待ち合わせはここで

竹之内温

小説

6,554文字

浮気をしたと嘘をついてばかりいる彼女。病的に老いを恐れる彼女。髪の毛を切ることをためらい続ける彼女。ぼくの思いはいつだって届かない。

君は髪の毛を切らなくてもいいんだよ。今のままで。ただそれだけだ。

 

「私のこと好きなんでしょ?」

「好きだよ」

「だったらお願いよ……」

「もう少し待ってて。あと少しで集まるから」

「あと何日位?」

「多分七日間あれば……」

僕がそれだけ言うと彼女はうん、うんと二度頷いて僕の身体を舐めまくって、目を閉じた。一年前、僕はその時あまりにも眠くて、彼女の欲求に答えることなく眠ってしまった。その後に続くすすり泣き。彼女は僕が気付くまで、何時間でも泣き続けられるだろう。過去を振り返ればそこには、彼女にしか分からない「未来を考えられなくなる程悲しい記憶」が詰まっている。昔の恋人のことなのかその恋人が発した言葉なのか、内的考察の結果なのかは分からないが、僕が彼女の過去を彼女の口から聞いたとしても僕は彼女の言葉を信じないだろう。彼女はとても嘘つきだから。

 

彼女には嫌いなものがたくさんあった。その割に好きなものは僅かしかなかった。綺麗な女の人、アイスクリーム、古本屋、そして僕の身体。謙遜して僕の身体と書いた訳ではない。彼女の興味はいつだって僕の身体にあった。僕と一緒にいる間、彼女は興奮し続け、発情し続けていた。だから僕とは三日間以上一緒にいられないのだそうだ。

「あなたと一緒にいるととても疲れるの。だからあなたの部屋から帰ってくると、私は死んだように眠りを貪るの」

僕はなにも特別な身体をしている訳ではない。僕が誰も気が付かなかった彼女の悦ぶことを知ってしまったからだ。それは技術的なことではなく、彼女のどこをよく見るかといった類の話だ。僕は彼女が僕の話で笑っているところを見たことがない。笑顔はいつだって僕の身体が導き出した結果だ。彼女はいつでも身体に心を翻弄されていた。でも僕はそれが不幸なことだとは思わない。心が正しい答えを導き出す、唯一ではないからだ。そもそも心と身体を分けて考えるのは間違っていると彼女ならば一喝するだろうが。

 

「私が何故、歳を取りたくないか分かる?」

「醜くなるから?」

「違うわ。私がもしも介護してもらわなくてはならない身体になったら、男の人を何百回と気持ちよくした部分を見られるでしょう」

「そうだろうね」

「あなたはそれにまるで嫉妬を感じていないみたいね」

「だって君の大切な部分を見るかもしれない人は、まだ生まれていないかもしれないんだよ」

「それもそうね」

彼女はたいして綺麗な訳でもないのに、年齢を重ねるのを極端に怖がった。美人は本来の容姿に若さの加わった天上の美しさを過去に経験してしまった後では、年齢から生まれる不可を感じた時、突然に醜くなった気分を味わうのだろう。しかし大凡の人は最初から完璧とは程遠い状態なので、多少美しさが損なわれたところでたいした変化はないはずだ。彼女は過去も現在も概ね綺麗なのだから。しかし彼女が歳を取るのを嫌がっていた理由は僕の想像していたものとは違った。僕はそんな彼女を何度も嗜めてきたが、彼女は僕の話を聞いてはその場でどんどん捨てていった。もちろんそれが悲しくないとは言わないが、「ちゃんと話を聞いてよ」と言ったところで、その話も捨ててしまうので身体を使って会話をするしか方法はなかった。

そんな関係よく続くもんだと人は言うかもしれない。しかし恋や恋人の定義は一体、僕と彼女の関係を否定する程確固たるものなのだろうか?

