「パクチーください」
「は?」
イェナとの最初の会話は「パクチーください」だった。大阪で発生したZXは3日後に名古屋に到着し、一週間で東京に蔓延。三週間後にはこの田舎町でも流行の兆しがあった。工場でたまにすれ違っていただけのイェナは、外国人寮に住み込みで働いていたが、寮がZXで全滅しかけて慌てて逃げ出し、俺のアパートに転がり込んできたのだ。薄暗い玄関先でイェナは言った。
「パクチーありますか」
「パクチーない」
「ないですか? ニホンジンみんなあるはず」
どこ情報だよ。何年か前にテレビだかSNSだかの影響でアホみたいに流行ったが、今どきはそんなに売ってるのを見ない。もう流行ってはいない。
「何かの間違いじゃないのかな」
「マツガイですか残念」
「ごめんね」謝る必要はこれっぽちもないが、なんとなく謝っておいた。あわよくばこの女を抱けたらいいと心のどこかで、いやここそこで考えていたからだろう。こことそこ、あちこち。こちこち。
「パクチーはスーパーかアジアンレストランにあるよ」
「そのパクチーちがう。あー、あーワーク、ワクティン?」
「ワクチン?」
「そうソレ。ある?」
「あるよ」
ZXワクチンは自治体の手配で全住民に配布されたから、うちにもある。1本目を自己接種キットで打ったので、あと1本しかないが、あるにはある。住民票のない彼らには届かなかったようだが、俺にはあった。しかし、2本目を明朝になってから打たないと、確実には効果が発生しない。これをこの女に授けるわけにはいかなかった。
「ごめん自分の分しかないんだよね」
「あー。ニホンゴチョットワカリマス」
「わかる?」
「シカナイ、それはつまりアルってことですヨネ?」
イェナは後ろ手に隠していたモノを思い切りオーバースローで振り下ろしてきた。俺はとっさに手にしていた金属バットで受け止めた。ガインッとキツめの衝撃音がしてイェナの動きが止まる。振り下ろされたモノがなにかを確かめている余裕はなくそのままバットごと横に振り払うと、イェナのナタは刃が俺のバットに食い込んだまま彼女の手を離れ、壁に当たって床に落ちた。ガゴゴンと俺の足元に転がってナタの峰がスネに当たる。少し痛いが、刃側ではないのでマシだった。ナタはすでに結構な血がついていて、よく見たらイェナの茶色っぽい柄のTシャツは血染めであり、顔が薄汚いのかと思ったのは返り血で汚れているだけだった。俺はとっさにナタを踏み、バットを突き出してイェナを牽制した。
「あ、チョット手がスネリマシタ」
「動くなよ。ドントムーブ」
イェナはブンブンと首を振る。これはイェナの母国では同意のジェスチャーだ。前に工場で揉めていたのを見たことがある。
「ワクチンは、あるが、お前の分は、ナイ。わかるか?」
俺はゆっくりと言葉を切りながら俺とイェナの置かれた事情を端的に説明した。
「イッポンダケ、ください」
「その一本だけしかないんだ。俺の分な。というか余分なワクチンはどこにもねえよ」
「早口ワカラナイ」
うそつけ。お前らヒアリングはだいたいできているじゃないか。都合の悪いときだけ通じないフリをするってことはわかっている。まあこれは人類種の万国共通世界統一仕様だから神様ってのがいるとしたら少し底意地が悪い。
しかし、玄関を解放したままこんなバンディットと睨み合っていても、そのうちはぐれZXが流れてくるかもしれないし、お互いにあまりメリットはない。丸腰で追い返そうとしても簡単には去らないだろうし、仮にナタを返したとして、ここにワクチンがあると知れた以上、一旦去ったふりをしてまた襲ってくる公算が高い。目を離すのは危険だと思えた。
「とりあえず上がれ」
「オジャマシマス」
イェナは後ろ手に扉をしめて、ご丁寧にロックまでかけた。俺はナタを拾って、バットと二刀流のような装備になって、警戒したまま後ろに下がりながら、イェナを誘導した。俺は格闘技経験がないが、この女にもないとは限らない。ナタでいきなり人を襲うような野蛮人であるから、なんらかの武道の心得がないともいえないが、もしあるなら初撃でなんらかの技で俺を無力化している可能性が高い。であれば、こいつは力任せに闇雲に凶器を振り回すだけのアウトローなのだろう。
