間はハードルが高くなるとか、そういうのがあるでしょう。妄想癖なんて言うと乱暴ですけども。思想が、あるのではないかと。某かの。健全ではない。長年に渡ってそれを後生大事に守っているというのは。大人になりきれていない。というか。いつか、どうにかなるのではないかと、例えばそれが高じて、今度は、今度こそ自分の番だとか、おかしな事を起こすというか。そういうデータがですね。二千年代に入ってから多く。ありまして。それで、何かしら精神にも影響を与えているのではないかと、そういう事になっておりまして。

「そんな事になるんですか」

佐藤は呆然としながらその話、斎藤女史の話を聞いた。別に大事に守っていたわけではない。勿論、何歳まで童貞、DTのままだと魔法使いになれるという伝説を信じたわけでもない。佐藤はただ。ただ……。

「はい。今年の末から、保険証がマイナンバーに統合されるという事で。その際にデータにも反映されます」

DTやらSY。社会生活運営困難症。もしかしたらADHDとかPTSDみたいに呼ばれるようになるかもしれない。DTSY。二千二十年代の新型病理。

「そこで」

斎藤女史は、空気を変えるようにこちらを見た。そして佐藤の事を少しの間じっと見つめてから。

「佐藤さんはどうですか。その、大事にされてたんですか」

「いや、そんなことは無いです」

ただ。ただ単に。その。あの。笑わないで聞いてくれますか。

「はい。なんですか」

子供の頃、地獄先生ぬ~べ~って漫画の何巻だったろうな。最初の方だったと思うんですけど。賽の河原の話があって。あるんです。あったと思います。そこは親より先に死んだ子供が行く場所として、描かれていて。そこで子供は石の塔を作らなくてはいけないんです。でも、それは完成する前に地蔵虐、鬼に壊されてしまうんです。親より先に死んだだけで永遠に苦しむ事になるんだそうです。そういう話があって。それが怖くて。子供の頃。とても。それが怖くて怖くて。怖くて怖くて怖くて怖くて。漫画ではぬ~べ~が助けてくれたけど、でも実際にはそんな事ないだろうから。だから怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて。親より先に死んだら無条件にそこに行くんだろうか。病気だろうが、事故で死のうが、自分に過失が無かろうが、そこに連れていかれるんだろうか。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。それ。怖いなあ。だから。絶対に親より先に死にたくない。そう思って。それで、それが自分の。それが佐藤にとっての人生になった。全てになった。それで、だからそれ以外に興味が無くて。とにかく賽の河原に行きたくなくて。石の塔なんて作りたくなくて。怖くて。怖くて怖くて怖くて怖くて。永遠に石を積むなんてそんな事したくなくて。地獄だから。それは地獄だから。本当に地獄だから。地獄地獄地獄地獄地獄地獄。だから。

だから。

だからこないだ。親が死んで、死んだんです。死んだんですよようやく。ようやく。ちょっと前に父が死んで。それでこないだ母も死んで。良かった。死んだ。ようやく死んだ。良かった。親が死んだ。

ああ。

あああ。ああああ。うあああああああ。うわあああああああああああ。あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああよかったなあ。良かった。本当に良かった。親が死んだ。ようやく死んだ。これでもういつ死んでもいいんだって。よかったって。もう大丈夫だって。だからもう死のうって。死のうって。もう死のうって。もう死のう。親死んだし。もう死のうって。そう思って。だから、死にたくて。安楽死したくて。

あと。それにほら、

自殺はよくないって言うじゃないですか。宗派じゃないけど、キリスト教では自殺したら罰せられるんでしょう。なんでか、日本でも自殺は悪しき事ってなってるじゃないですか。こころのでんわに相談しましょうとかって。まるでよくない事みたいに言うじゃないですか。自殺って。だから、それで、そしたら安楽死しませんかって来て。くれたじゃないですか。だからそれで、安楽死したくて。

安楽死したくて。

安楽死したくて。安楽死したい。安楽死したい。安楽死したいなあ。安楽死したいなあって。安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したいって。親が死んだんだから。やっと死んだから。完全に死んだんだから。だから、安楽死したい。もう安楽死したい。安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したいって思って。安楽死、

「したいんです」

「佐藤さん。それじゃあ安楽死の為にDTを捨てることはできますか」

佐藤の告白が終わると斎藤女史が言った。彼女は佐藤の告白に口をはさむことも無く。ただ。聞いていた。真摯に。彼女は、ただ聞いてくれた。ありがたかった。あるいは佐藤のその空気にのまれたのかもしれない。その場の空気に。安楽死したいに。安楽死したい安楽死したい安楽死したい安楽死したい。に。取り込まれたのかもしれない。

