女性刑務官が乱暴に扉を叩く音で目が覚めた。
柴崎は収監当初から因縁浅からぬ刑務官だ。私はゆっくり起き上がると、鉄格子の隙間からゴミを見下ろす目つきの柴崎を睨み返してやった。
柴崎が手にしている特殊警棒。あれで何度身体に痣をつけられたか、もう数えるのもやめてしまった。
「一七二号、面会だ。出ろ」
私は柴崎を焦らすようにわざとゆっくり起き上がり、眠気を追い出すように首をひねった。
「早くしろ、一七二号」
苛立ちまぎれの声が監房に響く。私は牧田真希子だ。一七二号なんかじゃない。その台詞を喉元で噛み殺すのももう天文学的な回数に達するだろう。錆びついて軋む蝶番の音とともに監房の扉が開く。もう一度、ベッドから立ち上がりながら上目遣いに柴崎を睨みつけた。
「それで、砧区の雰囲気は?」
「柳はない。桜はあるけど、何とかなろう」
私と多胡の会話は基本的に暗号だ。一介の開業整体師に過ぎない老人が、世にも有名な『安野日出明監督刺殺事件』の首謀者であり目下懲役十年の刑に服している私に面会に訪れているのを訝る人もいよう。ちなみに多胡を知る人はみな彼を『ノスタル爺』と呼ぶ。T女子刑務所に収監されてから三年、私は多胡と粘り強く計画を立てていた。
(以下、暗号会話は復号して記述)
「何とかなるって、どうやるの」
「医務室にいる看守は毎晩九時四十五分から十五分間、ラジオ英会話を欠かさず聞いている。その間なら部屋の隅っこを通り抜けるくらい造作もないだろう」
「そんなに上手くいくもんか」
「色々考えてみたが、他に案はないぞ。T女子刑務所の警備に隙はない。これが最も成功率の高い脱獄ルートだ」
私は溜息をついた。どんなリスクがあろうとも、ここを出られるならそれは冒す価値のあるものだ。
「それにしても」多胡は無精髭を撫でながら言った。「真面目に勤めてりゃあと数年で仮釈放だろうに、どうして脱獄なんて……」
「私はあいつを許さない」私はきっぱりと言う。「私を逮捕したあの坂本って刑事。ここを出たら、あいつの奥さんと子供を目の前で殺して、あいつは生皮を剥ぎながらなぶり殺してやる」
多胡は椅子から立ち上がった。
「本の差し入れをしておいた。余白にレモン汁をかけろ」
それだけ言うと、『ノスタル爺』は脇に控えていた女性刑務官に頷き、面会室を出て行った。
昼食時間、私は『保健室』の隣にトレイを置いて椅子を引いた。
「ここ、いいかい?」
蒼い顔をした『保健室』は私を見上げ、「うん?」とだけ言って食事に戻った。『保健室』という渾名は、ひどく病弱でしょっちゅう医務室のお世話になることから付けられた。刑務官は彼女を三〇五号と呼ぶ。本名は知らない。
「明日の夜、具合が悪くなる予定はないかい?」
私は『保健室』の隣に腰掛けてから訊いた。
「いいよ」
彼女はこうやって、他の受刑者からの依頼でしばしば仮病を使う。受刑者の急変に居合わせた他の受刑者は、刑務官の指示で医務室への搬送を手伝わされるからだ。『保健室』に仮病を依頼する受刑者の動機は様々だ。単に刑務作業をサボりたいだけだったり、医務室でどさくさに紛れて薬品をくすねる目的だったりする。今日の私はそのどちらでもなかった。
飲み物にレモンティーを選んだ私は、囚人服の裾に冷めたお茶をこぼす。その様子を見て見ぬふりの『保健室』は黙って食事を続けた。
独房に戻った私は、差し入れの本が置かれているのを見つける。『ベルサイユのばら』単行本九巻だ。なぜオスカルが死ぬ実質最終巻の八巻ではなく、後日談にしか過ぎないマリー・アントワネットが処刑される九巻なのか、多胡の意図を測りかねる。私は机に向かうと、気を取り直して囚人服の上着を脱いだ。裾に染みこんだレモンティーが乾かないうちに、漫画本の周囲を濡らす。
いくつかのページの余白部分に、青い文字や図形が浮かんできた。それらをつなげると、刑務所の見取り図が完成する。細かい文字で、看守の巡回経路や巡回時刻などが詳細に記されている。多胡の言ったとおり、医務室に常駐している看守が唯一の難関だった。
「ラジオ英会話……ね」
私は苦笑した。こんな場所で働く看守が、何のために英会話など勉強するのか。