 

「この前ね、男の人の家に一人で行ったの」

彼女はよく浮気をしたと僕に話してきた。それらの話は嘘だった。彼女は話の中にきちんと嘘だと分かるように仕掛けを用意しておいてくれた。彼女は嘘をつくことで何かを確かめたかったのだろう。何かとは僕の所有欲や猜疑心のことではもちろんない。彼女がそれらの話を僕にした時の、彼女自身の内的な変化に関する事柄。

「うん」

「その人はね、勢いよく私の唇の中に舌を入れてきたわ」

「うん」

「私は導かれるままにその人の性器に手をかけた。とても大きかった」

「うん」

「でもね、違ったの。今まで誰かの身体に慣れることなんて決してないと思っていた。だって誰かの身体にもしも慣れてしまったら、その人は私よりも私の身体を知っているということだもんね。それって私の殆ど全てを知り尽くしていると言っても過言ではないわ」

「うん」

「結局ね、その人とはできなかった。私はいつもと違う! なんて思ってしまったのよ。もちろん私の身体はいつも通りにとても濡れていたけれど、できなかった」

「うん」

「途中でやめて帰ってきちゃったから、その後もずっと私の部分は濡れていた。もうあなたとしかできないと思ったら泣けてきちゃった」

「それって嬉しくて泣いたの?」

「まさか。もう私のことを縛らないで。私は誰にも執着したくないし、誰にも私の身体に侵入して欲しくないの」

「それはもう僕とはしたくないってこと?」

「本」

「えっ?」

「あなたならこれだけで何のことか当てられると思ったのに……」

この時の話はきっと彼女には珍しく、真実を語っていたのだろう。彼女の中でこの行動は浮気ではなく、交歓不可の悲しみを表わしている。僕は溜め息を一つだけついた。彼女の欲しがっているものは誰かが隣にいて抱きしめられている実感ではなく、遠くにいても想い続ける時間なのだろうか。それにしては彼女は僕といると、身体ばかりを欲しがりすぎる。

自分の部屋の中の狭くて侘しい空間。安物ばかりの洋服を丁寧に洗濯し畳んで、クリアケースの中に収納している。くだらない。折り目太→削除正しい生活を否定する人はきっといないが、CDケースに収められた音楽では彼方を眺められない。

 

彼女の呟いた言葉の意味は大分後になって、ようやく分かった。本棚の奥に仕舞われていた本を暇つぶしに読み始めると、彼女の「本」という言葉が蘇ってきた。彼女が自分を投影したのであろう女の人の背景に、苦悩する主人公をやはり彼女は無視していたようだ。僕は内容とは関係なしに、涙を流した。

 

僕と彼女のデートの出発地点はいつでも美容室の前からだった。彼女は人ごみが苦手だったので、二人で外出するのは決まって平日だ。平日の彼女は楽な体勢で立っていられるらしかったが、休日の夜中に僕のアパートを訪れる彼女は猫背で湿っぽくて全てに過敏だった。彼女の髪の毛は胸の辺りまで伸びていた。僕たちが会った頃は耳の横で切りそろえられたボブヘアーだったが、季節を越え眠りから覚めると、髪の毛は少しづつ伸びていった。

「私が強くなるためには、まずは髪の毛を切らなくてはいけないの」

「どうしてそう思うの? 強さや脆さと髪の毛って関係あるかな」

「あなたには分からないわよ。先週だって美容室に行っていたじゃない。あなたにとって髪の毛は、髪型を大切にするおしゃれの一貫→一環なんでしょう。私はこれでね、他人と自分の間に境界線を作っているの」

彼女はそう言うと、毛先をちょこっと舐めた。僕は僕の性器を舐めている彼女を思い出した。

「髪の毛で?」

「そう。私は幼い頃からずっと美しい髪をしていたの。だから当然家族や親戚にも髪の毛を褒められて育ってきたの。もちろん男の人にもね。いつからか私は誰かに髪の毛を触られるために髪を伸ばすようになった。それが習慣になって大分経ってから、私はもう短い髪の毛では自由に外を出歩けないことに気が付いたの。だからって長い髪の毛でいることが自由そのものって訳ではないのよ」

確かに彼女の髪は美しかった。色素が薄く茶色がかった髪は一本一本が細く、世界の汚れを全く受け入れていないようだった。髪に触れると指先に髪が吸い付き、そのまま僕の指を掌からもぎ取ってしまいそうで僕は彼女の髪の毛になかなか触れられなかった。そんな美しい彼女の髪の毛も毛先の方は傷んでいて輝きもなく、悲しみを漂わせていた。それは僕の部屋のクリアケースの中の洋服と一緒で、二人で抱き合って興奮していても視界に僅かでも入り込むと虚しさを感じずにはいられない。生活という一片に欲望が敵わないなどとは思いたくないが、どうやら認めなくてはならないらしい。

