魔物

絶世の美女(第6話)

吉田柚葉

小説

7,580文字

ほんとに何も考えずに書きました。まあ、書けるもんだなという感じです。

まるで落っこちてきそうな空だった。実際に落っこちてくることはない。と思う。こんなことを言っても、誰にも伝わらないだろう。でも僕は空を見て落っこちてきそうだと思ったのだ。

すっかり夏だというのに僕は真っ黒のスーツを着ていた。勿論暑い。暑くないなんてことはない。だが我慢できないことはない。勿論暑いし汗もかくが、スーツは僕の誇りなのだ。バカみたいに汗をかいて契約がとれた日のビールは最高だ。最高の一杯のために僕は生きている。

が、その日は契約を取ることができなかった。でも汗のかき損だとは思わない。契約なんて取れない日の方が多い。いちいち落ち込んではいられない。最高の一杯ではない一杯を一気に喉に流し込んで、今日のことは綺麗さっぱり忘れてしまう。

夜、部屋の電気を消して十二時過ぎにベッドに入る。すると、窓を叩く音が聞こえる。まただ。魔物がやってきたのだ。

僕は恐る恐る部屋の窓を開けてやる。突風が飛び込んでくる。最初の頃はその風をもろに顔にうけて、ホワイトアウトするような衝撃を受けていたが、最近は上手くなって、窓に顔を近づけないで手だけのばして窓を開ける。

まずは、魔物の足が見えた。真っ黒な、ブーツでも履いているようにやけにとんがった足が、月明かりに照らされて窓から突き出てくる。次に、鷹の足を思わせる禍々しく巨大な爪が、窓枠からのぞかせるのが見えた。ぬるりと魔物の横顔が突き出る。何度見てもゾッとする。

魔物が僕の部屋に入ってきた。身長は高くはない。多分僕とそう変わらないだろう。だが、どうやっても力では勝てないであろうという本能的な確信が、僕にはあった。
「どうだ、最近は」

と魔物がきいてきた。
「別にどうもないけど」

と僕は答えた。「もう寝るんだ。また今度にしてくれないか」
「今度にしても、どうせお前が寝る時間にくるぞ」
「だったら金曜日か土曜日にしてくれ」
「なに、ほんの五分だ。付き合ってくれ」

と言って魔物は僕にいくつか質問した。昨日の夜になにを食べたか、とか、最近運動はしているか、とか、そういう質問だ。知らぬ間に僕は眠りについていた。

窓から入り込んでくる空気が寒くて目覚めた。魔物は帰る時に窓を閉めないのだ。爪がデカすぎて上手く指を扱えないのかもしれない。あるいは窓を閉めるという発想自体がないのかもしれない。

その日も、空は今にも落っこちてきそうだった。そして、契約は取れなかった。訪問先で色々と心無いことを言われた気がする。会社に戻って上司に色々と嫌味を言われた気もする。だが僕は気にしない。三年前にこの会社に転職したときは、そういう言葉のいちいちに揺り動かされていたが、もうそんなことは無くなった。

契約が取れない日が続いた。なにかやり方が悪いんだと思って、なにか偉そうな人のセミナーに参加した。なにか偉そうな人は「結果」を出している偉い人だった。僕は彼の話を聞きながら、ノートを取った。商品を売るということは自分を売るということだという。その言葉をノートに書き写しながら僕の頭にあったのは魔物の姿だった。なぜかは分からない。

またしばらくしてある夜、魔物がやってきた。
「どうだ、最近は」
「どうだも何もあるかよ」

うんざりして僕は言った。
「調子が良くなさそうだな」

と魔物は言った。それから、いくつか質問された。よく見るサイトとか、好きなミュージシャン、一週間休みが取れたらやりたいこと、などだ。
「なんでそんなこときくんだ」

ときいてみたが、そこはすでに夢の中だった。

一か月ほど経った。何件か契約が取れて、上手いビールを何杯か飲むことができた。しかし、なにか常に違和感があった。

高校時代のクラスメイトから連絡があって、ひさしぶりに会うことになった。
「本当にひさしぶりだな」

とそいつは言って、額をハンカチで拭った。なんでも、結婚したという。「結婚式は挙げないつもりだ」と言って、理由は言わなかった。われわれはちょっとしたホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいた。
「おまえ、仕事は。外回りだったっけ」

ときかれた。「上手くやってるか」
「上手くいくこともあるし、いかないこともある。まあ、みんなそうだと思うけど」
「なに売ってんの」

ときかれて、言葉に詰まった。しばらく変な間が空いた。僕は、聞き取れなかったことにして、
「ごめん、なんてきいた」

2022年6月18日公開

作品集『絶世の美女』第6話 (全10話)

絶世の美女

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© 2022 吉田柚葉

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