記憶はパリで過ごした夢のような六年間に飛ぶ。私が一番輝いていた時期。華々しい将来が約束されていたはずだ。そんな私のフランスへの憧れを形成したあの素晴らしい物語を土足で踏みにじった安野日出明。『シン・ベルサイユのばら』などと称して平然と原作レイプをやらかすアニメ監督。あれは天罰だ。天の声を聞き、それを遂行しただけなのに、坂本は私に手錠をかけた。絶対に許さない。
私はむき出しの肩を怒りに震わせて、レモンティーで濡れたページを握りつぶした。
「刑務官を呼んで! 『保健室』が!」
私は叫んだ。『保健室』は身体をくの字に曲げ、もともと蒼白な顔をさらに白くして苦悶の表情を浮かべている。堂に入ったものだ。仮病と知っていても心配になるくらいの、迫真の演技である。
「なんだまた三〇五号か」
たまたま居合わせた刑務官は柴崎だった。私は内心舌打ちしながらも、『保健室』の容態を見る振りをする。
「一七二号、三〇五号を医務室に運べ」
柴崎は特殊警棒を片手に、顎で私に指示を飛ばす。私は『保健室』の細っこい身体を肩に担ぐと、柴崎のあとに従って歩いた。医務室は監房区を出て管理棟に入り、突き当たりに消火栓のある廊下を曲がった奥にある。
「今何時だい、柴崎さん?」曲がり角の手前で私は訊いた。
「刑務官と呼べ!」柴崎は言いながら腕時計を見る。「九時四十五分だ」
私は角を曲がると、『保健室』の身体を放り出して後ろから柴崎に襲いかかる。完全に不意打ちを食らった柴崎は私の肘鉄を後頭部に受けて倒れる。警棒を奪った私は柴崎を十回ばかり打ち据えた。目の上に痣をつくり、鼻血を流しながら柴崎はなおも抵抗を試みるが、私が消火栓から消火ホースを引っ張り出して柴崎の身体を縛ると、ぐったりして私を恨めしそうに見上げた。
「こんなことして、ただで済むと思うなよ」
私は警棒を片手に唾を吐いた。
「助けが来る頃には私は塀の外さ。残念だったな」
『保健室』は私に振り落とされて身体を打ったらしく、痛みを訴えている。
「すまなかったね、『保健室』。助けが来るまでここで静かにしといてくれ」
私は医務室に急いだ。ここが最大の難関だ。医務室に詰める看守はラジオ英会話に夢中なはずだ。音を立てないように部屋に入り、奥の排水口から出ていけばいい。私は漫画本の余白に青い線で浮き出した図面を頭の中で呼び起こす。刑務所の外に通じる無数の排水口のうち、人が入れる太さがあるのはこの医務室のものだけだ。
ドアをそっと開け、隙間から中の様子を窺う。
「みなさ~ん、今日もラジオ英会話へようこそ。Welcome to Radio Eikaiwa. 講師は私、Tsunoda Hidekiと――」
「David Hoermann」
「Christine Andersonデス」
看守は机に向かい、大音量のラジオに聴き入っている。私はそっと身体をドアの隙間へとすべり込ませ、部屋の端の暗がりを慎重に進む。あと二メートルほどで、排水口だ。そのときだった。
ラジオ英会話の音が急に途切れ、アナウンサーの緊迫した声が割り込んできた。
「ラジオ英会話の途中ですが、ここで臨時ニュースです。F刑務所から殺人の罪で服役中の囚人が脱獄しました。繰り返します――」
看守がガタッと立ち上がった。金縛りに遭ったように動けない私と、看守の目が合う。逃げなければ。私は思い出したように排水口へと走り出すが、追いすがってきた看守に取り押さえられた。
「脱獄だ!」
看守が叫び、無線機のスイッチを入れて呼びかける。私は看守の腕を振りほどいて目の前数十センチのところにある排水口へ逃れようとするが、叶わない。
「繰り返します、F刑務所から殺人の罪で服役中の牧田常典(三十六歳)が脱獄しました。牧田常典は元S県警の警察官で、同僚の警察官を殺害した事件で有罪となり、服役しています。F刑務所の周囲では警察が厳戒態勢を敷いており、F市の各所で検問を行っております。市民の皆さんは安全のため、屋外に出ないようにお願いします――」
お兄ちゃんが……私は耳を疑った。刑務所に収監されてからは魂が抜けたようになってしまった兄。その兄が一人で脱獄など企図できるわけがない。必ず、外に協力者がいるはずだ。
協力者?