俺はリビングでソファベッド(ソファモード)にイェナを座らせた。ファブリックが汚れそうだが気にしている場合ではない。俺はキッチンから丸イスを持ってきて腰掛けた。バットを置くかナタを置くか迷ったが、ナタの方をテーブルに置いた。バットのほうがリーチが長いからだ。仮にイェナがナタを奪いにきたとしても、バットを振り回せばホームランだ。あとイェナの国はサッカーバカしかいないので、こいつらのような野球を知らない民族は俺のバットをスポーツ用品として認識していない。凶悪な金属棍棒ぐらいに思っていることだろう。ナタを奪った時点で戦力差は歴然であり、本能的に自己の不利を悟っているからこそ、俺の指示に素直に従って、ソファにデカいケツを深々と沈ませているのだろう。
「お前は確かイェナと言ったな?」
「ナマエ、イェナ・フェヘイラ。アナタ同じ工場のヒトよ」
「わかっている。俺の名前は知っているか?」
「第3ラインのパクさん」
「ちげーよ。和久だよ和久。ワークー」
「ウァークーさん?」
「まあその方が近いか。ワクだ。和久カズヒサ」
「オー、カズーヒサ」
「カズでいいよ。その方が呼びやすいんだろ」
「カズー言いやすい」
電灯の下で見ると、だいぶ返り血を浴びたようで肌がカピカピになっている。俺はテーブルの濡れ布巾を放り投げて顔を拭かせた。アリガトと言ってイェナは顔を拭いたが、目線はこちらに向けたままだ。警戒しているのか、何かを企んでいるのか。さてここからどうしたらいいだろう。有利なようで俺は不利だ。この女とこのまま睨み合っていても埒が明かない。こちらもひとりだから、いつかは体力の限界が来て監視できなくなる。イェナは俺の監視下で眠れるのだから、先に休まれるとあとで目覚めて俺の寝込みを襲ってくるだろう。かといってこの女を拘束して眠った場合、ZXが襲来したときに対応ができない。味方同士であればどちらかが休みながら警戒を続けて、いつか自衛隊の救援が来るのを待つことができるのだが、現状は難しい。この対処は難しい。どうにかこの女を手なづけて手駒とするのが最善策と言えるが、言語の融通が不完全である状況で、どこまで意思の疎通ができるものだろうか。工場では男女トラブルが頻発していたから、そう簡単ではないことは童貞の俺でもわかる。日本の女にも相手にされなかったのに、こんなムチムチプリンボインボインのカーニバル女が俺など相手にするわけがない。あわよくばヤっちまおうなんて邪なことを考えるのは命取りであり死亡フラグに他ならない。俺は気を引き締めてふんどしを締め直しついでに兜の緒も締め直した。とりあえずこの女を追い返してから、そのケツとかのあったあたりに顔を埋めればそれで満足できる。ああできるとも。俺の妄想力はすごいんだぞ。
「カズー、オネガイですパクチーください」
「お前の分はないって言ってるだろ」
俺は今朝一本目を打った。二十四時間以降の二十四時間以内に2本目を接種しないと確かな効果は出ないと説明書にあった。だから今すぐは打てない。あとだいたい十二時間ぐらいはこうして睨み合っていないとならないのだ。
「それはキキました。わかります。でもわたしもホシイ」
「1本しかなくてもか?」
「アト1本でオーケーね」
そうか。どこかで人を襲ってワクチンを奪ってその返り血を浴びたということか。
「他にいけよ」
「ミンナおわっていて、もう誰もモッテナイね」
あ、くそ。届いてすぐ打てばよかったのに先送りにした結果がこれか。失態だ。あるいは最初にあるなんて言わなければよかったのだ。そしたら素直に他の家に向かったかも知れない。誰かを襲うために。
「イイジャナイ。わたしにパクチークレたら、ワタシあなた守るよ。わたし強いよ」
「どういうことだ」
「ZXいっぱい倒してきたヨ。寮に来たのはみんなツブした」
「ほう」
「ここに来てもみんな倒すネ。あなた安心。パクチーいらない」
「んんん?」
「わたしパクチーない、そしたら、わたしそのうちZXなる。あなたシヌ」
「ちょっと待て」
「あなたパクチーあっても、ZXのわたし倒せない、結局シヌ」
「待って」
「昨日イッポン飲んだ、今日もらって飲めばダイジョウブね」
「話が見えない」
イェナは立ち上がってズボンを下ろし始めた。急な色仕掛け!
