「いっつも思うんだけど、あたし、何を書けばいいのか、さっぱりわかんないの」佐田さんが
机の上の自分のアルバムを閉じたり開いたりしながら言った。清弘は「今日も同じこと言って
る…」と微笑みながら「なんでも書きたいことを書けばいいんですよ。子供の頃のことでも結
婚した当時のことでも、今日のことだって書いていいんですよ。あとで生まれた時から現在ま
でを並べ替えちゃえばいいんですからね」とできるだけの笑顔を作って答えた。
佐田さんは今年で71歳になるという。この可長谷カルチャースクールでは僕の講座以外にも「
水彩画」に「古典読書」などの講座を受講するカルチャープロだ。カルチャープロというのは
カルチャースクールで長年にわたって複数の講座を受講している方のことを言う。もちろん、
僕の勝手な造語だ。
「絵でも文章でも、たくさん書きたいことがあるんだけど…」と佐田さんは鼻を人差し指で掻
きながら照れたように呟く。佐田さんはカルチャープロだし、いずれの講座も器用にこなして
いるようだから生来の芸術家なのだ。だからこそ瞬間的な好奇心が働いて、自分のどの時代を
クローズアップしたいのかがわからなくなるらしい。
「佐田さんは器用だから迷うんですよ。その場、その瞬間で書きたいものを書く。絵だってそ
うですよ。もうテキトーにいきましょうよ。あはははは…」
「うん…だけどねぇ~」佐田さんはまだ迷っているらしい。時計を見ると講座終了間近になっ
ている。僕は慌てて「ね、佐田さん、今日はもう終了時間だから、これぐらいにして、次回提
出してもらう課題を出しますね」自分史の講師としての僕は、受講生の文章力向上も必須なの
である。
「え…うーん、うん、いいですよ。で、先生、何を書けばいいの?」
「うーん…」自分で言っておいて迷っちゃう。困ったものだ。しばらく考えていると佐田さん
が机の上に出したアルバムやら日記帳やらをカバンにしまいながら、こちらを凝視している。
照れちゃうじゃないか。
「うーん…よし、それでは”私と絵”にしましょう。佐田さんが何故絵を描くようになったの
か?画力向上のために何をしてきたのか…を短い文章にしてきてください」
「うーん…なんだか、ぱっとしないテーマだけど、いいわ。先生、短くていいんでしょ?」
「えええ!面白くないですか?でへへへへ…。我慢してくださいよ。佐田さんの芸術性が垣間
見える文章をお願いします…。うん、短くっていいですよ。ほんじゃ、また来週お願いします
ね」
「はい、はい。じゃ先生、またねぇ」佐田さんはニットの帽子を頭に乗せて、布製のカバンを
肩にかけるとパパッと女子高生のようなスピードで教室を出て行った。
教室を出ると、スクールの店長が僕を恨めしそうに見ている。僕の講座に佐田さん一人しか受
講していなからもっと講師自身が努力してみろよってな視線である。しかし、痩せすぎてはいるが、店長はなかなかの美人である。あ、そうだ。007に出てくる悪女スパイみたいな感じだ。冷酷な表情は人を2~3人は殺めていそうな感じである。う~ん…何か意地の悪いことを言われそうなのでここは早めに退散しようと出口に向かって歩きながら「あ、店長、こんちは。ほんじゃ失礼しまぁ~す!」と愛想をふりまきながら挨拶すると、店長の口が開いた。
「あ、ちょっと待って、異能さん…」
「あ、何ですか?」
「あのさぁ、あなたねぇ受講生さんを集める気があるの?」
「え?僕が集めるんですか?」
「あったりまえじゃないの。あなたの講座が面白くないから受講生さんが増えないのよ。今月中に2人は受講生見つけなさいよ。受講生さんが増えないとあんたの講座、打ち切りだからね」
店長、腰に手を当てて仁王立ちで怒っている。どうやら本気のようだ。
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