「私にとって髪の毛は、洋服やアクセサリーと同じにファッションの一貫→一環だとはどうしても思えないの。殆どね、目や足や指先と一緒。世界と戯れようとする時には必ず必要な存在なの。足や目や指先が積極的な側面だとしたら、髪の毛は積極的な行動に伴って心や身体を奪われないために存在する、警備係みたいなもの。この意味って分かる?」

「あんまり……」

「まぁ、分かってもらわなくてもいいわ」

「あなたに会う少し前に衝動的に髪の毛を自分で切ってしまったことがあったの。あまりにも悲しいことがあって。でもそれから何ヶ月間かは最低の気分だった。ウィッグを被って気持ちを誤魔化したりもしたけど、やっぱり自分の髪の毛じゃないと駄目ね。裸で外を歩いているみたいな気分になってしまうのよ」

「うん」

「そういう時はセックスだって満足にできやしない。どんな型であろうと人との交流が難しいの。髪の毛が長い時はそれなりの生活が送れるから、今は結構気楽に過ごしてる。でもね、私いい加減短くしてみようと思うの。いつまでもこのままではいけないと思って……」

いつまでもこのままでいいんだよと僕はその時答えられなかった。だから代わりに彼女が気に入るような美容室をインターネットで探したり、友達に聞いたりした。目ぼしい一軒を見つけて彼女に報告すると、彼女は陽気すぎる位の声色で喜んだ。しかし当日になってその店の前まで行くと

「やっぱり今日は気分が乗らないや。また別の機会にしましょう」

と勝手に決めて、すたすたと店に背を向けて歩き出してしまう。

「いっそのことさ、髪を伸ばし続けたら? どうせ摩擦で髪の毛は切れるんだからある程度の長さからは伸びないはずだよ」

「どうしてあなたは私が一人で思い悩むのを妨げるの?」

「僕は君の心が弱いなんて思っていないから」

「何も知らないくせに。ここまで来るのだって私にしては大仕事なのよ」

結局僕と彼女は五十軒近くもの美容室の入り口を見ただろうか。美容室店構え早押しクイズがあったら間違いなく僕は優勝するだろう。けれど彼女は一問も解けないはずだ。彼女は髪を切りたいというくせに、いざ僕が美容室に連れて行こうとしても、どんな店かを確認する前にその場所を立ち去ってしまったからだ。デートの最初は不機嫌の直中から始まる。こんな時は彼女を裸にして抱きすくめてしまえばいいのだろう。しかし街の真ん中で大切な彼女を裸にする訳にもいかず、愚図な僕は立ち止まってしまいそうになる。抱擁に代わるもの、僕の持っている言葉では駄目なのだ。僕はそんな時決まって喫茶店に彼女を導いた。僕自身これからの段取りを考える時間が必要だったし、彼女の性器に僕の性器を突っ込めない代わりに、彼女の口から水を流し込めば少しは気持ちが落ち着くだろうと思っていたからだ。何でもいい、彼女の身体に目に見えるものを与えればいい。それは仏に捧げる供仏みたいなものだ。

 

僕がなぜ美しくもない我が儘な女に振り回され続けているのか、不思議がる人もいるだろう。確かに僕は彼女と一緒にいた頃いつでも消耗していて、彼女を笑わせるために誘い水みたいな笑顔を振りまき、心から笑ったことはたったの一度しかなかった。「私、死ぬから」などと言って、彼女が僕を脅迫していた訳ではない。僕は自ら進んで一緒にいたのだ。

 

僕の精液はもう残っていないらしい。彼女が持っていってしまったみたいで、申し訳程度に垂れることはあっても流れ出ることはない。彼女は身体に慣れるということについてよく話をしていたが、それはいつも自分のこととしてだった。僕は男だから女のように誰かの身体を愛おしいと思うことはないと。でもそれは間違いだ。しかしこの話を僕が彼女に話しても「そう」と素っ気なく言われただけだろう。

 

