インターネットで見た、精神科医へのお悩み相談で以下のようなものがあった。家に定職につかず三十八になる弟がいるのだが、姉である相談者にことあるごとにいやがらせをしてくる。それが、年々エスカレートしていて、こまる。なにか精神を病んでいる感じで、治療がひつようなのではないかと思う。
これに対する精神科医の解答が、なかなかに衝撃的であった。なんとなれば、その弟はじつは存在しないのではないか。相談者が叙述しているあまたの弟からのいやがらせは、質問者の行動をさきまわりして知っていなくてはできないようなものばかりである。弟が存在するとしても、質問者がうけているいやがらせなど、ほんとうは起きていないのではないか。すべて相談者のあたまのなかでだけ起きている可能性がある。
ふと、私の妻はほんとうに存在するのだろうか、と疑問がわいた。部屋がべつということもあるが、ここ二年ほどかのじょにふれた記憶がない。まいにちいっしょに夕食をとっているが、それでかのじょが存在するということの証明にはならない。二人ぶんの食事をつくって、私ひとりでたいらげているのかもしれない。じっさい、私はここ何年かでずいぶんふとった。
妻には妹がいて、それがまさに統合失調症なのだ。つねにだれかからの心ない声がきこえるとのことだ。その話を、いつかの夕食のときに妻の口からきいたのだが、これは、かすかにのこった私の理性が反抗して、私に正気にもどるよう訴えかけていたのではないか。その妹の顔をついぞ思い出せないのが、この仮説をうらづけている気がする。
きんじょの喫茶店でコーヒーをすすりながら、そんなことをかんがえた。金曜の夜に、ハンバーグを食べて、いまは食後である。妻は友だちと旅行にいくとのことで、きょうから日曜の夜まで家にいない。浮気ということもおもったが、そもそも妻が存在しないかもしれないとなると、不安の出どころがもっとうすきみわるくなる。
探偵をやとおうかとおもった。私の身のまわりのにんげんは、私の対応を心えているにちがいなく、妻が存在するかどうかという問にすなおにこたえてくれるかあやしい。なので、まったくの他人である探偵に妻の浮気調査を依頼すれば、存在しないにんげんの浮気調査などできないのだから、それを以てほんとうのところがわかるはずである。
スマートフォンから、探偵、ということばで検索をかけてみた。浮気調査特化型の私立探偵の情報が得られた。スマートフォンのメモ帳にその電話番号をひかえておいた。気がむいたら、あした、電話をかけてみようとおもって、店を出た。
つぎの日は昼ちかくまでねむってしまった。とうぜん、妻は家にいない。いなくてあたりまえだとおもった。きのうの夜はへんなことをかんがえてしまった。
キッチンで水をのんだ。しずかだった。妻がいないからであったが、なにか、つきものがおちたという感じもした。一生、妻がかえってこないのではないかとおもった。妻がかえってこないということは、私の妄想から消えたということになりそうだが、妻の記憶は私のなかにあるわけで、ただかえってこないというだけでは、私が病気だったとして、完治ということにはならない。私のなかの妻のおもかげは色濃く、かえってくることを願えば、いつかひょっこりかえってくる気がする。そうするといまの私は、妻の家出、というストーリー仕立ての妄想にとりこまれているだけである。妻のことをかんがえること自体が負けいくさなのではないだろうか。
げんに妻はいないのだから、いないひとのことをかんがえるひつようはない。
洗濯機をまわした。洗濯かごのなかには、妻の下着もあった。妻の下着なのか、あるいは妻の下着ということにしている女ものの下着なのか、つい、かんがえてしまう。こういうことをかんがえてしまうのが、すでになんらかのやまいにおかされている気がする。
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