「出来ます」

「あと、どういう風に捨てるにしてもお願いがあるんですが」

「なんですか」

「DTだとわかられないように、悟られないように童貞を捨ててほしいんです。それからあと奔放ってくらいヤッてほしいんです」

そうすれば、

佐藤さんのデータからDTの登録が抹消されると思いますから。

「童貞だとわかられない感じで童貞を捨てる理由はあるんですか」

失敗っていうか、そういうのってうまくいかないと記憶、意識に残ってしまいますよね。で、それがデータに残ってしまうんです。個人のデータに。マイナンバーカード。保険証。DTを捨ててもDT感が残るような感じだと駄目なんです。心証が悪くなるような事は避けたいんです。万全を期したいでしょう。佐藤さん。安楽死の為に。

そうですね。でも、それは、

「それは大変ですね」

恥ずかしながら自分は。佐藤は、彼はそういう事に興味がないまま生きてきた。親に早く死んでほしいと思いながら。そんで死にたいと思いながら。生きてきた。そうやって生きてきたんです。それだけを考えて、親が死ぬまでは死なない様にしないといけないと。そう思いながら生きてきたんです。

「そうですか」

そうですか。

斎藤女史は、ちょっと待っててください。と言ってパソコンを持って重役室を出て行った。佐藤はその間、窓からドコモタワーを眺めながら、死にたい死にたいと思い続けた。死にたい。死にたい死にたい死にたい。安楽死したい安楽死したい。安楽死が出来るなら童貞を捨てるのは全然かまわない。いらない。どうでもいい。死にたいでも、童貞だとばれないように童貞を捨てるというのは。安楽死したい難しいんじゃないだろうか。空気感が出るだろう。死にたい死にたいDTの空気感が安楽死したい。

あ、あの、えっと、あの、その。

みたいなの安楽死したい。

「お待たせしました」

少ししてから斎藤女史が戻って来ると佐藤の側に来て、こちらをどうぞと言った。黒いカードが一枚、佐藤の前に置かれた。

「これは何ですか」

斎藤女史はカードを置くと自分の席に戻ってから、

「それは弊社で用意致しましたクレジットカードです」

それで風俗でもデリヘルでも立ちんぼでもパパ活相手の学生身分でも何でもいいです。とにかくやりまくってほしいんです。出来たら朝昼晩と、セックスしてください。一か月ほどそういう生活を繰り返したら、こちらでの目算ですけども、おそらく佐藤さんのデータからDTが抹消されると思いますので。

「でも、童貞は」

童貞うんぬんについては。

「佐藤さん。それはこれから弊社で何とかします」

なんとかする。どうやって。

「特訓です。頑張れますか」

「それは、勿論」

安楽死できるなら。

「それでは、こちらにどうぞ」

斎藤女史が立ち上がって、佐藤はそれに続いた。エレベーターに乗って階が変わって。健康診断した時と同じ、検査着に着替えるロッカールームがあって、その先に両開きのドアがあって。着替えてから両開きのドアを抜けると、そこには斎藤女史ではなく、鈴木さんが、採血の時に感嘆した。その技術の高さに感嘆した。この人にずっと血を抜かれて、それを死ぬまでやってくれたらいい。抜いた血は全部、献血に使ってもらってもいいですし、別に捨ててもいいですからと思った。鈴木さんが立っていた。

「こちらにどうぞ」

鈴木さんはそう言って、佐藤の事を熱帯魚の水槽の前に連れて行った。熱帯魚の水槽の前の椅子に佐藤の事を座らせてから横に座った鈴木さんは大丈夫ですか。と言った。佐藤が、何のことかわからないまま。はい。と答えると、彼女は、鈴木さんは突然キスしてきた。口に。舌も入れてきた。鈴木さんの舌。そのままいつの間にか検査着の下が脱がされていた。佐藤は逃げようとした。何が起こってるのかわからなかったから。でも、それを見越したように鈴木さんは言う。

「大丈夫ですよ。ターミナルケアの現場で慣れてますから」

それから舌を出した。舌。涎が垂れる。ピンク色。鈴木さんの舌。綺麗な舌苔。舌ブラシを使ってるんだろうか。綺麗な赤紫。タンみたいな。焼肉屋で出てくる。レモン塩で。刻んだネギをのせて。涎を掌に集めている。その手で。その手は、その手が佐藤のチンポに触れる。勃起してる。鈴木さんの手がチンポをしごいた。佐藤はそれからチンポをしごかれ続けた。熱帯魚の水槽の前で。水槽、ブルーライトに光る熱帯魚の水槽。その中のルリスズメとネオンテトラを眺めながら。佐藤は吐精し続けた。勃起が収まらない。ずっと収まらなかった。鈴木さんはしごき続けた。