「待ってくれ! そんな気はないんだ」
「チガウね。ここ見て」
イェナはケツをこちらに向けた、ノーパンかと思ったが、ただのTバックだった。プリンとした肉塊に無残な歯型がある。
「どしたの?」
「ZXにカマれた。早くパクチーいる」
「いやいやいや。待て待て待て。お前ワクチンの仕組みわかってねえだろ。ワクチンを解毒剤かなんかと勘違いしてるゼッタイ。噛まれてからワクチン接種しても遅いわ。そういうもんじゃない」
「早口ワカラナイ」
「あとお前、飲んだって言ってたな。飲んだのか? 意味ないだろ」
「飲むダメ?」
「説明書読めなかったか。そりゃそうか」
日本語読めても相当ややこしい説明書がついていたが、隣の婆さんも困って俺のところに聞きに来ていた。行政の仕事はいつもこうだ。とにかく今は俺がピンチだ。ZX化までカウントダウンのクソ女が俺んちのリビングでデカいケツを突き出して、ワクチンを無駄にしようと誘惑しているのだ。市長あんたはこの状況を想定していたのか。していないな。していたらワクチンを外国人労働者にも配布していただろうし、スペイン語だかポルトガル語だかロシア語だか知らないが、なんかしらの言語での説明書を添えただろうし、少なくとも英語版は用意しただろう。
イェナのケツの歯型の周りが紫色に変色して傷口は緑青が生えたようなエフェクトに変わっていた。ZX化がはじまったようだ。ZX化した細胞が血管を流れて脳に入ってしまえば、この女は心身ともにZXになり、辺り構わず暴れて俺を食おうとするだろう。早く拘束して首を刎ねるか、脳天に杭を打ち込むか、銀の銃弾を撃ち込むかしないと俺は助からない。いや、他にもう一つ方法があった。
俺は冷蔵庫まで下がり、中から座薬を取り出した。まだ規定の時間には早いが朝まで待ってはいられない。ケツを出している女の前で、俺はズボンとパンツを下ろし、自己接種型ワクチン座薬キットを菊穴に当ててトリガーを引いた。今朝と同じくダイナミックな衝撃とともにワクチン座薬は俺の直腸に打ち込まれ、若干の快感と抗体ゲットのアラートが脳内に流れるのを感じた。
「あ! オマエ! わたしのパクチー!」
「ああ、もうここにはワクチンはないぞ」
「ズル! ニホンジンみんなズル!」
「座薬食うようなアホはみんなZXになっちまえバーカバーカ」
「早口ワカラナイ!」
噛まれてもZXにならない体になった俺は、翌日から社会復帰し工場勤務に戻った。通勤時なんどかZXに襲われることはあったが、抗体のおかげでに何もなく、平穏無事に過ごしている。イェナはしばらくZXになりかけたり人間に戻ったりを繰り返していたが、1本分を経口摂取していたのが多少なりとも効果あったようで、今は人間のままで安定して俺の家にいる。俺の抗体入り体液が効くかも知れないというホラを真に受けて、盛んに各種手法での摂取を試みたのが功を奏したのかしれないが、現代医学ではその真偽は定かではない。座薬を食った口に抵抗があるので、まだキスはしていない。
END
千本松由季 投稿者 | 2021-05-21 02:58
新参者です。失礼いたします。
「破滅派」の投稿者さん達のクオリティーが高過ぎて、これから私はどうなるんだろう? という不安を感じております。
ワクチンを打たないと、クレイジーになるというパターンは他の人の作品にもありましたが、主要人物が外国人労働者であることは、個性的だと思いました。私はあまり暴力的なシーンは書かないのですが(時々は書きますが)、それも新鮮でした。
最後まで主人公が童貞のままなのは、ちょっと可哀そうかも知れないです。
鈴木 沢雉 投稿者 | 2021-05-21 04:45
イェナがちょっと陰を抱えた感じだったので、この話はカズヒサに100%感情移入していいものかどうか、かなり終盤まで迷いながら読み進みました。イェナがもっとパーリーピーポー全開な雰囲気だったら、カズヒサの童貞属性と対立軸を明確にできてまた違った読み味があったのではないかと思います。
わく 投稿者 | 2021-05-22 21:33
最後の一文にある主人公の抵抗感が、ワクチンが必要になった世界の殺伐さと、屈折した若者の感情を同時に表現しているように思いました。
小林TKG 投稿者 | 2021-05-24 06:34
随所にあるくどい感じが私には大変好みでした。
特に電灯の下で見ると~俺の妄想力はすんごいんだぞ。の部分です。くど面白い。最高ここ。気を引き締めてふんどしを締め直してついでに兜の緒も締め直したっていうのがたまりません。
締めまくるなあって思いました。
曾根崎十三 投稿者 | 2021-05-25 11:05
パクチーとワクチンって確かに似てるなぁと思いました。何か元ネタがあるのですか?