「ねぇ、次は絶対に切るから。今決めたの」

彼女はあっという間にコップの中の水を飲み干し、注文したばかりのコーヒーも空にしてしまう。

「髪を切って本当は何をしたいの?」

「外を歩いたり、セックスしたり皆が当たり前にしていること。もう髪に頼っていたくないのよ。あなたはどうせ次も今日と同じようになると思っているんでしょう」

「そんなこと思っていないよ」

「嘘つき。あなたって本当に嘘つきね」

彼女は自分のついた嘘をあっという間に忘れてしまう。長い髪でする行為と短い髪でする行為にどれだけの違いがあるというのだろう。髪で互いの視線が遮られても僕達は大して不自由していないし、僕の手がある限り彼女の顔にまとわりつくものを払いのけてやれる。裸になってしまっても尚覆い隠したいものの正体が僕には全く分からなかった。彼女はトラウマという言葉をとても嫌っている。だからそれのせいになんかしたらきっと逆上しただろう。

「結局あなたも私のことを信じてはくれないのね」

「信じてるって言葉を信じない君だって、僕を信じてはいないじゃないか」

「ごめんなさい……」

彼女は場所がどこであれ、見放されたと思い込むとまるで家の中にいるかのように言い淀み、さめざめと涙を流した。僕は彼女がもっと泣いた方がいいと思った時には、彼女のために新しい飲み物を注文したし、止めようと決めた時には一切の飲み物を禁止した。

 

「これが最後の我が儘だから、お願いを聞いてくれる?」

僕は内心どうせ最後なもんかと思っていたが、「いいよ」と頷いた。

「来週になれば本当に全部集まる?」

「ああ」

「じゃあ今週は私と会わないで。その代わり絶対に来週になったら会ってね。そしてその時にあれを持ってきて欲しいの」

「分かったよ」

彼女はそれだけ言い終えると、自分から進んで二杯目のコーヒーを注文した。彼女はたくさんの水を飲んだが水が好きな訳ではないらしく、自分から水に近づくことはなかった。しかし僕が「喉渇いた?」と聞くと必ずうん、うんと頷いた。僕はこの時初めて飲むことに積極的な彼女の姿を見た。

 

「どう?」

「どうって、どうしたの? ショートカットのウイッグでまずは慣してから切ることにしたの?」

「やっぱりあなたは私を信じてくれないのね。これ私の髪の毛よ。あなたなら似合うよって言ってくれると思ったのに」

僕は彼女が立ち止まり続けるだろうと信じていた。だから正確には失敗し続ける彼女を彼女らしいと思っていたのだろう。

「私はあなたの心を一番に信じていたのよ。身体も信じていたけど、それ以上に。私が切り落としたのはただの髪の毛じゃなくて、これまでの記憶やら言葉なのに。さようならを言わなくちゃ駄目みたい」

「でも持ってきたよ。君が欲しがっていたもの」

「最初で躓いたら、もう転がるしか私にはできないよ。さようなら」

短い髪の毛の彼女はそう言い残して僕の元を去って行った。道路がまるでリビングか部屋に続く廊下かのように豪快に泣きながら、一度も後を振り返らなかった。

 

彼女の最後の願いとは、彼女と僕が過ごした場所や一緒に食べた食べ物や飲み物や、映画や動物の写真やメモを集めてというものだった。彼女の変な考えでは記憶は心だけでなく、指先や膣や髪の毛にも残るらしかった。僕は彼女と会わない日、今思い出すと本当にたくさん歩いていた。一年半を振り返るのに三ヶ月もかかってしまったが、それでも一年半の全てには到底追いつかない。歩いている間、僕はたくさんの水を飲んでいた。その時は気が付かなかったが、もうあんなにたくさんの水を飲むことは決してないと今ではよく分かる。僕は自分で欲して水を飲んでいた。そしてその三ヶ月間の間に髪の毛を一回切った。理由は簡単だ。夏で暑かったから。

当時は何故彼女がそんなものを欲しがるのかよく分からなかったが、今ならば分かる。僕の元には僕の曖昧な記憶と、彼女が必要とした記憶が残っている。僕は髪の毛に記憶が残ったり、心を守る殻の役割をしたりするとは思えないが、彼女がそう感じていたんだということだけは分かってあげられる。彼女が最後に欲しがったものは僕の性器ではなかった。

2007年7月30日公開

© 2007 竹之内温

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