ターミナルケア。佐藤は思った。佐藤の父は終末病院で死んだ。だから聞いた事があった。最終的には。最終的にそういう所に入る男は、自分では動けない、ほとんど動くこともままならない男の人は、最終的には、自分のチンポを弄る事だけが幸福なのだという。最終的には。本当かどうか知らない。でも、最終的にはそういう事になる。そういう事に。

「いっぱい出ましたね。でも、」

がんばってもっともっと出しましょうね。

そう言って出しても出してもしごき続けた。

「これから特訓ですからね。頑張りましょうね」

耳元で声がする。息があたる。耳が舐められる。綺麗な鈴木さんの舌で。上タン塩みたいな舌で。陰嚢がぎゅっうっとする。精子が出る。また口が塞がれる。

佐藤の精液が熱帯魚の水槽まで飛んだ。水槽に付着したそれをエサだと勘違いして魚がその周辺に集まって来た。

鈴木さんはしごき続けた。佐藤は今死んでもいいと思った。ここで死ねるなら死んだ方がいいと思った。採血が上手な鈴木さんは、針の刺し方も抜き方もうまい鈴木さんは、精子を抜くのも上手なんだなあ。すごいなあ。ああ、死にたい。死にたい死にたい。

「これが終わったら今度はおっぱいです。その次はまんこですよ」

鈴木さんが言う。

「実際に見てみて、触ってみましょうね」

今死にたい。ここで死にたい。死にたい。今死にたい。抜かれすぎて、心筋梗塞とか、そういうのになれ。脳味噌のどっかの血管切れろ。全部切れろ。コードを引き抜くみたいにぶちぶちぶちって乱暴に切れろ。心臓破れろ。死ね。今死ね。今死ねたらいい。死にたい。ああ死にたい。最高だろうな。

気がつけば、その場にはさっきと同じ、何か、曲が流れている。クラシック。何だろう。その時、佐藤にはその曲が美しいと思えた。さっきはそうは思わなかった。そう思わなかったかもしれない。でも今は思う。なんて。クラシックなんて知らない。これはなんて。でも思う。美しいと思う。天国みたい。天国みたいだと思う。まるで天国みたいな音楽だ。唇が離れたタイミングで、鈴木さんに聞いた。もうきっと他にタイミングがないと思ったから。

「あの、これはなんて曲ですか」

「これですか。シューベルトですよ」

鈴木さんはキスなんてしてないみたいな顔で言った。チンポなんてしごいてないですよ。精子なんて出させようとしてないですよ。という風に。

シューベルト。

シューベルトのアヴェ・マリアっていう曲ですよ。これはアヴェ・マリアをピアノで演奏しているんですよ。

「へえ」

そうですか。

佐藤は思った。再び口が鈴木さんの口で塞がれる。

アヴェ・マリア。クラシックなんて全然知らない。知らないんです。鈴木さんはクラシックに詳しいんですか。ピアノの飛び上がる様な高い音が聞こえた瞬間、また射精した。ああ、そうですか。そうなんですか。シューベルトのアヴェ・マリアっていうんですか。

とても、

綺麗ですね。

美しいですね。

まるで、

陽光の中にある雑司ヶ谷霊園みたいですね。

そう言いたかった。鈴木さんに。でも言えない。口が塞がれている。鈴木さんの舌が入ってきている。上タン塩のようなそれ。生まれたばかりの赤ちゃんの様な。赤い。綺麗な舌苔の。鈴木さんの舌。それが内視鏡みたいに口の中に入り込んできている。宇宙や深海を捜索する探査艇の様に。口内を探られている。いい匂いがする。鈴木さん、何かそういうサプリとか飲んでるのかな。それとも何かつけてるのかな。まんこもこういう匂いがするんですか。もしくは、それは、自分が勝手にそう思うだけなのかな。いや、でも、そんな事いいですよね今。そんなのどうでも。とにかく、

とても。

綺麗ですね。

そう思うと、また出た。陰嚢が痺れる。金玉がもちあがる。上に引っ張られるような気がする。腰が浮く。抜けるかもしれない。精子が抜ける。注射器の空気を抜くみたいにぴゅっぴゅっって飛ぶ。また水槽まで飛んだ。

死にたい。死にたい死にたい。安楽死したい。安楽死しなくてもいい。今死んだらいい。ここで死ねばいいのに。

ブルーライトの照明で青く光る水槽、その色々な所に、ルリスズメとネオンテトラが集まっている。佐藤の飛ばした精液の付着部に集まっている。彼らはそれがエサだと思ってそこを何度もつついている。でも、それはいつまで経っても取れない。きっとずっと。それを取ることは叶わない。

2024年7月5日公開

© 2024 小林TKG

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