私の脳裏には無精髭を生やし、下卑た笑いを浮かべた老人の顔が思い浮かんだ。そんなことができるのは一人しかいない。『ノスタル爺』め、最初からこのタイミングを狙って、お兄ちゃんを――
私は、多胡が差し入れの本に『ベルサイユのばら』の九巻を選んだ意図を、今知った。
「よくもやってくれたな、一七二号……」
応援の看守たちとともに医務室へ駆けつけた柴崎が、看守に押さえつけられた私の姿を見て言う。
やっとのことで排水口に頭を突っ込むまでに進んだ私だが、看守に身体をがっちりと掴まれて動けない。
その姿は、さながら断頭台に頭を据えられたようでもあった。
退会したユーザー ゲスト | 2022-03-22 22:39
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ヨゴロウザ 投稿者 | 2022-03-24 23:47
『ノスタル爺』も『ベルサイユのばら』も名前は知っているのですが読んだことがないので、読んでいれば意味がわかって面白かったのだろうなと歯がゆい思いをしました。けれど皆さんシリーズ物のネタをお持ちでいいですね。自分もシリーズ物というか同じ名前の主人公が出てくるやつとかやってみたくなりました。
小林TKG 投稿者 | 2022-03-25 22:24
今更なんですけども、シンベルってハリウッド版ドラゴンボールみたいな感じで思う、考える、処理するっていう事は出来ない。出来なかったんですかね?安野さんだし的な。
生皮剥ぐとか言ってるけども。まあ出来ないか。生皮だって剥ぎたいよね。
大猫 投稿者 | 2022-03-26 19:46
真希子の大脱走、なんとノスタル爺に嵌められるとは。ラジオ英会話をこう使ったかと感心させられました。もしかしたら真希子ならやってのけるかもと期待したのですが、もう少しというところでやってくる破局、鮮やかでした。
しかし「事故物件」から続けて読んでみるとどうもノスタル爺の意図がよく分かりません。兄貴の方は模範囚だろうし妹の代わりに入所したのだしで、脱獄しなくたって間もなく刑務所から出られたのではないですか。それとも中断ニュース自体がノスタル爺の仕組んだ罠?
あと、「ベルサイユのばら」第九巻は後日談というのは違っていて、マリー・アントワネットの最期こそがあの作品の主題です。真希子さん、そんな心がけだから脱走に失敗したのですね。
Fujiki 投稿者 | 2022-03-27 20:53
オチがよく理解できなかった。妹の脱獄を手伝っていたはずのノスタル爺は、実は兄の脱獄も手伝っていて、別の刑務所にいる兄を妹よりも少し早い時刻に脱獄させた。そうすることでラジオ英会話の放送を臨時ニュースで中断させ、妹の脱獄を失敗させることが爺の真の策略だった、ということ? なんでそんなことする必要あるの? 爺のなかで両方を助けたくない理由が何かあったのか? それとも兄妹は不仲で、兄から妹をはめるように依頼でもあったのか?
古戯都十全 投稿者 | 2022-03-27 21:20
このシリーズ全体が、ノスタル爺とはいったいどういう人物なのか、その存在に近づきそうでなかなか近づけない、そういった焦らし効果でぐいぐい読ませる感じになっている気がしてきました。
真希子は前作でピアノyoutuber殺人事件の事故物件であるピアノを落札して動画まで撮ってアップしているので、その殺人事件の容疑者だったノスタル爺にとってはそれによって何か都合の悪いことになる前に、脱獄を手助けするふりをして真希子を陥れた、と読みましたがどうでしょうか。
まだまだ続きそうですね。
曾根崎十三 投稿者 | 2022-03-28 11:41
やや尻切れトンボなラストだったので「これは『次回に続く!』的なやつかな」と思ってました。とらいえ、お兄ちゃんは確か無罪じゃありませんでしたっけ? だからノスタル爺はお兄ちゃんの方を助けたのかなと思いました。
私もですがラジオ英会話あんまり関係ないですね。このシリーズの混沌とした感じとは合ってるのかもしれませんが。
松尾模糊 編集者 | 2022-03-28 13:55
ノスタル爺を中心に全てが回っている感じですね。そろそろ始まりがおぼろげになって来たので、完成させてミステリ系の賞を狙いましょう!
波野發作 投稿者 | 2022-03-28 16:45
監獄ファンタジーというジャンルがあるとすれば、これはその作品であると思われる。無駄に細かい設定と、ノスタル爺の真意がわからないままに終焉を迎えにる投げっぱなしスープレックス的な作品。アホみたいに考えたことを全部書くのではなく、謎と余韻を残すという点で、今後流行するスタイルではないかなと思います。
Juan.B 編集者 | 2022-03-28 20:19
ラジオ英会話を、脱獄でこう処理するとは。ベルばらもそう使ってもらって嬉しいだろうな。興味深く読み進めた。