1.
天田愚庵(天田五郎)、安政元年に磐城平城下(今の福島県いわき市)に生まれました。父親は「坂下門の変」で水戸藩士たちに襲撃された安藤信正の家臣です。慶応4年(明治元年)鳥羽伏見に戦いから始まる戊辰戦争時に新政府軍が北茨城港に上陸したことから、前髪を落として元服し出陣します。しかし、平城は陥落し、敵の掌中に落ちます。この戦いの中で父母妹が行方不明になり、五郎は山岡鉄舟の手先として働きながら写真家を装って父母妹の行方を捜します。鉄舟は五郎を清水の次郎長の養子にし、次郎長の自伝を口述筆記し、「東海遊侠伝」を出版します。同じ頃に次郎長の命で富士の裾野の開墾に従事しますが、次郎長の子分たちに嫌われて、開墾を中止し、養子を白紙に戻して、再度、父母妹の行方を捜すたびに出ます。のちに京都に庵を構え、”愚庵”と称して歌人として一生を終えます。明治37年没。
2.
ご政道の裏を行く斬った張ったの一侠客でしかなかった清水の次郎長を現在のように時代劇のヒーローにしたのは天田愚庵が書いた「東海遊侠伝」です。
次郎長の死後に東海遊侠伝を元に講釈師の神田伯山の講談や浪曲師の広沢虎造による浪曲、さらに小説や映画などで面白おかしく脚色され、次郎長の物語は大衆の心をつかみました。
次郎長だけでなく大政、小政に森の石松、増川の仙右衛門、桶屋の鬼吉などの子分たちも侠客物語の名脇役として有名になりました。
次郎長は23歳から40歳を越えるまで馬定、甲斐の祐天、保下田の久六、都田の吉兵衛・梅吉兄弟、黒駒の勝蔵、穴太徳らとの死闘を繰り広げました。当然人殺しもしている凶悪な姿が真実だと思います。つまり、映画「仁義なき戦い」のように単なるヤクザの抗争なのですが、ここに”人情味溢れ子分に優しく愛妻家”というドラマ的な要素を加味して人心を掴んでいったのです。
3.
明治元年(1868)勝海舟、福沢諭吉らが渡米した際に乗った船として知られる幕府艦隊の咸臨丸が幕府軍脱走隊を乗せ北へ向かうために江戸湾を出航の際、銚子沖で嵐に遭って遭難、やむなく清水に寄港して船体修理を行っていましたが、新政府軍に発見され攻撃を受けます。咸臨丸の乗組員たちは捕虜となりますが、戦死者の骸は清水港に浮遊し、日が経つうちに異臭を発するようになりますが、新政府軍は死体処理を許可しません。これを知った次郎長は子分たちと一緒に死体を収容して手厚く葬ります。この1件によって山岡鉄舟と知遇を得たと言われますが、実は鉄舟は、それ以前から次郎長たちを”ボディガード”として雇っていて、鉄舟の命を受けて死体収容を実行したものだと考えています。
現在のように政治家がヤクザをボディーガードにしたり、邪魔者を消すための暗殺要員として雇うというのは幕末からのことだと思われます。徳川慶喜には新門辰五郎、松平容保には京都守護職時代に会津の小鉄という雑務要員が影に控えていました。山岡鉄舟には清水の次郎長ということです。
4.
明治7年(1874)、次郎長は山岡鉄舟と静岡県令の大迫貞清(薩摩藩士のち警視総監、沖縄県知事)の勧めで子分たちに静岡監獄江尻支所の囚人数十名(200名だったという説もあり)を引き連れて富士の裾野の開墾を開始しました。大迫からの助成金は2000円(今の200万円ほど)。開墾現場は現在の富士市大淵地区の広大な土地でした。大迫への報告として役人の佐田清は「皇国のためにと開け駿河なる、富士の荒野のあらぬ限りを」と詠みましたが、次郎長たちを激励した文章と理解されています。
次郎長は開墾地に小屋を建てて開墾の準備を整えました。準備が終わると次郎長は囚人たちに向かって「これからお前たちの鎖を外すが、一人でも脱走する者があれば、全員を監獄に戻す」と言い聞かせました(恫喝した?)。ただし、鎖を外された者は全員ではなく凶悪な囚人は2人ずつ鎖につないで労働させました。役人の小屋と囚人たちの小屋は離れたところに建てられ、囚人の小屋の周りでは竹で塀をめぐらし、竹の先には鈴が付けられ脱走の際には鈴が鳴るようにしました。数ヶ月は脱走者は出ませんでした。「さすが次郎長だ」と言われましたが、囚人4人が脱走したことで囚人たちは全員監獄に戻されることになりました。
以降は次郎長一家と地元百姓たちの請負で開墾は続けられ、開墾地にはお茶や桑などが植えられていきました。次郎長自ら鍬をふるい、女房のお蝶も彼らと寝食を共にしました。
5.
明治11年(1878)山岡鉄舟は次郎長に青年を紹介しました。のちに「東海遊侠伝」を書く天田五郎(愚庵)でした。その3年後の明治14年(1881)、五郎は次郎長の養子となって、富士の裾野開墾の現場を監督することになります。
しかし「元より無頼懶惰(ぶらいらんだ)の博徒どもなれば、畑うち耕る骨折に堪えず、果ては逃亡する輩さえあり、特に極めて痩地なれば穀菜多くは生育せず」と五郎が後年に出版した自著「血写経」で述懐するように、いくら次郎長の養子といっても、まだ若くて生意気な五郎を心良く思わない子分が多く、開墾監督は思うようにいきませんでした。
開墾事業は経済的にも厳しく、五郎は何度も次郎長あてに金の催促状を送りますが、次郎長の方も金策がうまくいきませんでした。
そして、明治17年(1884)、ついに五郎は開墾の中止を次郎長に伝えます。明治7年から17年までの10年間に次郎長や子分、五郎たちによって開墾された富士の裾野の土地面積は、76町3反歩(約75万㎡)にのぼりました。開墾された土地は明治21年(1888)に官有地から、民有地への払い下げが許可されました。
開墾地は、かつての陸地測量地図に「次郎長開墾」と地名が留められただけでなく、地元住民の強い要望で「次郎長町」の町名も付けられました。開墾地には次郎長や子分に五郎らが植えた柊やお茶が100年の風雪に耐えて葉をつけているのです。
次郎長は富士の裾野の開墾後も精力的に多彩な事業に関係して、多くの人間とも交流しました。明治26年(1893)山岡鉄舟に遅れること5年、次郎長は波乱に満ちた生涯を閉じました。
榎本武揚は次郎長の妻、お蝶の懇請によって「侠客次郎長の墓」と墓碑銘を書き与えたのです。
………………………………………
1686年に僕が川崎重工さんの社内広報誌「ちゃれんじ」に書いた記事を修正しました。当時は次郎長の兄、佐十郎の子孫にあたり、当時、次郎長生家を管理されていた服部令一さんに取材し、レンタカーで夕方の次郎長開墾地まで行って、写真を撮りました…懐かしいですね。写真はその広報誌です。
"10年間に富士の裾野76町3反部(約75万㎡)を開墾した大侠客 清水の次郎長"へのコメント 0件