とんとん話が進んでどんどん読めました。
最後はしれっと童貞卒業したんだなと解釈してました。体液的な話で。
ソファの尻の跡で抜けるくだりが好きです。田山花袋じゃありませんが。
諏訪靖彦 投稿者 | 2021-05-26 00:21
「パクチーください」で直ぐにワクチンことだと思える絶妙な言葉遊び、続きが面白くないわけがないと読み進めました。座薬に若干の快感を感じるのはその手の経験が豊富な波野さんらしくてよかったです。
古戯都十全 投稿者 | 2021-05-26 22:11
主人公を襲いに来るのが保菌者でかつ外国人であるという、主人公にとっては二重に異質な他者である点がミソかなと思います。現実の社会的要素をうまく消化し、かつ笑いにもかえられる技を堪能しました。
座薬型のワクチンなど、アイディア満載なところもにくいです。
大猫 投稿者 | 2021-05-28 20:00
面白いなあ。
「パクチー」「ワクチン」のくだりで爆笑だし。
気を引き締めてふんどしを締め直してついでに兜の緒も締め直して、でも大笑い。
ナタとバットの一瞬の勝負も良いし。
ゾンビというかドラキュラになる病気は怖いけどワクチンがなぜか座薬だし。
語りと細部が面白すぎてストーリーはどうでもいいくらいです。
なんとなく幸せに暮らしているだけでもう十分です。
楽しませていただきました。ありがとうございます。
Fujiki 投稿者 | 2021-05-30 12:18
最高傑作。小ネタや言葉遊びを連発する手法は今回は特に磨きがかかっていて、一瞬たりとも読み手を飽きさせない。イェナがなんだかなんだ死ななかったのもジャンルの定石を外していてすごくいい。おまけに、外国人に配られないワクチンや日本人にもわかりにくい説明書など、行政の徹底した不手際への言及は現実の社会状況に肉薄している(ただ、最初から外国人を見捨てる政策であるのなら多言語にしないのはある意味当然なのでは?)。システムは弱者を切り捨てることにより、弱者同士の対立をあおる。一貫したノンポリエンタテインメントの中に珍しくクリティカルな側面を感じた。星5つ!
諏訪真 投稿者 | 2021-05-30 19:26
「噛まれてもZXにならない体になった俺は、翌日から社会復帰し工場勤務に戻った。通勤時なんどかZXに襲われることはあったが、抗体のおかげでに何もなく、平穏無事に過ごしている。」
いやその理屈はおかしい(真顔
というツッコミが思わず出るくらい破滅的にナンセンスさが溢れてて。
イェナを最後まで抹殺しなかった辺り、暗い方向にもっていきたくなかったのかなと思いました。
Juan.B 編集者 | 2021-05-30 23:24
パクチー、座薬飲用、と笑わされ、現実のコロナもこれくらいの勢いで乗り越えられないかと思わされる。と同時に、外国人を無視した市のワクチン政策に対し断固粉砕しなければならないとの思いを新たに抱くものでアリマス(拍手多数)。俺もイェナの図太さを見習いたい。